俳優 小西博之さん 撮影/齋藤周造

 俳優として芸能界デビューし、萩本欽一さんのバラエティー番組で、コニタンの愛称で一気にブレイクした小西博之さん(63)。しかし、順風満帆な芸能生活を送っていた'04年に体調が悪化しがんが見つかる。さらに、盟友の自殺という悲報も……。そんな人生の節目で小西さんの心を支えたのは、萩本さんの言葉だった。恩師の教え、そして、60代でつかんだというもうひとつの夢とは──。

なぜコニタンが校長先生に?

《なお、小西校長は俳優・タレントとしてテレビや映画でもご活躍されております》

 このアナウンスが流れると、会場を埋める保護者たちの間から「コニタンよね?」という声がもれた──。

 '22年10月10日、日本航空高等学校・山梨で開催された『航空祭』の観閲式。ちょうど40年前、欽ちゃん(萩本欽一さん)ファミリーの一員として“コニタン”の愛称でブレイクした小西博之さんは、今年度から同校の通信制課程の校長に就任した。

 なぜコニタンが校長先生に?きっかけをつくったのは、本校および付属中学校の校長を務める篠原雅成さん。

「大学の1年先輩でもある小西さんの“命の尊さ”を教える活動に私自身がたいへんな感銘を受けましてね。本校でも講演をお願いしたんです」

 それが'21年9月29日のこと。呼んでもらったお礼に小西さんは、同校の理事長宛てに自分が書いた本を贈った。すると、「お話があります」と電話が。翌日、学校を再訪すると理事長から告げられた。

「通信制課程の校長になってくれませんか」

 小西さんは著書や講演の中で、学校に行かない子どもたちを“家が大好きな子”と呼び、学校に通う子どもたちと分け隔てなく寄り添ってきた。同校の通信制課程には、大勢の家大好きっ子がいる。さらには、すでに社会人となった青少年たちも学んでいる。例えば中学卒業と同時に相撲部屋に入門した10代の力士。13歳で芸能界入りした「嵐」の相葉雅紀さんも同校の通信制課程の卒業生だ。

 理由(わけ)あって通学できない子どもたちが学ぶ場で校長として力を発揮してほしい──。まさに天から降ってきたような話。小西さんの校長就任を、現場の若い教師たちはどう受け止めたのだろうか?

「本物のヤクザが乗り込んできたかと思いました(笑)」と、冗談まじりに話すのは国語教師の佐々木拓哉さん。『極道の妻たち』シリーズなど、“ワル”を演じる映画にも多数出演している小西さんの風貌には、本物顔負けの迫力がある。が、佐々木さんはこう続けた。

「話してみると優しくて、おもしろくて、本当に生徒のことを親身になって考えてくれる校長です」

 キャンパスを歩きながら、新米校長はすれ違う生徒たちに気さくに声をかける。

「観閲行進、どうやった?」

「ほら、走るとコケるで!」

「学校、楽しめよ!!」

 演技ではなく、自分の人生を懸けて、いま小西さんは教職に情熱を注いでいる。

「まさか62歳で自分が校長になるとは……。お話をいただいたときは、そりゃビックリでしたよ。だけど、決断に迷いはありませんでした。心の準備は40年以上も前からできていたんです」

野球に打ち込み教師を目指した学生時代

 “コニタン”は幼いころのニックネーム。出身は和歌山県田辺市。'59年9月、伊勢湾台風が上陸した2日後に小西さんは生まれた。身体が大きく、県から健康優良児の表彰も受けた。でも、気は弱くて、泣き虫。

 弱い自分が強くなれたのは、小学4年生の10月。妹が生まれた。その日は遠足。お弁当の時間に「僕、お兄ちゃんになったんやで!」と舞い上がっていると、クラスでいちばん強い友人に小突かれ、手から弁当が地面に落ちた。

「なにするんや!」

 思わず肩を押すと、友人の身体は軽々と吹っ飛んだ。その光景を同級生全員が目撃。

「コニタンのほうが強いで!」

 力関係は大逆転。クラスでいちばん強いコニタンは学級委員長になり、少年野球チームでもキャプテンに選ばれた。そんな経験は決して特別なことではないと小西さんは言う。

「子どもって何かのきっかけで大きく変わるんですよ。だから親御さんには『ウチの子はダメだ』とは絶対に思わず、『今のあなたが大好き』と言い続けてほしいんです」

 中学校に入ると運命の出会いが待っていた。担任は23歳の新任教師。入学して一週間後の最初のホームルームは、このひと言で始まった。

「男ども!一週間いろんなことがあったやろ!」

 男子生徒は前に出て整列。タバコ臭いヤンキーもいる。悪い生徒はしばき倒されるんや……。ビクビクしていると先生はいきなり、いちばんワルの生徒を抱きしめ言った。

「外でタバコ吸うたらカッコ悪いぞ。なんぼ男前でもオンナにモテへんぞ」

 ポカンとしていると、今度は学級委員長の小西さんが抱きしめられた。

「一週間、よう頑張ったな」

 野球部の朝練で誰よりも早く登校していた小西さんは、少しでも学級委員長らしいことをしようと、毎日クラス全員の机を拭いていた。

「それを見ててくれたんやと知って、もう感動ですよ。悪い生徒も一生懸命な生徒も分け隔てなく、ひとりひとりのいいところを見つけて全力で褒めてくれる。僕も大人になったらこんな先生になりたい、そう思った瞬間でした」

高校時代は野球部のキャプテンや応援団の団長(写真中央)を務めた

 高校は野球の強豪校、県立田辺商業(現・神島高等学校)に進学。甲子園出場の夢は果たせなかったものの、ここでも素晴らしい先生たちとの出会いがあった。

「英語の先生をされていた野球部の監督から、『甲子園は目標やない、枕投げを目標にせぇ』と言われたんですよ。意味わからんでしょ?そしたら、『甲子園で試合をする前日、泊まった旅館でおとなしく寝るか?ワクワクして眠れんやろ、うれしくて枕投げするやろ、それを目標にせんかい!』と。人は楽しいことを目標にしたほうが頑張れるんだと、監督は僕らに教えてくれたんです」

 数学の先生は試験前の大事な授業で、いきなり問うた。

「ミーちゃんとケイちゃん、どっちが好きや?」

 40分間、ピンク・レディーの話題でクラス全員が大盛り上がり。しかし授業の残り5分、先生は黒板に公式を書くと、「これは覚えておけ」と言って教室を出て行った。

「その授業、今でも覚えているんですよ。で、大学で児童心理学の本を読んでいたら、肝心なことを教えるときこそ遊びや回り道も必要だと書いてあった。そうか!あの授業やったんか、と」

大学時代に『仮面ライダー』ショーの怪人を演じた

 小西さんは教師になるために大学へ進んだ。選んだのは野球の名門・中京大学。だが、野球部では有無を言わさぬ熱血指導にうんざり。早々に退部すると演劇部に移った。

「教師になったら生徒からおもしろいと思われる授業をせないかんでしょ?演劇部でパフォーマンスを身につけたかったんです」

 演劇部員には芸能事務所からエキストラの声がかかる。身体の大きな小西さんは、『仮面ライダー』ショーの怪人、NHK『中学生日記』では警察官役、萬屋錦之介一座の『赤穂城断絶(あかこうじょうだんぜつ)』では斬られ役で御園座(みそのざ)の舞台にも上がった。

 芝居への興味は膨らむ。一方で成績は落ちていく。このままでは教師になれへんぞ。3年生になればゼミも始まる。役者の仕事は忘れて学業に専念。選択する教職課程は商業科と社会科。必死に勉強し、簿記1級も取得した。

 大学3年の冬、「メシでも食おう」と久しぶりに役者仲間から誘われる。そこに、なぜか『中学生日記』でお世話になったディレクターが同席。

萬屋錦之介一座で初舞台を経験

「もう芝居はやらんの?」

「やりません、4月には教育実習も始まるので」

 そんな会話をして別れた数日後。ディレクターから電話がかかってくる。

「教育実習生の案が通ったで。コニタン、実習生役な!」

 ネタを提供しただけのつもりが、役者として起用。「もう決まったから」と説得され、「これっきり」という約束で小西さんは『中学生日記』の教育実習生役を演じた。

「そのドラマの台本を参考にして教育実習をやったら、生徒に大ウケでした。これならほんまの教師になっても大丈夫やと自信がついたんですけど、7月に和歌山県教育委員会から手紙が来て……」

 来春の新入生は'66(昭和41)年の丙午(ひのえうま)生まれ。生徒数が減るという理由で教員採用はナシ。夢に向かう小西さんの歩みは、そこで止まった──。

不合格からまさかの欽ちゃんファミリーに

 いつかチャンスはめぐってくる。そう信じて小西さんは就職浪人。生活費はバイトで稼ぐ。牛丼屋で深夜の店長をやりながら、中京テレビのバラエティー番組『ジョークドキュメントBBS放送局』にも出演した。すると、

「BBS見たで!芸能活動やめてなかったんだな!!」

 NHKのディレクターが飛んできた。そして再び小西さんを『中学生日記』に担ぎ出す。役柄は教育実習生ではなく体育教師。その姿が、思いがけない人の目に留まった。

「小西がなりたいのはほんまの先生やろ?ウチに来い」

 電話口から聞こえてきたのは懐かしい声。高校時代の数学の先生は特別支援学校の校長になっていた。高校の教師に採用されるまで、ウチの職員として児童を相手に現場で経験を積んだらどうや? 

 渡りに船。来年度からお世話になろうと決め、芸能活動はそれまでのつなぎと割り切った。その直後、今度はBBSの放送作家から言われた。

「萩本さんに会ってこい」

 大スターの欽ちゃんに会える!小西さんは大喜びで東京のスタジオへ遊びに行った。

「稽古を見学してから、僕、吉野家のバイトがあるんで帰りますと言ったら、『次もおいで』と萩本さんから言っていただいたんですよ」

 それから毎月、小西さんは欽ちゃんに会いに行った。そして半年後。なんだかいつもと様子が違う。スタジオはオーディション会場になっていた。居並ぶ候補者の中には、風見しんごさんの姿も。

小西さんとともに欽ちゃんファミリーとして活躍した風見さん 撮影/齋藤周造

「萩本さんはコニタンを“ウシ”って呼びましたよ(笑)。ゴツい兄ちゃんがボーッと突っ立っているから、僕も最初は大道具さんが仕事もしないでこっちを見ているだけかと思いました」(風見さん)

 小西さんは欽ちゃんに会いたくてそこにいただけ。目立つつもりはない。欽ちゃんが風見さんに告げた「合格!」という言葉を、小西さんが聞くことはなかった。

「体育会系の僕は何を聞かれても『はい!』と答えるだけやったから、萩本さんのコントには合わないと思われたんでしょうね。『小西、ごめん、今日で終わり』と言われて、すぐに名古屋へ帰りました」

 その足で小西さんは牛丼屋へ。ところが翌朝、TBSのプロデューサーから「欽ちゃんが呼んでいる」と連絡が来る。急いで新幹線に乗り、欽ちゃんの自宅を訪ねると、

「やっぱり合格。来週から木曜は吉野家、休むんだよ」

 思わぬ急展開。新番組『欽ちゃんの週刊欽曜日』('82年10月~'85年9月)のリハーサルは本番前日の木曜日から始まる。欽ちゃんから直々に言い渡された「レギュラー確定」を断る勇気がどこにあろう。かくして小西さんは、キー局の超人気番組で全国デビューを果たすこととなった。

 なぜ欽ちゃんは小西さんを「合格」にしたのか? 3年後に小西さんは聞かされた。

「落ちていちばんツラいヤツが、いちばんいい笑顔で帰っていった」

 それが欽ちゃんの気持ちを変えた理由だった。

初めて聞いた欽ちゃんの怒鳴り声

 欽ちゃんファミリーは甘いところではなかった。猛稽古では何度もダメ出し。ヘトヘトになってからの反省会は3時間。それでもメンバーたちは必死に個性を磨いた。

「しんごはヒマさえあれば廊下に寝転がってクルクル回ったりしていて、何してんのやろと思ったらブレイクダンスの練習やった。なりふりかまわず努力する、あの不屈の精神がプロになる姿勢やなと思っていつも横目で見ていました」

 一方、風見さんにとっても小西さんの姿は励みだった。

「コニタンは『オレの頭の中ではロッキーのテーマが流れているんや』と言って、ヒマさえあれば腕立て伏せしていましたよ。番組ではウシみたいにむっつりしてても、心の中は常に戦っているんだなって」(風見さん)

 メンバー同士が刺激し合い、高め合う関係。風見さん、佐藤B作さん、清水由貴子さんらとともに結成された「欽ちゃんバンド」は番組の人気コーナーとなる。そして風見さんは『僕笑っちゃいます』で歌手としてソロデビュー。

人気だった「欽ちゃんバンド」は、'83年にアイドル誌『明星』の付録の表紙にも登場

「『ザ・ベストテン』に初登場したとき、B作さんとコニタンが応援に来てくれたんですが、いちばんよくしゃべったのがコニタンでした。僕やB作さんは緊張でガチガチなのに、コニタンは司会の久米さんと黒柳さんを相手にアドリブまで飛ばしていた。あの本番での度胸はスタッフにも強烈に印象に残ったと思いますよ」(風見さん)

 頭の中でロッキーのテーマを流し、本番で自分を奮い立たせる。でも、それは心が揺れている証しでもあった。

「気がつくと、車の中でこっそり社会科の問題集を広げていたこともありました」

 教師を諦められない。そんな、どっちつかずの生き方にダメ出しをしてくれたのは師匠の欽ちゃんだった。

 '83年8月20日。『24時間テレビ 愛は地球を救う』の司会は欽ちゃん。名古屋の握手会場は小西さんのホームグラウンドも同然。コニタン目当てのファンも大勢駆けつけ、その中に松葉杖(づえ)の女子高生がいた。コツコツ貯めた5円玉の募金を手渡したくて一生懸命歩いてきました、と。

「明るい子でしたよ。5円玉にはご縁があるから、また来年もコニタンに会いにくるねって。その後ろ姿を見送っていたら、お母さんが、泣きながら『来年はありません』と、僕に言うてきて……」

 娘は骨肉腫で4月に死んでいてもおかしくなかった。でも「コニタンに会うんだ」と4か月も生きてくれた──。

 小西さんは言葉を失い、泣き崩れた。その肩を欽ちゃんがポンポンと叩(たた)く。

「芸能人っていいだろ?」

 小西さんは大きく首を振った。芸能人が何や、自分はあの子に何もしてやることができないやないか。すると、

「ばかもん!小西があの子に希望を与えたんだぞ。医者にもできないことをおまえはやったんだ!」

 初めて聞いた欽ちゃんの怒鳴り声。そして、

「それでも先生になるほうがいいか?」

 見透かされていた心の奥底。芸能人として生きる─。“無欲”は“覚悟”へと変わった。

 9月21日。清水由貴子さんとのデュエット曲『銀座の雨の物語』で小西さんは歌手デビュー。歌番組にも多数出演し、芸能人として吹っ切れた。が、テングにもなりかけた。

「有頂天になる僕をいつも横で叱ってくれたのがユッコちゃんでした。“私たちの仕事はお客様に夢と希望を与えること、その期待を絶対に裏切っちゃいけないの!”って」

 '85年秋、『週刊欽曜日』が終了すると、翌週から小西さんは『ザ・ベストテン』にレギュラー出演。

「当事の番組映像をユーチューブで見て『ウソでしょ!?』と思いました。若いころの小西校長、カッコよかったんだ(笑)」

 と話すのは、日本航空高校の社会科の新任教師、渡辺祥平さん。国民的な歌番組の2代目司会として登場したのは、リーゼントにタキシードでキメたカッコいいコニタン。ただ、大役のプレッシャーに空回りすることも。

「少年隊がデビューして初登場第1位の回で“シブがき隊のみなさんです!”と紹介してしまって……。生放送が終わるとジャニー喜多川さんが来て、うわ、殴られると思ったら、指をパチンと鳴らして“You good!”。怒らずに笑って許してくれたんですよ」

 失敗を重ねながらも出演者たちから愛された。こんなエピソードもある。1986オメガトライブの出演はホテルのプールサイドから生中継。演奏が終わった瞬間、進行役の小西さんが足を滑らせプールにドボン。

「台本にはギターの黒川(照家)さんをみんなでプールに突き落とすって書いてあったんです。だけど出演者にそんなまねさせたくないじゃないですか」

 ならば自分が道化役に。現場での小西さんの心配りは多くの歌手が知っている。

 俳優としても忙しくなる。長年マネージャーを務めてきたスタークコーポレーションの社長は言う。

「裏方さんにも気を使って、例えばメイクさんによって仕上がりが違うと、やり直してもらうのが申し訳ないと言って、小西は私にメイクをさせていたこともありました」

 他方で、自分には厳しすぎるほど厳しい。そんな小西さんは大物俳優たちからかわいがられた。渡哲也さんには共演者に対する心得を叩き込まれた。松方弘樹さんは粋できれいな遊び方を教えてくれた。高橋英樹さんから殺陣(たて)の指導を受けたこともある。

 バラエティー番組でも存在感を示した。TBSの『筋肉番付』ではパワーを発揮し、総合5位の好成績。肉体派の健康優良タレントとしても活躍の場は広がった。

 小西さんの事務所社長は言う。

「小西は健康にも人一倍気をつけ、風邪もめったにひかないほど元気でした。だから、まさかと思いました」

 末期の腎臓がん。医師は小西さんに告げた。

「余命は、ゼロです」

がんと闘いあらためて感じた命の大切さ

 45歳になった'04年9月。85キロあった体重は70キロを割っていた。撮影所で激ヤセを指摘されると「役づくりです」とスタッフをごまかし、「オレは健康なんだ」と自分をだまして仕事を続けた。

 しかし、体調は日増しに悪化。12月には食欲、性欲、睡眠欲がすべて消えた。そして、大量の血尿。もう自分はだませない。病院で検査を受けたのはクリスマスの日。

「街中が輝いているのに、自分だけが幸せから取り残されたようで、帰宅してから『まだ死にたくない!』って、家具を蹴飛ばし、皿をたたき割って、1人で号泣しました」

 年明けに大学病院でがんを告知された。左の腎臓に巣くったがんは20×13センチ。「普通はこんなに大きくなる前に死ぬ」と、医師も驚くほど病状は進行していた。だが、「がんとわかってから小西は明るく振る舞うようになった」と小西さんの事務所社長は言う。自暴自棄になりかけた小西さんにダメ出しをしたのは、ここでも欽ちゃんの教えだった。

俳優 小西博之さん 撮影/齋藤周造

「人生は50対50、幸せも不幸も同じように訪れる。悪いこともきちんと受け止めなければいけないよという萩本さんの教えが、僕の心を支えてくれたんです」

 2月16日。大手術は無事に成功。左脇腹にはVの字に50センチも切り開いた手術痕。

「先生が一生消えない勝利のVサインを刻んでくれたんやで!」と、ベッドではしゃぐ小西さん。その裏で小西さんの事務所社長は医師から「転移の可能性が高い、5月までもたないかもしれない」と聞かされていた。

 ところが、小西さんは驚異的な回復を果たす。術後3日目にはリハビリを開始し、9日目には退院。目標にしていたのは、手術をして助かることではなかった。

「早く元気になって、病気で苦しむ人たちに希望を与えたかったんです。そのために『徹子の部屋』に出ることを目標にして、番組で体験を黒柳さんに話す自分を毎日イメージしていました。それこそ、野球部の枕投げと一緒です(笑)」

 5月の検査で転移は認められず。末期がんを克服したことで「命の大切さ」をテーマにした講演依頼が増えた。その活動を知った黒柳さんからお呼びがかかる。7月、小西さんは徹子の部屋に出演。余命ゼロの先に目標は叶った。

 元気なコニタンが帰ってきた。アクション系の仕事も大丈夫。'07年には『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』で熱演。マスク姿の怪人ではない。地球を守るヒュウガ隊長役。正義のヒーローは子どもたちに夢を与えるのが使命。児童施設への慰問に全国を駆けめぐった。そして悲しい現実も目の当たりにした。

「命の授業」を受けた子どもたちから、たくさんの感想文が届いている

「小児病棟にはやせ細ってパジャマの色でしか男女の区別がつかない子どもたちがたくさんいるんですよ。笑って、喜んでくれた子が、次に訪問したときにはもういない……。そのたびに僕は控室でのたうちまわって泣きました」

 儚(はかな)いからこそ大切にしなければならない命。小中高校で行う「命の授業」と題した小西さんの講義は年間100回にも及んだ。

 しかし、'09年4月21日。悲報に胸をえぐられる。清水由貴子さんが自殺。欽ちゃんファミリーを代表して取材に応じたのは小西さんだった。

「萩本さんから小西の気持ちさえしっかりしていれば、思ったことを素直に話せばいいと言われたんです」

 翌日──。

《オレはユッコを絶対に許さない、冥福も祈らない!》

 小西さんのコメントは批判の集中砲火を浴びた。マスコミは容赦なく「薄情者」扱い。だが、ファミリーで苦楽を共にした風見さんは言う。

「前日の夜、コニタンから電話があったんですよ、『コメントするの、オレでいいのか』って。字面だけだとキツく受け取られますけれども、生きられないかもしれない中で、生きることにもがいたコニタンが、悲しみのどん底で悩んで悩んで悩んだ末に選んだ、正直な言葉だったと思います」

 どんな理由があろうと自ら命を絶つことを小西さんは肯定できなかった。その気持ちが強いがゆえに無念さは強い言葉となって吐き出された。

 でも、ユッコさんへの思いは、何も変わっていない。

「毎年、命日にお墓参りに行って“ユッコとの約束をオレはしっかり守るで、見とってや”って、話しかけてますよ」

 目をつむれば、今もユッコさんの声が聞こえてくる。

「私たちの仕事は、お客様に夢と希望を与えること──」

 命の授業に続き、小西さんは「いのちのうた」プロジェクトを立ち上げ、自殺防止に取り組むとともに、自らが歌うCDの売り上げを小児がんの支援団体に寄付した。

 '11年、東日本大震災が起こると、復興支援チャリティーイベント『被災地に届け!いのちのうた』を主催。その活動がニュースになると、次男から連絡が来た。

「世界でたった1人の父親だから、会いたくなりました」

 小西さんには離婚歴がある。2人の息子とは13年ぶりの再会。中1だった次男は自衛官になり、東北の被災地で救助活動に尽力していた。中3だった長男も沖縄の福祉施設で介助の仕事に就いていた。

「2人とも命を守る現場で頑張っていたんです。もう、うれしくて、“立派になったな”って大泣きしたら、“オヤジの泣き虫は変わらんな”って笑われました」

 息子たちとは今も親密な交流が続いている。小西さんにとって、生きることにもがいた末に訪れた幸せだった。

「幸せも不幸も同じように訪れるという萩本さんの言葉には先があるんです。何度も言われましたよ、幸運をつかむには努力という台の上に乗っていないとダメなんだ、と」

高校の校長になった小西さんは、生徒たちと積極的に交流を 撮影/齋藤周造

 人生の師である欽ちゃんは73歳で大学を受験し、学び直しを始めた。還暦を迎えた風見さんも、今年1月から語学留学でアメリカに渡る。

「萩本さんも僕も学生になった。コニタンは校長先生になっていちばん出世だね(笑)。ウシのごとく生徒たちをグイグイ引っ張っていくことを期待していますよ!」(風見さん)

 小西校長なら、先頭に立って大人たちもグイグイ引っ張ってくれるに違いない。 

「命さえあれば必ずチャンスは来るんです。だから大人が夢を持ちましょうよ、そして子どもに夢を語ってください。何歳になっても夢は叶えられるという希望を子どもたちに与えられるのは、僕たち大人なんやから──

〈取材・文/伴田 薫〉

はんだ・かおる ●ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。