毎年恒例だった新年のご挨拶では、愛子さまのご成長ぶりもうかがえた

「僕の妃を見つけて欲しい…」天皇陛下とともにお妃候補を探す旅に出たご学友が、いま明かす雅子さまとの出会い、そして交流秘話の数々。天皇陛下50年来のご学友が明かす雅子さまの素顔ーー。

 今回は特別に愛蔵版写真集『雅子さま 麗しき愛と絆 30年の輝き』(主婦と生活社刊)に掲載された『特別寄稿「二重橋の上、あの時と同じ涙を見た」』の記事を全文掲載する。

 天皇陛下と皇后陛下のご成婚がスクープされたのは、陛下や私の大学時代の恩師、故安田元久邸で毎年行われていた新年会に出席をしていた時であった。安田邸の前には大勢の報道陣が詰めかけていたので、私はいったん門外に出て、知り合いの記者から事の次第を聞いた。

「僕の妃を見つけてほしい」

 というのも、陛下(当時皇太子殿下)のお妃問題で候補者となるであろう多くの女性に取材が殺到し、お妃候補の方との出会いに支障があると判断した宮内庁は、静かな環境づくりのため、報道協定を宮内記者会と結んでいたからだ。

 もちろん私は陛下から、小和田雅子さん内定のご連絡を受けていたが、どこの社が協定を破ったのかを聞くと、記者会に所属しないワシントンポストであった。その瞬間、報道協定は実質的に解除されてしまった。

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 時代を数年、前に戻そう。お二人が初めて出会われたのは、昭和61年、当時の皇太子ご夫妻(現・上皇・上皇后両陛下)が来日中のスペインのエレナ王女を歓迎するために開かれたパーティーの席上だった。陛下は「素晴らしい方」と雅子さまの魅力を語られた。

学習院大学時代は同じゼミナールに所属。おそろいのTシャツ姿で旅行も

 その翌年、陛下と雅子さまは、故高円宮憲仁親王殿下が間に立たれ、数回お会いになったが、スポーツ紙のスクープ報道により、その後は音沙汰がなくなってしまった。宮内庁は父である小和田恆氏に正式な申し出を行ったが、残念ながら良き返事は得られなかった。

 ちょうどこのころ、陛下は私に対し「僕の妃を見つけて欲しい」と仰せになった。私は「小和田雅子さんの線はないのですね」と思わず陛下に詰め寄った。お答えは「残念ながら……」

 その時の陛下のご様子は、どこか遠くを見つめていらっしゃるような気がしたことを、今でも鮮明に思い出す。その後、陛下とともにお妃候補を探す旅に出た。この間の詳細は省くが、ご成婚まで、毎日のように陛下とお目に掛かり、ホットラインも引いて、語り明かした日々を送ったものである。

 しかし、平成4年、運命とも思われる、鴨場のプロポーズ。思い切った陛下の行動が雅子さまの心を動かした。「外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも国を思う気持ちに変わりはない」と陛下は雅子さんに問いかけられた。

 大変不敬な物言いになるが、私は心の中で「よく言った!決めセリフだ」と確信をもった。しかしこのお言葉が、後に雅子さまを追い込んでいくことになるとは、誰も予想はしていなかった。若きお二人が心に描く「皇室外交」と宮内庁の思いは、大きくその方向が異なっていたからである。

雅子さま発案の一品

 ご結婚後、新婚の両陛下からソフトボールのお誘いがあった。雅子さまは学生時代、ソフトボール部に所属されていたことを知ったが、試合は男性陣だけで行うこととなり、ほっとしたのを覚えている。一方の雅子さまは応援団に回られ、女性陣と楽しくお話しをされていた。

 よく「雅子さまはどのようなお方か」と問われることが多いが、一言でいえば、周りの環境を瞬時に読み取り、その場を和ませる潜在的な能力をお持ちの素晴らしい女性だとお答えしている。試合後、赤坂御用地内にある、奉仕団休憩場において、懇親会が催された。スポーツ後のくつろいだ会であったが、随所に雅子さまの気配りがうかがえた。

ピアノを弾く浩宮さま(現・天皇陛下)の横に立つ学習院中等科時代の乃万さん

 食卓には普段あまり目にすることがないものが供されていた。はじめは揚げ物だろうかと思って手に取ってみて驚いた。なんと「沢庵」であった。沢庵一つひとつがアルミホイルに包まれており、楊子が添えられてあった。乾燥しないようにするため、お漬物ではないように見せるための、細やかな工夫が施された一品であった。これが雅子さまのご発案だったことを知り、その気配りの素晴らしさに感動したものである。

 そして、参加した者一人一人に優しくお言葉を交わされ、しかも非常に丁寧に、かつ意欲的に会場内を満遍なく回られて、「雅子です。よろしくお願いいたします」という謙虚な姿勢に、初々しさと親しみやすいご様子を拝見した。

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 ご結婚後間もなくの出来事だった。毎年陛下の気の置けない学友たちが新年のご挨拶のため参殿を許され、両陛下にご挨拶を申し上げるのだが、中には、赤ちゃんを連れてくる者もいた。その赤ちゃん達のために、菊の御紋章があしらわれたベビーコットがさりげなく置かれていた。これも雅子さまのさり気ないお心遣いであった

 愛子内親王殿下がご誕生された時のご会見を拝見した。記者から感想を聞かれた雅子さまは、声を詰まらせ、ポロリと涙を流された。その後ろから優しく手を背に回された陛下は、とても幸せそうでいらした。

雅子さまが仕切られた食事会

 その時まで、陛下のご会見では、必ずと言ってもよいほど、雅子さまのご懐妊に関する質問があった。陛下はその都度、「コウノトリのご機嫌次第」と笑いながらお答えになっていたが、雅子さまもやっと授かった我が子を見て、万感の想いがおありになったのだろう。私はその時の雅子さまが流された涙と同じ涙を、即位礼国民文化祭で二重橋の上に見た。同じお気持ちだったのであろう。

 平成16年5月、陛下は、デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際しご会見を開かれた。その中で陛下は、「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と述べられた。

 なぜこのようなことを、突然ご会見で述べられたのか。その発端は平成9年の夏に遡る。両陛下はこの年、福島県裏磐梯高原にご静養のため行啓され、東急系列のホテルでご静養をされていた。偶然にも私の一家もこの年、裏磐梯でキャンプをしていた。

 その年の7月ごろだったと思うが、私が「夏は裏磐梯でキャンプをして、可能ならば磐梯山登山をしたいと思っております」と申し上げると、陛下は「僕たちも裏磐梯に行くんだよ。向こうで会えたらいいね」と仰られた。詳細は『ご成婚20周年記念号』(主婦と生活社刊)に寄稿したので割愛するが、貸切りのホテルに招かれ、大変なご馳走を頂戴した。すべてを雅子さまが仕切られ、愚息の好みやアレルギーなどを東宮女官を通じ、何度もお問い合わせをいただいた。

 東京に戻ってから、「せっかく我々が用意した、ご懐妊のためのご静養を学友一家が訪れて邪魔をしに来た」と侍医が記者会で述べたらしい。これには陛下も激怒されたようだ。

平成9(1997)年の夏、福島県の裏磐梯高原にあるホテルで両陛下と面会

 このころから、宮内庁のプレッシャーが雅子さまに降り注ぎ始めたのだと思う。宮内庁長官が正式に、「皇太子妃殿下には、速やかなご懐妊を」と口に出す事態となった。さらに、雅子さまの外国訪問が閉ざされ始め、陛下の突然の会見に繋がったのではないかと思う。

 鴨場で陛下が雅子さまにプロポーズされた「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも同じ」この言葉が雅子さまを追いつめることに繋がった、と陛下が思われ、あの会見になったのであろう。さらに時が経ち、愛子さまと雅子さまへのバッシングの火種になったかもしれない。

 この間の苦しみに耐え、そして迎えた令和の時代。即位礼正殿の儀において、御帳台に凛として立たれた雅子皇后陛下。私は万感の想いで、そっと目頭を押さえた。

●乃万暢敏(のま・のぶとし)
評論家。1959年4月生まれ。学習院初等科より中等科、高等科を経て、同大学卒業。同大学院人文科学研究科に学ぶ。皇太子さまのご学友。現在は、東京・田園調布のマンツーマン学習指導会「グレイススタディケア」塾長。YouTube「評論家 乃万暢敏チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCEcAs-nkKXGn7583rVjwJqw/featured

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