岡田美里と保護犬である2匹。それぞれ靴だったり、ミトンのような手足だったのでそう名づけた。クックは徳之島から、ミトンは山口県から来てくれたという

「今一番幸せを感じるのは、2人でごはんを食べているとき。スーパーで“今晩何を作ろうかな、彼と何を食べようかな”とあれこれ考えていると、しみじみ“あぁ、幸せだな”って思います(笑)」

 と話すのは、タレントでジャム作家の岡田美里(61)。昨年5月14日、2歳年上の一般男性と再々婚。お相手は18歳のときからの古い知り合いだという。

10年ぶりの再会で「学生時代が蘇った」

 交際の始まりは2度目の離婚後で、今から14年前のこと。

「あのころちょっとクサクサしていて、“私なんかもうダメよ。この先私を求めてくれるような男性は現れないわ”なんて、新幹線の中でマネージャーに愚痴をこぼしていたんです。すると“美里さんは恋をしてなきゃダメ! 昔の知り合いでも何でもいい、誰かいい人いないんですか?”と励まされて。そこでふと頭に浮かんだのが学生時代の友人の彼でした

 マネージャーが連絡先を突き止め、背中を押した。10数年ぶりに電話で話し、さっそく再会の約束をする。

「彼はしばらく海外に行っていたこともあり、連絡先がわからなくなっていたんです。男性に自分から電話をかけるのは初めてで、もうドキドキでした。でもそこで急きょ“あさって会おうよ”ということになって。彼は全然変わっていませんでした。会うのは久しぶりでしたけど、何だか昔に戻ったみたいで、学生時代が蘇った気分だったんですよね

 当時は代表を務めるアクセサリーブランド『トロールビーズ』が軌道に乗り始めていたころで、全国に200人ものスタッフを抱え、各地を飛び回る多忙な日々が続いていた。無理がたたり、身体を壊しかけたとき支えてくれたのも彼だったという。

「ブランドがどんどん大きくなって、毎日ヘトヘトになるまで働いていました。するとある日突然、顔の半分がパンパンに腫れ上がり、とても人前に出られるような状態ではなくなってしまって。歯の治療の不具合と、疲れによる免疫力低下が原因でした。困り果てていたら、“じゃあ僕が手伝うよ”と、勤めていたアパレル会社を辞め、うちの会社に入ってくれたんです。だから彼は私にとって恩人でもありますね」

 以来、公私にわたるパートナーとして付き合いを続けてきたが、コロナ禍で「夫婦でないと何かあっても駆けつけられない」と、バレンタインデーに入籍を決意。再会から13年の時を経ての還暦婚だ。長女は3年前、次女は一昨年結婚し、「娘たちには“ママが一番新婚さんだね!”って言われます」と笑う。

 入籍する2年前、母がパーキンソン病と診断されたのを機に、介護を始めた。

「父もやはりパーキンソン病で、晩年は車椅子生活でした。山梨の家なら車椅子でも暮らせると思って」と、東京の仕事を清算し、母を連れて山梨に移住している。しかしそこには大きな葛藤があったと話す。

40年以上ぶりに母と同居

「ちょうど子どもたちが独立して、これから彼との暮らしが始まるというタイミングでした。山梨に行くとなると、じゃあ別れよう、ということになるかもしれない。でも彼に相談したら、“これを乗り越えないと来世でまた会っても結ばれないかもしれないよ”と言われ、移住を決めました。私としても、母がしてきたことを自分の学びにしなければ、という気持ちがありました」

 岡田が中学3年生のとき、母は突然、家を出た。家には3姉妹と父が残され、彼女は15歳のころから自身で弁当を作り、学校に通っていたという。母との同居はそれ以来で、40年以上がたっていた。

岡田美里が母の介護をきっかけに移住した富士山の麓は、自然豊かな素晴らしい環境。最近は東京にいる時間も増えたというが、田舎暮らしを楽しんでいる

「母はきゅうりが好きだったんだとか、一緒に暮らして初めて知ることもたくさんありました。でもそれは本来なら当たり前に知っていたことですよね。母は家を出てからずっとひとりで自由に生きてきたから、最初はいろいろ大変でした。ふと気づけば何も言わず散歩に出かけてケガをして倒れていたりと、周りに構わず行動することも多くて。けれどこれからは母もヘルパーさんなど周りの力を借りて生きていかなければいけない。

 “ひとりで生きているんじゃないんだよ”と、何度も母に言いました。“自分の歩んできた道の一番先が今ここ。自分の人生を見直すことも必要だよね”と母に伝えました

 移住から1年後、「地元に少しでも貢献を」と、社会福祉施設で入所者とともにジャム作りを始めた。ジャムブランド『ジャムオブワンダー』を立ち上げ、ウェブサイトのほか道の駅や頒布会で販売。手作りの美味しさが評判を呼び、今では即完売するほどの人気が続く。

「施設にいる方は18歳以上で、実際には30代から60代の方もいます。あまり言葉は通じないけど、彼らと一緒に作業していると楽しくて。みんな私のことを岡田美里だとは知らないんですよね。テレビ山梨の番組に私が出ているのを見て、“自分たちの施設で働いているおばちゃんがテレビに出てる”と思っているんです(笑)。私に対してフィルターがない。それがすごく心地よくて、癒しの時間になっています

 一方、岡田美里に憧れる“ミリラー”といわれるファンもいる。ファンのなかにはミリラー歴数十年という女性も多く、山梨移住後は彼女たちに向けYouTubeで自身のライフスタイルを発信。変わらぬ美貌と笑顔を届け、ファンの期待に応えている。

「質問でよく寄せられるのが、お洋服の選び方や、50代からの豊かな気持ちの持ち方、あと私の恋愛遍歴について。恋愛の失敗はたくさんあります。若いときなど、それはもう本当にありすぎるくらい(笑)」

バッシングで「雑誌の表紙すら見なかった」

 E・H・エリックさんを父に、岡田眞澄さんを叔父に持ち、10代のころからモデルとして活躍。28歳で結婚すると“元祖カリスマ主婦”と呼ばれ、「婦人女性誌の表紙を最も多く飾った女性」に3年連続で選出される。2女に恵まれ、理想の結婚生活に見えたが、離婚。会見での発言が取り沙汰され、バッシングの嵐にさらされた。自らの人生を「ジェットコースターのよう」と語る。

「最初の結婚をうまくできなかったというのが、やはり一番下に落ちた瞬間でした。バッシングを受けたときは、雑誌の表紙すら見ませんでした。反省すべきことはしつつ、テレビもすべて消し、ネガティブな波動をなるべく身体に入れないように過ごしていました」

 浮き沈みを幾度も経験し、気づいたことがあるという。

「人は一番下に落ちたら後はもう上るしかない。彼に出会ったときもそう。新幹線でマネージャーに励まされ、品川駅に着いたら上り階段が目の前にあった。それを見た瞬間、“私にはもう上る階段しかない!”と思ったんです(笑)。大切なのは、下に落ちたとき覚悟を決めて上ること。そうしたら本当に上ってこられた」

 現在は東京と山梨の二拠点生活を送る。山梨ではローカル番組『スゴろく』(テレビ山梨)の出演と施設でのジャム作りを継続。東京では代表を務めるデンマークジュエリーブランド『トロールビーズ』の新店が昨年5月、代々木にオープンしている。

「覚悟を決めて階段を上ってきたけれど、今もまだ上り切ったという気持ちはなくて。この先、施設の人たちのことも考えていきたいし、できれば以前も行っていた紅茶の取り扱いも再開したい。計画していることもたくさんあって、これからも階段を上っていけたらと思っています」


取材・文/小野寺悦子