西鉄バスジャック事件 新聞協会賞を受賞した共同通信の関根孝則カメラマンの「夜明けの救出」=2000(平成12)年5月4日、広島県東広島市 「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第12巻使用画像(P45)

「今から23年前の今日、日本の特殊部隊SATが初めて大きな注目を集めることになる西鉄バスジャック事件が起きました」

 そう話すのは、元大阪府警の刑事で、犯罪ジャーナリストの中島正純氏。特殊部隊SAP(後にSATと改名)の存在が最初に明らかになったのは1995年、函館空港で起きた全日空機ハイジャック事件だ。当時は警察内でもほとんど存在を知られていなかった秘密部隊だった。

ハイジャックなどの際に強行突破する特殊急襲部隊、通称SAT

「『よど号事件』(1970年)、『ダッカ事件』(1977年)など多発するハイジャック人質事件に、当時の警察は対応できる部隊を持っておらず、犯人の要求を全面的に飲まざるを得なかったという屈辱を味わっていた。

 それらの苦い経験から日本警察は本格的な対テロ作戦部隊の設置を決め、まずは警視庁と大阪府警に特殊急襲部隊を設立。さらに追随して全国の主要7都道府県の警察で特殊部隊の設置が水面下で進められた。これがハイジャック、バスジャック、立てこもりなどの際に強行突破する特殊急襲部隊、通称SATが作られた経緯です」(中島氏)

 そんな中2000年5月3日、ゴールデンウイーク真っ最中に日本を震撼させる西鉄バスジャック事件が起きる。

「犯人であるA少年(当時17)は、佐賀県佐賀市の中学校でかつて激しいいじめを受けていた。高校に入学したものの、すぐに退学。その影響で家庭内暴力を繰り返すようになったため、ついには精神病院へ入院させられた」(全国紙社会部記者)

 本当は母校の中学校で生徒たちを殺害して復讐を果たし、自分も死ぬつもりだったというA少年。

「だが、精神病院で外泊許可が下りたのがたまたま休日だったため、学校を襲うことを諦めてバスでの無差別殺人に切り替えたようです」(同・社会部記者)

 5日3日の午後0時56分、A少年は佐賀第二合同庁舎発、西鉄天神バスセンター行の西鉄高速バスに乗り込んだ。太宰府インターチェンジ付近で、彼は運転手に近づきおもむろに牛刀を突きつけ、

「天神へ行くな、このバスを乗っ取ります。お前たちの行く先は天神じゃない。地獄だ」

 と脅し、2日間にわたる未曾有の惨劇が始まる。

西鉄バスジャック事件 広島県の山陽自動車道を走行する乗っ取られた西鉄高速バス「わかくす号」=2000(平成12)年5月3日午後5時40分、共同通信社ヘリから 「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第12巻使用画像(P44)

 バスはA少年の指示で中国自動車道から、山陽高速道路へ移動。乗客数人が少年の隙を見て逃走し、その中の1人が110番通報した。バスジャック後から1時間以上経ってからの事件発覚となった。

 逃走者が出るたびに、A少年は見せしめとして乗客を刺すという地獄のような状況が続く中、通報直後から大阪府警と福岡県警の特殊部隊SATが動き出す。

 前出の中島氏は事件が起こる1か月前まで、大阪府警のSATが所属している第二機動隊にいて、事件を解決することになるSATの隊員とともに訓練を受けていた。

「この事件が起きた時、僕は刑事部に異動していたので、現場に向かったのは後輩たち。だから、よく覚えているんです。ふだんから体力づくりのほか、さまざまな場面を想定した訓練をしていましたからね」(中島氏、以下同)

大阪府警と福岡県警のSAT、広島県警の即席部隊で突入準備

 大阪府警のSATはまず広島に行き、福岡県警のSATと広島県警の即席突入部隊と合流。そこで、事件と同じタイプのバスを使ってシミュレーションをしたという。

「解放された乗客1人がすでに死亡して、車内には怪我をしている乗客もいたので、事態は一刻を争っていました。誰が閃光手榴弾を投げ、誰がハンマーで窓ガラスを割り、誰が突入し、誰が少年を押さえて、誰が人質の女児を確保するかなどを決めて、訓練を繰り返した」

 事件発覚から15時間が過ぎた4日の午前5時。バスが広島県の小谷サービスエリアに停車していた際に、突入は敢行された。

西鉄バスジャック事件 運転席側から西鉄高速バスを乗っ取った犯人を説得する捜査員=2000(平成12)年5月3日午後5時55分、広島県東広島市の山陽自動車道奥屋パーキングエリアで共同通信社ヘリから 「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第12巻使用画像(P45)

「バスの死角である真後ろに警察車両を停めて、その後ろにもう1台停め、その陰にSATの隊員が待機。ネゴシエーターが手袋を落とすのが合図だった」

20人以上の部隊は左右に分かれ、バスの両サイドから突入する。

報道陣がまさかのフライング…突入時の誤算

「突入の瞬間の映像を見ると、閃光手榴弾が光るよりも一瞬早く、カメラのフラッシュが光っている。報道陣には取材規制をかけていましたが、明らかにフライング。無事に解決したのでよかったのですが、本来はあってはならないことだった」

 突入時の怪我人は割れたガラスで少し足を怪我した警察官だけ、完璧な急襲作戦だった。

 こうしてバスジャック事件は決着をみた。以後、SATは広く国民の知るところとなって、現在に至っている。

「西鉄バスジャック事件の1年後に京都でもバスジャックがあったのですが、SATが出動してすぐに鎮圧。去年の東京で起きた焼肉店立てこもり事件にも出動しています。23年前のあの日にSATの威力を日本中に知らしめたことは、間違いなく犯罪の抑止力にはなっていると思います」

 と中島氏は強く主張した。

 1人が死亡、2名の負傷者を生んだ西鉄バスジャック事件。A少年は少年院送りとなったが、40歳を過ぎたいまでは社会復帰を遂げているという。

 

事件当時、『週刊女性』が報じたA少年の素顔

 

西鉄バスジャック事件 新聞協会賞を受賞した共同通信の関根孝則カメラマンの「夜明けの救出」=2000(平成12)年5月4日、広島県東広島市 「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第12巻使用画像(P45)

 

西鉄バスジャック事件 運転席側から西鉄高速バスを乗っ取った犯人を説得する捜査員=2000(平成12)年5月3日午後5時55分、広島県東広島市の山陽自動車道奥屋パーキングエリアで共同通信社ヘリから 「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第12巻使用画像(P45)