元妻・倍賞美津子と海外でデートを楽しむアントニオ猪木さん(1972年撮影)

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今年10月に逝去したアントニオ猪木さんを偲ぶ。

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「猪木さんの腕にみっちゃんとぶら下がったことが……」

ドラマ『顔で笑って』の“いもえちゃん”

 アントニオ猪木さんとは、みっちゃん……倍賞美津子さん(76)と結婚されていた時代にお会いしたことがある。

 TBS系列で放送されていた『顔で笑って』('73年10月~'74年3月)というドラマがあったのだけれど、私はそのドラマでみっちゃんと共演する。

 鎌倉にある、百年あまりも女系家族が続いている「花田外科病院」。その小さな病院の院長に就任した山田大吉とその家族、そして病院のスタッフや患者たちとの日常を描いたホームドラマ。『細うで繁盛記』の影響からか、ここでも私は登場人物たちをいびる意地悪な役を演じることになったのよね。

 キャストは、主演を宇津井健さんが務め、みっちゃん、フランキー堺さん、松村達雄さん、水谷豊さん、元宝塚のトップスターで画家の中原淳一さんの奥様でもあった葦原邦子さんと、脇を固めるメンバーも豪華だった。宇津井さんと山口百恵ちゃんが親子役を演じ、このドラマの半年後に、『赤いシリーズ』が始まることになる。

 このころの百恵ちゃんは垢抜ける前だったから、みんなからひそかに「いもえちゃん」と呼ばれていた。私も三島から上京したばかりのときは、おしゃれとは無縁の田舎女子だったから人のことは言えないけど、当時の百恵ちゃんはスター然とした華やかさからは程遠い存在だった。

 いつもひとりでセットの陰に隠れるように、こっそりと歌の練習をしていた。あまりにひっそりと歌うものだから、歌というには心細い。“歌のようなもの”をよく歌っているお嬢ちゃん。それが私たちの百恵ちゃんの印象だったと思う。

 ほどなくして彼女は、『ひと夏の経験』('74年)の大ヒットによって、スター街道を歩むことになる。『顔で笑って』は、百恵ちゃんがまだ“いもえちゃん”だった時代の貴重なドラマかもしれない。

右の腕に私、左の腕にみっちゃん

 みっちゃんは、素顔がとてもきれいな人。たびたびお得意のしめじご飯をこしらえて、撮影現場に持ってきてくれた。みっちゃんのしめじご飯はとっても美味しくて、私はいつもペロッと平らげちゃったっけ。

 猪木さんとみっちゃんが結婚したのは'71年だから、このときはまだ2~3年目。みんなでご飯を食べていると、みっちゃんは「うちのアントンが、うちのアントンが」と楽しそうに話していた。

結婚当初のアントニオ猪木さんと倍賞美津子さん

 そのアントンが、『顔で笑って』の打ち上げにサプライズで登場したことがあった。スーツに身を包んだ猪木さんは、とても精悍でカッコよかったことを覚えている。均整の取れたあまりに大きな身体に、みっちゃん以外の私を含めたキャストたちは、本当に目を丸くしたんだから。

 思わず私は「両腕に1人ずつぶら下がっても大丈夫?」と聞いてしまった。アメリカのポスターで見かけるような、上腕二頭筋に女性がつかまってぶら下がる……今思えば失礼な質問(というかお願いね)なんだけど、そうとっさに言ってしまうくらい、その肉体は頑丈な感じがした。

 猪木さんは「ムフフ」とこぼすと、両腕に力こぶを作り、「どうぞ」と言ってくださった。右の腕に私が、左の腕にみっちゃんがぶら下がる。はしゃぐ私たちをよそに、猪木さんは平気な顔で私たち2人を持ち上げ続けてくれた。「すごーい!」。ぶら下がりながら笑う私は、ただただその力強さに感心した。

 一度、みっちゃんに「あんなに大きいんだから、おうちで夜中にトイレや廊下で見かけたら怖くない?」と聞いたことがある。すると、「うちのアントンは化け物じゃないわよ!」と叱られてしまった。確かに、怒られて当然の質問よね(笑)。

『顔で笑って』は、朝から夜まで大変だったけど、本当に楽しい現場だった。このとき宇津井さんは、表情に出していらっしゃらなかったけど、実は痔で苦しんでらしたのよね。宇津井さんも『顔で笑って』らしたのよ。

冨士眞奈美(ふじ まなみ)●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

(構成/我妻弘崇)