カレーに福神漬。いつからカレーのお供として食べられるようになったのでしょうか

 カレーのお供といえば福神漬。現在はもっぱらカレーの付け合わせとして有名ですが、福神漬はもともとご飯を食べるための漬物として販売され、普及しました。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 老舗漬物屋の酒悦は福神漬を販売する際に、作家である梅亭金鵞(ばいていきんが)に宣伝用のキャッチコピー作成を依頼しました(『食道楽 1931(昭和6)年2月号』所収の「江戸趣味漫話」)。

 その宣伝コピーは、福神漬でご飯を食べると他におかずがいらないので節約になる、という内容でした。「ご飯のお供」を前面に打ち出して売り出したわけです。

日清・日露戦争で福神漬が全国に普及

 東京生まれの福神漬が全国に普及したきっかけは、日清・日露戦争でした(風戸弥太郎編『大日本洋酒罐詰沿革史』、木下浅吉 『醤油・味噌・アミノ酸』)。

 当時の兵食はご飯を大量に食べてカロリーとタンパク質を摂取するというものでした。陸軍ですと、1人1日6合という、大量のご飯・麦飯を食べます。その「ご飯のお供」、つまり食欲増進剤として消費されたのが、缶詰の福神漬でした。

 もともと福神漬は、缶詰にすることを前提に開発された漬物です。当時の代表的な漬物、ぬか漬けの自然発酵たくあんは、すぐ腐ったりカビたりしました。一方、缶詰の福神漬は戦地でも腐らないということで、軍に重用されました。

福神漬の写真(写真:筆者提供/東洋経済オンライン)

 日清戦争後に出版された平出鏗二郎『東京風俗志 中巻』は、“近時福神漬と稱(とな)ふるもの、茶漬の菜などに美(うま)しとて、甚だ稱(しょう)せらる。これ等を賣る店も町々に多し”と、東京の市中にお茶漬けのおかず(菜)として福神漬が広まっていったさまを描写しています。

 なぜご飯のお供だった福神漬が、カレーの付け合わせになったのでしょうか?

 有名な説が、日本郵船の外国航路でカレーに福神漬を付けはじめ、それが全国に広まっていったという説です。

 ところが日本郵船には、外国航路でカレーに福神漬をつけたという記録がないのです(『別冊サライ 大特集カレー』所収 松浦裕子「脇役讃歌 福神漬 VS ラッキョウ」)。

 日本郵船株式会社総務部が編集していた雑誌『ゆうせん』1985年2月号に、「百周年記念 OB座談会 豪華客船とともに」という対談が載りました。

 この対談において、1927(昭和2)年入社、外国航路でチーフコックを歴任したOBの丸山久義さんが次のように話しています。

“池の端の『しゅえつ』の社長さんが、テレビ対談のときに、福神漬けの起源について聞かれ、「郵船の船のコックさんが添えるようになったのが始まりです。お陰さまで、よく売れます」と言ってました”

 つまり日本郵船のチーフコックが知らないことを、当時の酒悦の社長がテレビで主張していたのです。

 そこでこの記事を書くにあたり、酒悦に取材を申し込みました。ところが得られた回答は、一言でいうと「わからない」というものでした。

 日本郵船においていつ、なぜカレーに福神漬がつくようになったのか(そもそも本当についていたのか)。なぜそれが全国に広まったのか。それは誰が何を根拠に主張しているのか。まったくわからない摩訶不思議な説が「日本郵船説」なのです。

小林一三が福神漬をつけるよう指示?

「TVムック 謎学の旅」という、かつて日本テレビ系列で放映されていた番組において、「追跡!!なぜカレーに福神漬か?」という特集が組まれたことがあります。

 番組の内容は、書籍として日本テレビ社会情報局編『TVムック 謎学の旅』にまとめられています。その内容は、阪急グループ創業者小林一三が外国航路から帰ってきた際に、阪急百貨店食堂のカレーに福神漬をつけるよう指示したというものでした。

“私はオープンして一ヶ月経ってから入ったんですが、そのときにはもう福神漬をつけていましたね、だから、四月にオープンしたときから、カレーに福神漬をつけると決まっていたんでしょうね。小林先生が洋行から帰ってきて、そうするように言われたと聞いています”

 開店直後に入社したコックの証言です。

 番組によると、1929(昭和4)年にオープンした阪急百貨店の名物はカレー。1日に13000食という大量のカレーを販売しました。

 日本郵船かどうかは不明ですが、外国航路に乗って福神漬をカレーにつける習慣を知った小林一三が、その習慣を阪急百貨店に持ち込み、阪急百貨店を経由して全国に習慣が広まった、というのが番組の結論です。

 ところがこの話、事実ではないのです。

 小林一三が初めて外国に旅立ったのは1935(昭和10)年9月(小林一三『次に来るもの』、阪急電鉄編『小林一三日記 第一巻』)。阪急百貨店開店時の1929年において、小林一三は外国航路に乗ったことがなかったのです。

 確かに、阪急百貨店のカレーには福神漬がついていました。しかしそれは、外国航路の習慣をまねたものではありませんでした。まったく別の理由でつけられていたのです。

ライスのみ注文する客に福神漬を多く盛った

 名経営者・小林一三にはさまざまな逸話がありますが、中でも有名な逸話が「ソーライス」です。

 阪急百貨店が開店した年は、アメリカに発した大恐慌が世界を覆っていった年。阪急百貨店食堂の客の中には、お金がないためライスだけを注文する人もいました。卓上のソースと、ライスに添えられた福神漬のみで、食事を済ましていたのです。

 小林一三と知り合いだった作家・水上滝太郎によると、小林はそんな客を嫌がることはなかったそうです。

“私共は八階の方へ行き、ビフステーキ二十錢、米飯に福神漬をそへたのが五錢、冷珈琲五錢、合計三十錢で滿腹した”

“山名氏の談によれば、ライス・オンリイといふ註文をして、それにソオスをかけて喰ふのもゐるといふ。しかも此のライス・オンリイをいやがらず、さふいふ客には飯も漬物もかへつて多く盛つて出すといふ話だ。いかにも小林式で感服した”(『水上滝太郎全集 十二巻』より1933(昭和8)6月16日の日記)

 小林一三は、ライス・オンリイの客に対し、ご飯も福神漬も普通よりも多く盛って出し、歓迎したのです。

 こうして客は阪急のファンとなり、やがて懐が豊かになると、阪急百貨店で買い物をするようになります。目先の利益よりも長期的なロイヤリティを優先する、小林一三の経営センスをあらわすエピソードとして、この逸話は有名になります。

 作家阪田寛夫の評伝『わが小林一三 清く正しく美しく』によると、この「ライス・オンリイ」は、ソースでご飯を食べるため「ソーライス」、あるいは福神漬でご飯を食べるため「福神漬ライス」の通称で呼ばれていたそうです。

“「福神漬の話を知ってますか」 ある日、私が逢った七十五歳の、かつての梅田裏界隈のサラリーマンが、大事なものをとり出して見せるように、なつかしんで話してくれた” 

“我々阪急食堂を利用した者は、皆知ってます。小林さんが山盛の福神漬を自分で持って来はった”

福神漬はすべてのライスのお供だった

 阪急百貨店のカレーライスに福神漬がついた理由は、単純明快なものでした。ステーキの付け合せのライス、貧しい客の「ライス・オンリー=ソーライス」、すべての洋食のライスに福神漬がついていたので、カレーライス「にも」ついたのです。

 福神漬はカレーの付け合わせではなく、洋食の「ライスのお供」だったのです。

 それではなぜ、阪急百貨店はすべての洋食のライスに福神漬をつけたのでしょうか? この理由も、単純明快なものです。

 阪急百貨店の先輩にあたる三越百貨店などのデパートの食堂、須田町食堂などの大衆食堂チェーンなど、東京の大手外食店の洋食のライスにはすべて、福神漬がつけられていたのです。

 阪急百貨店がすべての洋食のライスに福神漬をつけたのは、当時としては「あたりまえのこと」、業界の一般的慣行だったのです。

 東京では大正時代から、大手外食店の洋食のライスに福神漬がつくようになりました。なので、カレーライスにも福神漬がつくようになったのです。

 それはなぜなのでしょうか? そして戦後になって、なぜカレーライス以外の洋食のライスから福神漬が消えたのでしょうか?

なぜカレーに福神漬がついたのか(後編)に続きます。

※後編:福神漬VSたくあん「カレーのお供」巡る意外な歴史


近代食文化研究会(きんだいしょくぶんかけんきゅうかい)
Kindai Shokubunka Kenkyukai
食文化史研究家
2018年に『お好み焼きの戦前史』を出版。以降、一年に一冊のペースで『牛丼の戦前史』『焼鳥の戦前史』『串かつの戦前史』等を出版。膨大な収集資料を用いて近代の食文化史を解き明かしている。(Amazon著者ページTwitterアカウント