山田太一さん

 1977年の『岸辺のアルバム』1983年の『ふぞろいの林檎たち』などの名作ドラマを手がけた脚本家の山田太一さんが2023年11月29日、川崎市内の施設で老衰のために亡くなった。89歳だった。

「山田さんは、私たちの日常の中にある人間の葛藤を描きました。あるときは一見、幸せな家庭が崩壊の危機に直面するさまを、またあるときは特攻隊の生き残りと戦後に生まれた若者との軋轢を……。人間の持つ弱さや汚さを描きながらも、山田さんにはそうした人間を愛おしく思う眼差しがありました」(テレビ誌ライター、以下同)

 山田さんは東京・浅草生まれだが、戦争の影響から神奈川県に疎開。本質を見抜く慧眼は、少年期にあった激烈な体験を通して醸成された。

「山田さんが小学生のとき、母親と2人の兄が亡くなりました。しばらくして山田さんの父親は“おまえは小さいから死ぬということがちゃんとわかっていない”と言ったそう。山田さんはその言葉を受け“戦争で大変な時期に妻と子どもを失い、残された家族を支える必要がある父はどん底だ。それに比べれば、僕が人の死をキチンと感じ取れていないと思った父は鋭い”と、語っていました。こうした積み重ねが、山田さんの深い洞察力を養ったのでしょう」

同じ女性をに恋して

 これだけではない。

「切磋琢磨した友人の存在も大きい。山田さんは、早稲田大学に進学するのですが、そこで“親友”と出会うのです」(文芸誌編集者、以下同)

 いったい、誰か。

「詩人や作家などとしても活躍した寺山修司さんです。入学してほどなく出会い、親交を深めていきます。腎臓の病を患い、入院生活となった寺山さんを見舞うため、山田さんは足しげく病院に通うように。そこで話し足りないことは手紙にして、対話を続けた。三島由紀夫、サルトル、大岡昇平など……その内容は多岐にわたりますが、青年らしい恋の話も出てきます。実はこの2人、同じ女性を好きになるんですよ。青春ですね」

 ただ、先にその女性に目をつけたのは寺山さんだった。

入学式で声をかけてから、寺山さんはすぐにラブレターを渡したのです。女性は“応えられない”と断るも、熱烈なアピールを続けました。女性は寺山さんの見舞いにも訪れますが、寺山さんが“僕は寝てても君は来る。だから僕が好きなんだ”との言葉を聞いて行くのをやめたそう(笑)。ほどなくして、山田さんもその女性と知り合うのですが、寺山さんが恋していることを知る山田さんは、惹かれつつも明確な恋心を口にしなかったそうです

“夫としては95点”

 時は過ぎ、寺山さんは売れっ子に。山田さんは助監督を経験し、脚本家として頭角を現していく。一方、2人が恋した女性はというと、後にテレビ朝日となるテレビ局のアナウンサーとなった。

名前は和子さんというのですが、山田さんと結婚するんです。ふたりは大学の行事で距離を縮め、卒業後に交際へと発展。3人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。和子さんは雑誌インタビューで山田さんについて“夫としては95点”と高く評価していましたよ」

 寺山さんは病に倒れ、47歳で急逝。山田さんも晩年は、脳梗塞で倒れてから、施設に入居。穏やかな日々を過ごす中、悲しみに暮れることもあった。

「和子さんは、2021年12月に亡くなられました」(テレビ朝日OB)

 ライバルであり親友だった寺山さんが逝き、最愛の妻にも先立たれた。名脚本家は、その“死”に何を思ったのか。

山田太一さんの親友だった寺山修司さん

寺山さんは、亡くなる少し前に山田さんと連絡を取り、何度か会っていたそうです。和子さんも一緒に、充実した時間を過ごしたそうですよ」(前出・文芸誌編集者)

 きっと今は、謳歌した青春を3人で議論して─。