安藤和津

 エッセイスト、タレントの安藤和津さん(75)は、夫に俳優の奥田瑛二さん、長女は映画監督の安藤桃子さん、次女は俳優の安藤サクラさんという芸能一家。華やかで明るいイメージの裏で、12年間も実母の介護を続けていた。

「最初におかしいな、と感じたのは、母がまだ50代のころ。私は38歳で、次女のサクラを出産してまだ病院にいたときのことです。長女の桃子を母が面倒見ていたのですが、お見舞いに来るとき、桃子が毎日同じ服を着ている。几帳面な母が着替えさせないなんておかしいと思ったのですが、そのときは母も忙しいのかな、としか思いませんでした」

きちんとしていた母の変貌に「嘘つき! 二重人格!」と怒り

 決定的だったのはサクラさんが小学生のころ。

「学校のお弁当の日に、母が私にもお弁当を作って持たせてくれたんです。うれしくて新幹線の中で食べると、ひき肉がお砂糖だけで煮てあり、しょうゆが使われていなかった。あえ物のほうれん草は腐っていて、しらすはカビだらけで」

 あとでサクラさんに「お弁当、変じゃなかった?」と聞くと泣き出し「いつもそうなの。おばあちゃまのお弁当いつも味がおかしい。トイレに行って、手を洗わないでおにぎりを握るから食べられない」と。

「サクラに『なんで早く言わなかったの?』と言うと『そんなこと言ったらおばあちゃまかわいそう。一生懸命作ってるんだから』と。母は料理上手できちんとした人だったので、私はショックだったし怒りも感じていたのですが、娘の言葉に教わりました」

 しかし、その後も母の症状はさらに進行。安藤さんの出版パーティーに出席すると「私のパーティーは一体いつやるの!」と怒鳴る。家に取材記者が来ると、安藤さんが席を外した途端に悪口を言う。おかしな行動が目立っていった。

主治医も取り合わず「親の愚痴を言うな」

 医師ですら認知症という病気を理解できていなかった昭和の時代。安藤さんが病院で母の状態を話すも「病院は親の愚痴を言う場所ではない」と取り合ってもらえず、友達のおすぎとピーコからも「お母さんの悪口を言うんじゃないわよ!」とたしなめられる。気持ちの置きどころがなくなった安藤さんは、やがて母の人間性を否定するようになった。

「家族の箸の上げ下ろしにもうるさかった母が、お赤飯を手づかみで食べるのを見たときは『この嘘つき、二重人格!』と悲しくなりました。憎しみが募り、母の首に手をかける夢を見たことも」

 母が70代になり、病院で脳の検査をすると、脳腫瘍が見つかる。大きさはテニスボール大にもなり、20年以上も前にできていたことが判明。それまでの母の行動は脳腫瘍が原因の老人性うつ病と認知症によるものだともわかった。

「医師から『よくここまで一緒に住んでいましたね』と言われて、初めて気持ちをわかってもらえた、と思いました」

 母の脳腫瘍は明日死んでもおかしくない状態。医師からも「明日起きてきたら神様からのプレゼントだと思って」と言われた。その言葉に、安藤さんの気持ちも「母に幸せな時間を過ごしてもらいたい」という前向きなものへと変化した。

「食べることが大好きな母に喜んでもらいたくて、料理もたくさん作りました。朝の『おはようございます』のあいさつも、今日も生きていてくれてよかったという気持ちを込めて。そのころ、母はすごく短気でイラッとするとテレビのリモコンなどを叩きつけていたんですが、私たち家族の愛情が伝わったのか、母も穏やかになっていきました」

 最期は家族が見守る中で、母を見送ることができた。

「脳腫瘍によるむくみも、亡くなったら腫れが引いて見事な美人に。それを見て、思い残すことなく旅立ったんだと実感できました」

 安藤さんは最期まで在宅介護をしていたが、「無理なことは人に任せたほうがいい」と言う。 

 在宅介護を始めて4年がたったころ、安藤さんは介護うつを患ったことも。母は寝たきりになり、鼻から管を通して栄養を摂取する経管栄養を始めた。安藤さんは仕事もしながら夜中の2時間おきの痰の吸引や経管栄養、排泄の世話などを1人でこなすうちに寝る時間が減り、次第に心もすり減っていった。

「朝や仕事のときにはヘルパーさんにも来てもらいましたし、家族も体位交換などは手伝ってくれましたが、下の世話などは自分がやらなきゃという気持ちでした。皆さんには介護を1人で抱えず、人に任せてほしいですね」

 また、自分が介護されないよう意識するのも大切、と安藤さん。

「そのためには生活力をつけて、常に頭を働かせていること。特に炊事は頭を使いますから男性もできるようにしたい。奥田もこの10年で、炊事、掃除、洗濯、皿洗いなどなんでもやるようになりました」

 家族が困らないよう、あらかじめ老後や死後の話もしておくとよい、と安藤さん。

「私は認知症になったらさっさと施設に入れて、担当の介護士さんは私好みの男の子にしてと伝えています(笑)。死んだらつけまつげをつけてきれいにして棺桶に入れて、ロックをかけながら楽しく見送ってほしいですね」

(取材・文/野中真規子)

 

母も一緒の家族写真。認知症という病気を理解されなかったころ、誰にもわかってもらえず苦しんでいた

 

'04~'05年ごろ、自宅ベッドで母と。母の首に手をかける夢を見たこともあったが、最期は母も穏やかに

 

幼少のころの母は箸の上げ下ろしにもうるさかった