宮本亞門(64)来年2月からは、自身が演出を手がけた舞台版『画狂人 北斎』が全国各地で上演予定

《宮本亞門は知っている》

 '90年代、ネスカフェゴールドブレンドのCMで“違いのわかる男”として名を広めた演出家の宮本亞門(64)。

 これまで120本以上の舞台作品を担当してきた彼の幼少時代は、決して順風満帆といえるものではなかった。

暗い幼少時代、心を開けた場所は

「とても暗い幼年期でした。人見知りで、幼稚園、小学校と人の目を見るのが怖く、社会の中で生きていくことに対してまったく自信がなかったんです。両親が劇場の前にある喫茶店を営んでいましたが、演劇という華やかな人がたくさんいるような場所に、自分が足を踏み入れることは無理だなと」

 しかし、劇団のダンサーでもあった母親の影響で、劇場へと足を運ぶようになった。

「何度も観劇しているうちに、演劇には現実を忘れられる瞬間や未来を語ってくれる希望もあることに気づいて、いつのまにか劇場が僕にとって聖域のような場所になったんです。ここにいれば、自分の心を開くことができると。

 高校生のころはひきこもっていた時期もありましたが、そのときに映画を見たりレコードを聴いたりして、この素晴らしい世界を自分の手で創り出したいという思いが芽生えて演出家を志すようになりました。周りからは“おまえこそ、気が弱くていちばん演出家に向いてないタイプだ”と言われましたけどね

演出家の夢を追いダンサーに

 社会に適合できるかという恐怖心を抱えながらも演出家になる夢を追い続け、1978年には“ダンサー”としてデビューを果たす。

演出家から最も近い場所で現場を勉強したかったので、ダンサーになったんです。稽古では誰よりも遅くまで残り、演出家はどんな言い回しをすると役者に意図を伝えられるのかをじっと観察していました。NHKの『紅白歌合戦』のバックダンサーのオファーをもらったこともありましたが、“演出家になりたいので”とお断りしたら、ひどく怒られたのを覚えています」

 ダンサーデビューから9年後の1987年、自身が制作・演出を担当した『アイ・ガット・マーマン』で、ついに演出家としての初演を迎えた。しかし、初日の観客は、150人入る劇場の半分も埋まらなかった。

「友人も見にきてくれましたが、前列の真ん中の席で開演してすぐ寝始めたんです。華々しいスタートでは全然なかったですね」

 それでも、初日の評判が関係者の間で広まり、2日目には満席、3日目には立ち見席が出るほど大盛況に。

『アイ・ガット・マーマン』はその後ロングラン公演を実現し、これを機に、演出家としての活動の幅を大きく広げたのだった。

 今年で演出家デビュー35周年を迎えるが、ここまで長く続けてこられた秘訣を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「いい意味で、僕はいつ人生が終わってもいいと思っています。'19年に前立腺がんが見つかったときは不安になりましたが、思い返してみれば、周りの人が突然死んだり、自分がタイで交通事故に遭って瀕死の状態になったり、死はそれほど遠くない存在だったなと。生きているというのは、誰だっていつ死んでもおかしくないという意味でもあると強く自覚するようになりました。だから、人生を逆算せず、一瞬一瞬に集中して生きるようにしているんです」

デビュー直前に亡くなった母親

 演出家はさまざまな人の人生に向き合う仕事でもある。宮本はその過程で死生観を学んだが、特にダンサーデビューの直前に亡くなった母親の影響は大きいという。

「デビュー初日、僕はおふくろが亡くなった悲しみでいっぱいでしたが、舞台の上ではお客さんに最大限の笑顔を振りまいて歌って踊っていた。時間がたてばたつほど、最高のタイミングにおふくろは亡くなったと思います。こんな甘えん坊で自立できない気の弱い男に、ここでいかなきゃどうするんだって背中を押してくれたようでした。尊敬していたおふくろにバトンタッチしてもらったからには、生半可に生きている場合じゃないぞと思えたんです」

 昨年6月には、“子どものときは憎かった”と語っていた父親を見送った。

「親父はとにかく女性と金にだらしなくて嫌いだったんですが、おふくろが亡くなった後、偉そうだった親父が急に小さく見えてきちゃって。自分に全然自信がないから威張っていただけなんだと、気づいたんです。それに、迷惑かけられてばかりでも、やっぱりおふくろが愛した男だったんですね。僕が面倒見てあげなきゃなと思って、晩年は一緒に旅行して、お互いに愛しているよと声をかけ合う恋人みたいな関係でした(笑)

 両親だけでなく、親しかった人物との別れの影響も大きい。そのひとりが神田沙也加さん。宮本は、神田さんのミュージカルデビュー作の演出を手がけ、プライベートでも親交があったという。

「悔しかったというか、神田さんは何事にも入り込んだら突き進むタイプだったのでショックでした。オーディションで出会ったときも、自分が松田聖子さんの娘だということを隠して来た。合格してからも何度も、聖子さんの娘だから選ばれたわけじゃないってことを僕に確認してきましたね。

 やっぱりそれほどお母さんのことを尊敬していたし、そのぶん超えられないんじゃないかという不安があったのではないかと。素晴らしい才能を持っていた人だけに、もっともっと多くの人に感動を与えてほしかったです

心の筋肉を鍛えて乗り越える

 身近な人々の死の悲しみを乗り越え、演出家として邁進し続ける宮本。来年1月で65歳を迎えるが、新しい挑戦への意欲は尽きない。

「コロナ禍を経験しましたが、今後も僕たちが想像もしていなかったような出来事が起きるでしょう。今と同じ生活が続いてほしいと願う気持ちはわかりますが、やはり唐突に変化はやってくる。だから僕はいくら変わっても大丈夫という、しなやかな枝のようでありたいし、舞台だけに限らず新しい挑戦をし続けたいと思っています

 憧れの職を手に入れ、名声を得た今でも慢心はない。

「演出という道具を使い、多くの人が笑顔になる様子を直接眺められるのは、筆舌に尽くし難い喜びがあります。心の筋肉を鍛えて、過去から時代を楽しく先読みして、どんな出来事でも乗り越えていけるような面白いものを作っていきたいですね。まだ生きているのですから

生きていることの価値”を、宮本亞門は知っている。

 
'19年に健康番組の人間ドック企画でがんが見つかり、摘出手術を受けた

 

20代のころはダンサーをしながら企画の売り込みもしたが、誰にも相手にされなかった

 

神田さんの訃報が届いた翌日、SNSに長文で悲痛な胸の内を吐露した

 

宮本亞門