綾戸智恵(65)12月6日には、5年ぶりとなるスタジオ録音作品のニューアルバム『HanaUta』をリリースする

「ほんまに、私には大義名分がないんです」

 取材中、インタビュアーに向かって何度も繰り返されたこの言葉。今年でデビュー25周年を迎えたジャズシンガーの綾戸智恵(65)だが、成功への驕りはいっさい感じさせることはなかった。

ジャズシンガーになりたいとは思わなかった

 そもそも彼女は、幼少期から歌の世界を目指していたわけでは決してないという。

「両親が音楽好きだったので、ジャズや三味線の浄瑠璃など、音楽がたくさんある家で育ちました。中でも私がいちばん好きだったのは浄瑠璃。義太夫節が好きでよう歌ってました。でも、ジャズシンガーになりたいとかステージに立ちたいと思ったことは、一度もありませんでしたね」

 ピアノを始めたのは3歳から。音楽の道を意識したことはなかったが、自由な教育方針の家でのびのびと育った。

「自宅から遠い幼稚園に通ってたんですが、自分で行きたいと言ったんでしょうね。母は私のやることを勝手に決める人と違うんで。うちは特別なことは何もない中流階級やけど、“あれあかん、これあかん”がなかったおかげで、いろんなことができました」

 17歳のときには高校を休学して、アルバイトで貯めたお金でアメリカへと渡った。

「映画が好きで、テレビの『日曜洋画劇場』とか『金曜ロードショー』を見ていましたし、大阪で万国博覧会があったりして、海外文化がおもしろい時代でもありましたよね。それで、“外国人カッコええな。脚長いし、金髪やし”と憧れて行ったけど、現実は、みんなトム・クルーズばっかりちゃうねんね。ブサイクもいるんやな、とか思ってね(笑)」

アメリカに長期滞在から結婚へ

 けれども、実際にその目で見たアメリカに魅了された綾戸は、その後も貯金をしては渡米を繰り返した。そして、20代後半からはニューヨークに長期滞在することに。

「そのときも長く滞在しようとは思ってなかったです。もうちょっと見たい、と思ううちに長くなっただけ。それで年頃やしね、30歳のときに向こうで結婚しました」

 夫はアフリカ系のアメリカ人だった。33歳のときに長男を出産するも、ほどなく離婚し、帰国することとなる。

「飛行機の座席の前に息子を乗せたカゴを置いてたから、生後7か月か8か月くらいやったと思う。そのときは必死やから、“この大きな波を乗り越えよう”と思って帰ってきました」

 家族を食べさせるため、帰国後は英語教師や給食の調理員など、さまざまな職を経験した。その中のひとつがジャズシンガーだった。

「アルバイトでライブハウスで歌うと、“チーボー(当時の通称)が出るとお客さんがいっぱい来るわ”ってオーナーにもかわいがってもらいました。そんな中で、40歳のときに野外のイベントで歌ったら、偉い人に“すごいね、うまいね”ってたくさん言われたんを覚えてます」

 そのイベントで、ジャズ愛好家の内田修氏に見いだされ、40歳にして遅咲きのデビューを果たしたのだった。

'18年には、老舗ジャズクラブ『ブルーノート東京』でライブを開催

 デビュー後は、その明るいキャラクターや、小さな身体から弾け出すようなパワフルな歌声が人気を集め、ジャズシンガーや映画のコメンテーターとして幅広く活躍。芸能の世界へと突如足を踏み入れたわけだが、そこでも浮足立つことはなかった。

「仕事を取ってくる会社がプロフェッショナルやったから、怖い目にもあわんとできたんとちゃいますか。私はコマやから、どないしてやるかわかりませんやん(笑)」

NHK『紅白歌合戦』にも出場

 '03年には『テネシーワルツ』でNHKの『紅白歌合戦』にも出場したが……。

「達成感みたいなもんはなくて、ギャラはいくらぐらいもらえるのかな? って(笑)。私、あんまりテレビを知らんのですよ。だから緊張もしないんです」

 拍子抜けするほどに気負いも気取りもいっさいなく、それは私生活でも同じ。

 51歳のときには、脳梗塞で倒れた母親の介護のために休業を決意した。

「仕事、家事、息子もおって、おばあちゃんも看てたら生活がてんてこまいで。削る順番を考えて、しゃあなかったんです。そのうち息子も学校入って、家もだいぶ片づいたし、貯金もだいぶ使うたから歌手活動を再開しました」

 過去に2度、乳がん闘病を経験している綾戸は、“病気は誰でもするもの”と計算しながら生きている。

「だけど、介護は突然きてしまうから手探りやったね。それでも私が母に対して上からじゃなく、“お母さん”という意識を持って敬うと、母も安定してましたね。強く言ってしまう? そらあかんわ。私より30何年も長く生きて、見てないところでどんな苦労してきたんやろと思いますやん。“悔しかったらここまで生きてみぃ”言われますよ(笑)」

 その背中を見ながら不撓不屈の精神を学んだ母を、昨年1月、94歳で見送った。

「最後の1ミリまで残さんと命を使うた感じやったね。最期は母が“もうええか?”って言いはったんで、私は“いいよ”って言うたのを覚えてます。やっぱり母は大したもんですわ」

オリジナルアルバム『Hana Uta』の発端は…

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 歌手生活も今年で25周年の節目を迎えた。12月には5年ぶりのオリジナルアルバム『Hana Uta』を発売。

介護がなくなって、コロナ禍で仕事もなくて。畑をやりながら3食ごはんを作って、家でピアノを弾いて楽しんでたら、おもしろい音楽ができて、こんなことになりました(笑)。もともと私は歌手やなくて、鼻歌を歌うような感じでプロになった。母の最期のときも一緒に歌ったりして。母が好きな漢字も“華”で、戒名に入れたんです。はなって言葉が好きやねん」

 65歳という年齢は「かなり気に入ってます」と綾戸。

「怖いこともなくなってきて腹も立たへんしね。私は、大義名分がないんです。何も決めないタイプ。ただ、今置かれてる状態の中でベストに生きていこうと思うだけです」

 波瀾万丈の人生の中で、生きるために戦ってきた。そんな綾戸がジャズシンガーを続けてこられたのはなぜか。

「25年やってきて、やっぱり歌は天職やったんかなと思うことはあります。歌ってなかったら会えん人らが“いい歌ですね”って感動して喜んでくれる。その人らがいてくれたから続けてこれたんやろな。それがなかったら、ただの大阪のおばはんや(笑)」

 母として人として、当たり前のことを当たり前のように。どこまでも飾らない生き方が、パワフルな歌声となって人々に元気を与えている。

「さぁ、夕飯の支度に行かな」