岸田今日子さん、吉行和子さんと旅行中のひとコマ

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。知音の間柄だった岸田今日子さんを振り返る。

親友・岸田今日子さんとの思い出

 今回は、岸田今日子ちゃんについて振り返ってみようかしら。私が18歳のとき、彼女と出会い、それからずっと最期まで友達だった。

 今日子ちゃんとは、『鏡子の家 エロティックス』という野球チームも一緒に作った。

 杉浦直樹さん、山崎努さん、テレビプロデューサーの大山勝美さん、当時まだアシスタント(演出助手)だった久世光彦さんらとともに、後楽園球場や哲学堂の野球場などで試合をしたっけ。

 今日子ちゃんは、頭のてっぺんから足のつま先まで「女優」という人だった。

 私と(吉行)和子っぺと今日子ちゃんの3人で、テレビから流れるフィギュアスケートのロシア人選手の演技を眺めていたときがあった。

 私と和子っぺは、「すごいわねぇ」なんて呆気にとられているのに、今日子ちゃんときたら、「日本語をしゃべりながら舞台に立ったら、私のほうがずっとうまいわよ」ですって。

 それとこれとは全然関係ないじゃない!私と和子っぺはぽかんとしてしまった。

 今日子ちゃんは、舞台に立てば私は無敵──という自信をいつも醸し出しているような、ミステリアスで孤高の雰囲気を自らつくり出す、自己プロデュース能力の高い人でもあった。

 例えば、花束をプレゼントするとき。普通は、生花店でお花を買って渡すというのが一般的だと思うけど、彼女の場合は自分で野原に咲く花を摘んで、「野の花を摘んできたわ」なんてプレゼントするのよ。

 お墓で拾った猫に、「アル・カポネ」という名前をつけたり(それを聞いた私は、すぐさま飼ったシャム猫に「エリオット・ネス」という名前をつけたなぁ)──。岸田今日子だからこそ成立することがたくさんあった。

 自分に忠実で、恋多き女でもあった。そのうえ、ズバッと正論を言うから面白い。

あの顔で眉一つ動かさずに

 昔、彼女が若い俳優さんと映画館へデートに出かけたことがあった。それだけだったら何てことないんだけど、そのとき今日子ちゃんは臨月だった。

 さすがにどうかと私が指摘すると、「臨月で映画を見て何が悪いの?」。あの顔で眉一つ動かさずに言われると、ホントに何も言い返せないのよね(笑)。恋愛の名手だった。ひとり娘のお嬢さん、よくぞ立派に育たれた。

 不思議で面白い人だった。

 あるときの句会でのこと。どういうわけか、一晩しか咲かない月下美人の鉢を抱えてきて、みんなが見つめる中、自分の前に鉢を置いて、「今日、これから咲く予定なの」と言う。

 句会が始まり、和田誠さん、山下雄三さんをはじめとしたメンバーが一生懸命俳句を考える……けど、今日子ちゃんと月下美人が気になってそれどころじゃない。

 ところが、花はまったく咲く気配をみせない。延々と咲かない月下美人を見つめる句会のメンバー。その様子そのものが、何かの物語のようだった。

 結局、うんともすんとも言わない月下美人を抱えて今日子ちゃんは帰った。その後、真夜中に電話がかかってきて「いま咲いたわ。私のためだけに」だって。もうホントかウソかわからない。

 今日子ちゃんの俳号は、“眠女(みんじょ)”だった。

 昭和初期の俳人、三橋鷹女が詠んだ《みんな夢雪割草が咲いたのね》という句がある。今日子ちゃんを思うと、私はこの句を思い出す。

 むかし、今日子ちゃんが「私は女優に向いてないのよ」とポツリとこぼしたことがあった。気がついたら私は、「あなたから女優を取ったら何ができるのよ」と言葉を返していた。

 反対に今日子ちゃんは、「眞奈美はお化粧しないほうがいいわ。私は眞奈美が素顔になると負けたって思うけど、お化粧をしたらこっちのもんだわ」としれっと言う。

 お互いに褒めているんだか、けなしているんだかわからない。だけど、そういう言葉を交わせるから親友だったのだと思う。

(構成/我妻弘崇)

ふじ・まなみ●静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。