山田邦子さん

 今、お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアで人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く新連載。

 女性芸人の存在感は高まっているものの、全国ネットのゴールデンタイムに、名前を冠したバラエティー番組を持ったことがある女性ピン芸人は、今のところ、山田邦子さんひとり“唯一お笑いで天下を取った女性ピン芸人”といわれている。

「女は面倒くさい」と言われつつもアイドル扱い

 そんな邦子さんが、人を笑わせるという道をいかに切り開いてきたのか。女性がお笑いをやることの面白さ難しさを、存分に語ってもらった。

 2022年暮れ、『M―1グランプリ』の唯一の女性審査員として、邦子さんは和服姿で登場した。最高峰の漫才決戦で、「なぜあの人が審査員を?」との異論もあったが、彼女は、伝説のお笑い番組『オレたちひょうきん族』で大活躍し、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の冠番組を持って人気を博した、お笑い界で数少ない女性スターである。

 同年6月『水曜日のダウンタウン』で、「しんどい先輩にYouTubeコラボしたいと言われたとき、断り方ムズい説」というドッキリをしかける企画に、邦子さんは“しんどい先輩”として出演依頼を受けた。

なんて失礼な依頼なんだろうと私も最初はムッとしたけど。よく考えたら、面白い番組なんだし、面白いことをやれるんだったら、何でもありですよね

 出演を快諾し、3か月ほどかけて撮影は行われた。ドッキリとは知らず、コラボを大喜びする若手コンビもあり、「山田邦子の旬は終わってる」などと陰口を言う若手芸人もあり。その様子が放送されると、大ウケとなった。放送後、イヤがっていた若手芸人ともYouTubeで何度もコラボを実現。

 すっかり仲良くなり、「受け入れてくれた邦子さん、心広すぎる」と、感謝された。失礼とも思える企画に乗っかり、笑いを生んだ。あらためて、お笑い人としての山田邦子の底力を見せつける形となった。『M―1グランプリ』で、審査員を務めたのは、その半年後のことである。

女は面倒くさいからなぁ

 テレビに出始めて間もなくの1981年、太田プロのスタッフからスカウトを受けたときに、当時の社長からそう言われてしまったという。

私は女子校育ちで、身体も大きくて、フォークダンスのときも男役。女だからどうってことは考えたことなかったので。女は面倒だと言われて、“なんで?”と思っちゃいましたけど。聞けば、過去に女性タレントが突然妊娠して、約束していた仕事ができなくて迷惑をかけたらしくって。

 もう40年以上も前の話ですからね。今は子どもができたら喜ばしいことですけど。でもね、社長さんは私のことを心配して言ってくれてたんですよ。事務所に入ってからは、本当によくしてくださいましたからね。落とし穴に落ちたり叩かれたり身体を張るようなことは、事務所で禁止してくれてたみたいです。アイドル扱いですよね。私としては本当はやりたかったんですけど(笑)

山田邦子さん

 邦子さんの活躍もあって、その後はプロダクションも女性を受け入れるようになり、お笑いを志す女性も増えた。

お笑いに一生懸命な女の子が増えてきて、いい時代になったなぁと思います。私がデビューしたころは本当に少なかったですからね。私は女だから苦労したって感覚は、あまりないんです。男性をライバル視したことはないし。女でピンだから使いやすかったというのもあるでしょう。

 活躍している男性タレントのアシスタントのような形で忍び寄って(笑)、どんどんワールドに入っていけた。女性芸人が増えただけじゃなくて、お笑いの地位が上がったことも大きな時代の変化だと思います。お笑いタレントが情報番組やニュース番組の司会をするなんて、考えられなかったですもんね

 お笑いに目覚めたのは、小学生のときだった。

小学4年のときの林間学校で、出し物をやったら大ウケして、人を笑わせるのが好きになったんです。植木等さんや、ザ・ドリフターズに憧れてました

それまでブスと言われたことがなかった

 中高時代は仲間の前でものまねや漫才を披露し、学内にファンクラブができるほどの人気者となる。短大進学後は寄席演芸研究会に所属して腕を磨き、テレビ出演禁止の校則をかいくぐって、偽名で数々の番組に出演。ものまねをベースにした漫談が評判を呼び、注目の存在に。短大卒業間際にはドラマ『野々村病院物語』に出演も決定。大反対する父親を押し切って芸能界入りした。

家ではお姫さまのように育てられたので。自分は可愛くて華やかな部分があるから、テレビに出してもらってると、最初は思ってたんですね。ところが、出演したドラマに夏目雅子さんがいらして、あまりのきれいさにびっくり。

 あぁ、自分は可愛いから呼ばれたんじゃなくて、面白いから呼ばれたと気がついた。それからは面白いことを頑張ろうって、道がはっきりしました

デビュー当時の1981年ごろの邦子さん

 男性芸人からブス扱いされて、父親が激怒したこともあった。

それまでブスと言われたことがなかったので、最初言われたときはちょっとびっくりしましたけど、それで笑いが取れるなら私はかまわないと思ってました

 デビュー直後から売れっ子になり、女性としてのライフプランは大きく変わった。

母方の祖母が、『女は23歳ぐらいでみんな結婚するんだよ』とよく言ってたんで、自分もそうだとずっと思ってたんですよ。ところが仕事を始めて、23歳になっても結婚できなかった。ただ、仕事は楽しかったし、どんな家庭をつくりたいかと考えても、何も浮かばないから、私はこのまま結婚しないんだなぁって自分で納得してたんです。

 それなのに、『なんで結婚しないの?』って、まわりからしょっちゅう聞かれる。ワイドショーはもちろん、全然知らない人からも結婚についていろいろ言われるようになって。さすがに気が病んでしまったこともありましたね

 邦子さんが20代を過ごした1980年代は、女性を「クリスマスケーキ」にたとえ、25歳過ぎて未婚だと売れ残りとして扱うような風潮があった。

よく観察すると、幸せそうじゃない人にかぎって、とやかく言ってくるんですよね。それで、“何で結婚しないの?”と聞かれたら、“ブスだからです”って答えるようになったんです。そしたらそれ以上、相手は何も言ってこなくなるから。それでも、39歳で結婚するまで、ずっと聞かれ続けましたね。

 忙しい中でも恋愛はしてました。お笑いやってるから、モテないってことはなかったですよ。まぁ、時にはびっくりするぐらいの失恋をして、道に倒れて泣いたなんてこともありましたね。そしたら、コートかけてくれる人がいてね。見たら、いつも行ってるおすし屋さんのいちばん若い子で。それで、はっと正気に戻って、立ち直れました(笑)」

 仕事はずっと順調だった。バスガイドネタが評判となり、『邦子のかわい子ぶりっこ(バスガイド編)』でレコードデビューも果たした。

 1981年、お笑いの流れを大きく変えたといわれる『オレたちひょうきん族』が始まった。若き日のビートたけしさん、明石家さんまさん、島田紳助さんなど、笑いの猛者たちが集結。数少ない女性として出演することになった邦子さんは、それまでにない「悔しい思い」をすることになる─。

構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など