クリスタルケイの母・シンシア(60)50年以上ブラックミュージックを聴き続けているという憧れの人と

 在日三世として東京に生まれ、人気シンガー、クリスタル・ケイ(37)を女手ひとつで育てたシンシア(60)。高校時代はディスコに明け暮れ、3年生の夏、家出を決行。赤坂のスナックで働き、ひとり暮らしを始める。

家出先を突き止められて連れ戻され高校は退学

「いつものように自宅で出勤の準備をしていたら、ピンポンとチャイムを鳴らす人がいる。居場所はどこにも知らせてないはずなのに、不思議です。誰だろうとドアを開けたら、小学校からの同級生の友達5人が制服姿で立っていた。聞けば、ディスコをあちこち探し回っていたと言います。六本木、赤坂と、“こういう子を知りませんか”と片っ端からディスコを尋ね歩いて、ついに居場所を突き止めた。“その子なら赤坂のスナックで働いてるよ”と言われ、店でマンションを聞き出したとのことでした。ずいぶん長い間探してくれたようです。

 私が家を出たのは夏で、友達が来たときはもう秋の終わりになっていました。友達は『帰ってきなよ』と泣いています。けれど私は家にも学校にも戻らないと決めていた。友達にも『無理だから』と言いました」

 当然のように話は実家に伝わった。友人が引き揚げてすぐ、ひた隠しにしてきた居場所も知られ、両親がそろって彼女を連れ戻しにやってきた。

「マンションのそばの喫茶店で久しぶりに両親と会いました。私が『絶対に家には帰らない』と言ったら、父と母が押し黙ってしまった。同席していたスナックの店長さんが、『彼女もこう言っています。私が責任を持って面倒を見ますから、どうぞ今日のところはお引き取りください』と両親を説得してくれて、ひとまずその場は収まりました。母が『これ食べなさい』と紙袋を私に押しつけ、泣きながら帰っていきました。

 わざわざ作ってきてくれたのでしょう、袋の中には焼き肉弁当がいくつも入っていました。さらにその奥にもうひとつ小さな袋が入っています。中身は生理用ナプキンでした。私はてっきりお金でも入れてくれたかと期待していたので、『何だコレ?』という心境でした。

 それからずっと後のことです。下の妹に『自分が17歳のころのことを思い出したんじゃない? お母さんの気持ちにもなって。すごい泣かせたんだよ』と言われ、ようやくそうだったのかと腑に落ちた。母は昭和11年生まれで、若いころは生理のとき、かなり苦労したと聞きます。娘に同じ思いをさせたくない、という親心だったのかもしれません」

ディスコで遊ぶ日々

 数日後、父親が軽トラに乗って迎えに来た。2人で荷物を積み込み、日吉の実家へ戻る。家を飛び出してから4か月がたっていた。

クリスマスに横浜のビルボードライブで娘のクリスタル・ケイがライブを行ったときの一枚

実家には戻ったけれど、学校には行かず、昼は寝て、夜になると赤坂に繰り出しては毎晩ディスコで遊んでいました。学校に通っていたのは高校3年の1学期までで、自主退学扱いになっていたと思います。

 親は相変わらず厳しくて、早くまた家を出たいと思っていました。実際、それから何週間も日吉にはいませんでした。再び家を出るきっかけになったのが、赤坂のディスコで出会ったフミコ。彼女は黒人と日本人のミックスルーツで、赤坂のクラブで歌っていた。フミコは彼から暴力を振るわれていて、ディスコで会うたび、

もうこれ以上耐えられない。逃げ出したい』と言って泣いていました」(次回に続く)

<取材・文/小野寺悦子>