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 父親の振る舞いのせいで離れてしまった母親と娘の心の距離。お金を無心する母の声を聞くたびに縁を切ろうと思い詰めた娘が“悟った”こととは―。

「母は、私が小さいころはとても可愛がってくれたんです。でも、いろいろな“歯車”が少しずつズレ始め、まさかの毒親に……。そんな現実をなかなか受け入れられませんでしたが、自分の“死”が見えたことがきっかけで母と離れることを決意したんです」

いい子を演じていた学生時代

 こう語るのはピアニストの絵里香さん(仮名・49歳)。地方出身の絵里香さんは小さいころから成績が優秀。父親は教師、母親は小さな会社で事務職に就いており、両親の自慢の娘だった。

「私が初めて両親に反抗心を持ったのは、中学生のころに音楽クラブに入部したとき。両親は部活より勉強を優先して、国立大学の教育学部に進学し教師になってもらいたいと口にしていました。でも私は教師にまったく興味がなくて。当時はこの思いを両親に話しませんでした。両親の前では、いい子を演じていたのだと思います」

 10代のころは横暴な父に辟易していたが、そんな父は病弱で入退院を繰り返していた。

「父が入院するたびに母と6歳年下の妹と3人で外食したことを思い出します。まるで母子家庭のようでした。今思えば、母とはあのときがいちばんいい関係でしたね」

 両親の期待を一身に受けていた絵里香さんだったが、大学の進学先について衝突する。

「高校のころからジャズに心酔してジャズピアニストになりたかったんです。でも、音大への入学は実技の面などで難しいので、芸術学部のある私立大学への進学を希望すると、親から猛反対されました」

 母親は経済的な面から国立大学への進学をすすめてきた。理由は、父親が生活費をあまり家に入れず、お金がないからだという。絵里香さんは高校を卒業後、東京近郊の国立大学に進学。すると母親から“公務員になって実家の家計を支えてほしい”と懇願された。

「私が大学進学のために上京してから、妹は父からDVを受けるようになりました。私は母に父と妹を離したほうがいいと助言しましたが、母は首を縦に振リませんでした。後からわかったことは、世間体を気にしていたんです。母親失格だと思っています」

 妹は高校を卒業すると、父親から逃げるように関東地方の温泉宿に就職。そんな妹のことも気がかりで崩壊寸前の実家と縁を切ることができなかったが、絵里香さんは自分の人生だと思い、夢を諦めるつもりはなかった。

「大学時代はバイトをしながらジャズピアニストの先生に師事して、いつか願いを叶えようと頑張っていました。でもひとまず、母親の願いを聞いてあげたほうがいいと思い、公務員試験を受けたら合格したんです」

「公務員になって」その言葉の真意とは

 しかし、公務員の就職が決まると、考えもしていなかった言葉が母親から飛び出した。

「東京にマンションを買って」

 この言葉で母親が自分に求めていたのは、お金だけということにやっと気づいた。だが当時は、母親とのことより仕事のことで余裕がなかった。

「配属された部署で精神的な重圧と、人間関係で悩むようになって……。何度も異動願を出しましたが叶いませんでした。ピアノのレッスンも仕事との両立が難しくなり、有給休暇をまとめてとってレッスンを受けていました」

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 だが30歳を目前に心労がたたって退職。それがきっかけで「人生はいつどうなるかわからない。それなら好きなことをやろう」と演奏の仕事を探し、やっとのことでピアノバーでの仕事が決まった。ところがそのころから、母親に毒親化の兆候が出始めたのだ。

「母は私が生活の安定より、好きなことを選んだことに対して怒ってきました。電話をかけてきては“あんたは弱い。なぜ我慢できずに仕事を辞めたの?”と責めるようになったんです」

 それから1年後、母の毒舌ぶりがヒートアップしていったのは父親が投資で失敗し、全財産を失ってからだった。父親は精神を病み、入院した。

「父の入院中、母は電話で父に対する恨みつらみを一方的にしゃべりまくりました。母の愚痴を聞くのも長女の務めと我慢していましたが、電話が終わると頭痛や腹痛が起こり、自分をケアするのが大変でした」

 次第に母親からの電話に耐えられなくなり、友達に愚痴をこぼしていた絵里香さん。だが友達からは「どうしてそこまで我慢しなければならないの。私なら親子の縁を切る」とあきれられたという。

 絵里香さんは友達の言い分はもっともだと思いながらも、母親を見捨てることはできなかった。このころから誰にも母親のことを相談できなくなっていく。

ストレスが重なって緊急入院

「私だって、自分の幸せを夢見ました。結婚を考え、男性と交際するたびに、母親のことを打ち明けようと思うのですが、どう伝えたらいいかわかりませんでした。父のことも話せず、関係が深くならないうちに相手との別れがやってくる。この繰り返しでした」

 そして入院から10年後に父親が亡くなると、母親の毒親ぶりがさらにひどくなる。

「母親は“長女なら父親の葬式代を払うのは当たり前だ”と、ヒステリーを起こして私に絡んできました。絶句している私に“払えないなら戸籍から除籍する。実家に帰ってくるなら30万円くらい持ってこい!”と怒鳴ってきました」

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 逃げるように東京に戻った絵里香さん。父の葬儀でわかったのは、母の外面のよさと、娘たちに対する真逆な態度だった。そして、絵里香さんを悩ます問題がまたひとつ増えた。

「妹は父が入院中に実家に戻っていました。務め先が倒産し、次の仕事先でいじめに遭って、妹はそれ以降ひきこもりになってしまったんです」

 父親の死後、妹は人が変わったように母と一緒になって罵詈雑言を絵里香さんに浴びせるように。絵里香さんは母親だけでなく妹とも距離を置こうと決めたのだが─。

「ピアノバーのオーナーが急死してしまい、閉店に。失職してしまったので、次を探している最中も、母親から罵詈雑言の電話が鳴りやまなくなって……。とうとうストレス性の突発性難聴を患って緊急入院しました」

 突発性難聴は演奏家にとって致命的な病気だった。失意のどん底にいた絵里香さんを、母も妹も助けてくれなかった。

「お見舞いに来てくれた友人やファンの励ましのおかげで、1年後には奇跡的に治りました。ところが貯金が底をつき、生活保護を受給することに。でも受給担当者が複数回、経済的援助が可能なのか、と母に手紙を出してくれたのですがスルーされていました」

お金の無心を続ける母との“訣別”へ

 親族との関わりが希薄ということが認められ、やっとのことで生活保護を受給できるようになった絵里香さん。ところがさらなる試練が訪れる。

「仕事が決まり、やっと自立できると喜んでいたときに、子宮がんが判明したんです。ステージ2でした。手術が決まったので母に知らせましたが病気を気遣う言葉もなく、保険の受取人の名義を母親に変更せよ、と命じるだけのはがきがきました」

 絵里香さんが突発性難聴を患ったとき、病院に預けていた入院保証金を根こそぎ持っていった母親。がんだとわかったときも、絵里香さん名義の生命保険の満期が近かったために、絵里香さんが満期時に受け取れる全額を自分のものにしようとしていた。また、追い打ちをかけるように妹から、

「お金を母が支払ってきているのだから、名義変えするのは当たり前」

 という母親の主張と同じ内容の手紙がきたという。

「涙があふれてきました。満期で受け取れる保険金を自立のために使い、保護受給を停止するつもりだったんです。だから、これだけは譲れませんでした」

 ところが母から保険金を渡せという電話が1日に50件以上、それが1週間続き、絵里香さんは恐怖を覚えた。

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「生活保護の担当者に電話で相談しました。すると“あなたの将来のためにお母さんと距離を置くほうがいいと私は思うわ”と背中を押してくれて。光が見えてきました」

 子宮がんの治療が終了し、経過観察になり、さらに絵里香さんを孤独から救ったのは、里親会から譲り受けた猫だった。

「仕事が見つかり、生活保護受給が終わって、新しいアパートも見つかりました。一緒に住む猫もいますし(笑)。でも賃貸契約時に連帯保証人になってくれる親族がいないため、家賃保証会社の審査を受け、やっと引っ越しができました」

 さまざまな事情で家を借りられない人にも、救いの制度があることを知った絵里香さん。感慨深くこう思う。

「最近、母は病んでいるのだと達観できるようになりました。今は妹のことが心配です」

 母から罵倒されることのない、平穏な日々を取り戻した絵里香さん。親子は離れられないという宿命があるが、離れて暮らすほうが互いに幸せだということもある。


取材・文/夏目かをる