夢グループ社長・石田重廣(撮影/佐藤靖彦)

「お客様、こんばんは〜!」

 尾藤イサオ、フォーリーブスの江木俊夫・おりも政夫、三善英史、フィンガー5の晃、あべ静江、狩人の高道、などなど……昭和の歌謡史を彩った大スターたちが立つステージ「夢スター春・秋」。その中心でMCを繰り広げ、笑いを取り、堂々とオリジナルソングを披露する大男。彼こそが通信販売会社兼芸能事務所「夢グループ」の社長、石田重廣(65)その人である。

夢グループ社長・石田重廣、挫折を覚えた少年時代

CM撮影は社内で。パーティションの奥が保科さんの「控室」だという

 石田社長自ら出演する夢グループのテレビCMでは、福島訛りが強く残る本人の優しい語り口と「愛人?」とも噂された共演者である歌手・保科有里さんとの掛け合いが話題になり、モノマネ芸人のネタにもされてタレントとしてもブレイク。石田社長いわく“シーデー”(CD)や、“デーブイデー”(DVD)を再生できる「夢ポータブル多機能プレイヤー」「夢充電式ハンディ電動チェーンソー」、「夢コードレス高圧洗浄機」など数々のヒット商品を世に出し続け、現在の年商は約180億円にものぼる。

 商品開発や自社CM出演といった社長業で国内外を飛び回る一方で、年間100日以上は往年のスターを率いて地方を回り、コンサートを興行する石田社長。そのエネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。4時間ほぼノンストップでしゃべりきった本人の言葉や、保科さんをはじめとした夢グループゆかりの人物の証言からひもといていく。

「僕は頭が悪くて、友達もいない子でした」

 石田社長は福島県福島市生まれ。県庁職員の父と専業主婦の母の間に3人きょうだいの長男として生まれた。姉と弟がいる中間子だ。

 教育熱心な両親のもとで長男として期待をかけられ、幼少期から塾に通い、国立の附属小学校に進学した。しかし周囲の優秀な生徒と比べると、自身の成績はほぼ全教科で3段階の一番下だったという。

「当時の僕は『さしすせそ』が言えなくて『ちゃちちゅちぇちょ』になっちゃってたんです。よりによって授業参観の日に『ちぇんちぇーおはようございまちゅ。起立、礼、“着陸!”』って言葉も間違えちゃいまして。そこから『あの子は頭が悪いから遊んじゃだめ』と他の子の親御さんに言われていたようです」

 成績は悪かったが、運動はよくできる子どもだった。成長も早く、大きな身体でスポーツが得意。「成績が悪いことを知らない下級生にはよくモテた」という。そんな石田少年は、中学校に上がってからは勉強も頑張るようになり、成績がどんどん上がっていった。

「勉強を頑張ると、周りの大人たちが手のひらを返すように見る目を変えることがわかったの。それは面白かったですね」

 そのころ、勉強をして家に帰ると、テレビで流れているのは歌番組。ちょうど山口百恵・桜田淳子・森昌子の「花の中3トリオ」が人気のころである。石田少年も中学3年生、同年代が活躍する芸能の世界がまぶしく見えたという。そんな折、福島県に元祖オーディション番組である『スター誕生!』(日本テレビ系)がやってくる。彼はこのチャンスを逃さず、オーディションに応募した。

「はがきを出したら『合格』って返ってきましてね、やっぱり自分には才能があるんだと思いましたね。やっぱりスカウトマンはどこかで見ていて、歌わなくても才能があるのがわかったんだなと」

 もちろん早とちりであるが、喜び勇んだ石田少年は、クラスの友人に「歌手になって上京するから、みんな勉強を頑張れよ」と豪語し、週末行われた「予選」に向かった。

大学の受験費用を盗まれ、自活の道へ

夢グループ社長・石田重廣(撮影/佐藤靖彦)

「僕は自分が特待生だと思っていましたから。3秒くらい歌ったら『いいよ』って言われたので、やっぱり合格したんだと思いました。それでいつ東京に行けばいいのか聞き、落ちたことにそのとき初めて気づいて。もう恥ずかしくて仕方ありませんでしたよ」

 週明けの学校では「歌手はいつでもできるし、やっぱりもう少しみんなといたい」と友人に話し、もうひとつの好きなことであった野球選手を志すことにした。練習相手もいない環境で、団地の壁を相手に練習を続ける。両親の反対を押し切り、親元を離れ隣県の強豪高校へと進学するも、部員の不祥事で野球部は対外試合を無期限休止に。歌手に続いて野球への道も断たれることになる。2度の挫折を経験した石田少年は、大学進学を目指すこととなった。

 ひとり暮らしで予備校に通いつつ受験に備える日々。大学受験を目前にしたころ、人生の大きなターニングポイントとなる事件が起こる。

「1校あたり受験料が2万円くらいでしたから、20万円ほどを親から現金で送ってもらっていました。当時住んでいた4畳半のアパートにお金を置いて外出して、戻ると現金がなくなっていたんです。きっとあの友達だろうな、お金なくてかわいそうなやつだなと思いました。僕自身ももともと大学に行きたかったわけではないので、仕方ないなと」

 しかし、親に言うことができなかった。「しばらく連絡が取れないようにしよう」と考え、まず引っ越しを決めた。足りない資金は学生ローンで補ったという。

「お風呂がある家に引っ越したかったので、本当は30万円が必要だったのに、怖くて15万円しか借りられませんでした。だからもう1軒、別の学生ローンに行き、また15万円を借りて引っ越し資金にしたんです。本当は自分のお金じゃないのに、そのとき僕は『自分でお金を稼いだぞ』と思っちゃったんですね」

 それまでにも新聞配達などでお金を稼ごうとしたがうまくいかず、この借金が初めて自分自身の手でお金を得た体験だったと石田社長は振り返る。両親は倹約を是としており、魚釣りや家庭菜園で半自給自足的な生活だったことに我慢ができなかったという。

「家族で県の公舎に住んでいたのですが、僕の家は1階で庭があったんです。そこで白菜とかにんじんみたいな野菜を作って食べる生活がたまらなく恥ずかしかった。そばを通るとうちの前が畑になっているのが見えちゃいますから。もちろん農家は悪くないのですが、父親は県庁で働いているのに友達から『石田くんちは農家なのね』と言われるのが本当に嫌でした」

 バナナは風邪をひいたときしか食べさせてもらえず、カステラは1センチごとに目盛りを入れて毎日少しずつ食べ、カルピスも1杯飲むごとに瓶に線をつけておく……そのような倹約生活は、石田少年にとって窮屈なものだった。

父親の“背中”が社員教育に生かされる

「それに、うちはみんな身体が大きいのに、車も頭をぶつけるような小さいのに我慢して乗っていてね。そんな父親をいつも“せこい”と思っていました」

 しかしあるとき父親から、お金は子どもたちが望めば大学に行けるように計算して貯蓄していることを聞かされる。そのころはすぐに納得ができなかったというが、今その精神は社員教育に生かされている。

「父が言っていたように『給料の額は決まっているから、その中でやりくりするのはサラリーマンの役目で、倒産しないように頑張れば生活は保証されるから頑張ろう』といつも話しています。それが嫌だったら、会社を辞めて僕のように自分で起業するべきだ、とも」

 倹約家の父を見て育ったからこそ、石田社長の独立心が育ったといっても過言ではないだろう。初めて“お金を稼いだ”のが借金であったとしても……。

次々クビになる仕事、そして独立へ

夢グループ社長・石田重廣(撮影/佐藤靖彦)

 引っ越し後、さまざまな仕事に挑戦するが、順調にはいかない日々が続いた。中華レストラン、かまぼこ店、深夜の牛丼店、百科事典の訪問販売……まだ10代で世間知らず、さらに自己流の型破りな発想を持ち込んでしまい、どの仕事も数日でクビになる。

「本当にどの職場も僕をクビにするから、自分で何かを始めることを決心しました」

 空き瓶回収から始まった“起業”は、何も知識のないところから地図制作請負業者として町内会の地図や看板を請け負うまでに至る。時には常識外れで周囲の人に怒られながらも信頼を勝ち取り、その仕事をきっかけに中国に縁を持つこととなる。

「お世話になった町内会の人が日中友好協会の副会長で、『これからは中国の時代だ』と紹介してもらって、中国の天津市に行ったことがありました。そのとき、中国には日本にはない面白いものがいっぱいあるんだということに気づいたんです。直接輸入はできないといわれましたが、郵便で送ることはできました。僕はおそらく日本で一番最初に個人輸入を行った人間だと思っています」

 化粧品や健康食品を中心に、中国で仕入れたものを日本で売るビジネスが本格始動した。

 一世を風靡した「痩せる海藻石鹸」や、「痩身クリーム」も取り扱っていたという。現地人に依頼をしてもなかなか思うように動いてくれないことから、自らが街を回り、雇っていたメイドさえも動員して限定の化粧品を仕入れるなど、自分でやれることはなんでもやった。

「毎日毎日リヤカーで街を駆けずり回って、商品を仕入れては日本に送るということを繰り返していました。そのときの会社は今自分がやっているもうひとつの通販会社『ユーコー』の前身です」

 化粧品から仏像に至るまで、なんでも安く仕入れて喜ばれる値段で売った。現在の夢グループの「あったらいいな」という商品をどこよりもコストを抑えて製造し、お客様に喜ばれる値段で販売するというスタイルは、このころから変わっていない。

反面教師・松方弘樹さんとの出会い

松方弘樹

 石田社長のビジネスは個人輸入だけにはとどまらず、伝手ができたためシルク製品を取り扱うことになる。そのときのモデルとして出会ったのが、俳優の故・松方弘樹さんである。

「最初シルク製品は僕がチラシのモデルをしていたんですが、お客様からモデルについてクレームがありまして……。周りからも『芸能人を使ったらどうか』と言われて、最初は錦野旦さんに頼んで商品が売れたのですが、所属事務所とのトラブルでその後の話がなくなってしまいました。その事務所社長が代わりに紹介してくれたのが松方弘樹さんです」

 大物俳優とはいえ、当時はスキャンダルなどの影響もあり契約金は安く済んだ。しかし昭和のスターはとかく贅沢や「粋」であることを好むものである。それは結果として、石田社長にとっての反面教師となっていく。

「最初の撮影は大型クルーザーを借りて、シルクシャツを着た松方さんが釣りをするというものでした。しかしこれがシャツではなく『松方弘樹』の広告にしか見えず、お金をかけたのに商品はまったく売れません。だから次はグリーンバックでシャツを着ている松方さんを撮影して、合成でシャツがよく見えるような広告を作ったら、これはとっても売れました。お互いの信頼関係もできまして、気をよくした松方さんは『大きな犬を用意してくれ』とか『合成ではなくロンドンやニューヨークで撮影をしよう』など乗り気に……。なんとか諦めてもらいましたが、よくもまあ次々にこんな無駄なことを考えつくなとも思ったものです」

台本は自分で考える。すべて手書きだ

 現在の夢グループのCMはグリーンバックでの撮影、スターは使わず社長自らが出演し、犬はぬいぐるみを使用。そして何よりも商品のことを最優先に伝えることをポリシーとしている。そのスタイルはこの経験を経て生まれたものだといっていいだろう。

 ちなみにテレビCMの制作費は1本約2万円、台本は毎回社長が移動中にノートに書いた手書きのもので撮影が行われている。早ければ10分程度で1本の撮影が完了し、1日で3〜4本を撮るという。もちろん、編集も社内スタッフが行っている。

「常連出演者」である犬のぬいぐるみ

芸能事務所としての「夢グループ」

昭和の歌謡曲を歌ったスターたちが集う夢グループのコンサート

 錦野さんと松方さんを紹介してくれた事務所社長が、新しい所属タレントとして石田社長のもとへ連れてきたのがヒット曲『あずさ2号』でおなじみの兄弟デュオ・狩人だった。

「最初に写真を見せられたとき、1人しかいなかったの。お兄ちゃんだけにOKをもらって、弟にはまだ話していなかったみたいなんですよ。なんで1人なの?って(笑)。でもこれがきっかけで、芸能事務所を設立することになりました」

 芸能に関しては素人だった石田社長は、徐々にその「ビジネス」に疑問を持つ。

「最初は給料制で、狩人の2人にはそれぞれ月に100万円を支払っていました。でもよくよく聞いてみたら、その前の年は仕事が1本しかなかった。芸能界で往年のスターだから仕事があるものだと思い込んでいたんです。あ然としました。下調べをしなかった自分が悪いんですが……」

 オファーが来なければテレビに出る機会は得られない。そこで石田社長は考えた。

「そのころタバコのポイ捨てが問題になっていて、2人にそれをテーマにした曲を作ってもらいました。区役所に電話をしたら、ちょうどゴミ拾いのキャンペーンをやるというので、狩人の2人にも参加させてもらえないかと」

 その作戦は功を奏し、ゴミを拾う狩人の2人はテレビ取材を受けることになる。さらに石田社長の作戦は続く。

「すぐに仕事が来るわけではないので、日本中の商工会議所や音響屋さん、ホテル関係など5000件近くに価格表をつけたDMを送りました。値段は1ステージ80万円、2ステージだと160万円のところをバツをつけて、100万円にしました。狩人の2人には勝手に値段を下げるなと怒られましたけれど、営業がないんだからいいだろうと」

 芸能業だろうと石田社長のやることに変わりはない。安くするのはお家芸である。その手腕が話題になり、往年のスターたちが次々と石田社長のもとへ集まる。そして全国を往年のスターたちが巡るキャラバンである「夢コンサート」へとつながっていくのだ。

昭和の歌謡曲を歌ったスターたちが集う夢グループのコンサート

 現在も夢グループに所属する狩人の高道さんと、演歌歌手の三善英史さんは、石田社長をどう見ているのか。2人そろって話を聞かせてくれた。

「最初のころは社長はマネージャーだからギターを持ってくれていたんですよ。でもそれが今じゃ自分を売り出して一番有名になっちゃうんだから。小さいころの“夢”っていうのがいくつになっても叶えられるんだから、社長自身がまさに『希望の星』ですよ。でも三善さんは最初のころは契約を断っていたんですよね?」(高道さん)

「いやいや(笑)。普段僕たち歌手同士ではそんなに仲良くはならないものなんです。同じ現場でも一日一緒にいれば長いほうで。でも夢グループは年単位で一緒にいるから、みんなと家族みたいに仲良くなって会えないと寂しくなります。これがこのコンサートの一番のメリットですね。まあ、中には1人2人、会いたくないのもいるんだけど(笑)」(三善さん)

 2人が声をそろえて言うのは、この夢コンサートを率いる石田社長がいかに芸能界の常識を逸脱しているかということだ。芸能においては素人だったからこそ、自由な発想ができる。ジャンル違いの歌手を同席させることも、往年のスターを同じレンタカーに乗せて移動することも、飛行機でみんな一緒にエコノミーに乗ることも厭わない。「こうあるべき」に対して「無駄なことはやめましょう」と言えるからこそ、往年のスターたちに「場」や「生きがい」を提供でき、観客には夢と笑顔を届けられている。

「愛人!?」保科有里と石田社長の関係

コンサート終了後には保科さんと物販コーナーに立ち、観客と気さくに話す

 さて「夢グループ」といえば避けて通れないのが「愛人問題」である。正確には、CMにいつも石田社長と一緒に出てくる夢グループ歌手・保科有里さんの「愛人疑惑問題」だ。

 結論から言えば、2人の関係はビジネスパートナー、ある意味では愛人以上の関係である。しかしながら「社長〜 安くして〜」と甘える妙齢の女性と、ついつい安くしてしまう石田社長というCMでの2人の様子を見れば、ただならぬ関係と思うのも無理はないだろう。

 そんな2人の出会いはおよそ16年前。ホテルのラウンジで歌っていた保科さんが受け入れ先の事務所にと石田社長を紹介されたことがきっかけだった。保科さんがこう振り返る。

「そのときは私以外にも2人候補の方がいたんです。でも私が『よろしくお願いします』と握手したら『はい』と社長がお答えになって。『あなたに“はい”って言ったからもう他の2人は会わなくていい』と、私に決めてくださいました」(保科さん)

 その後、夢グループ所属歌手として活動しつつ、カラオケマイクなどの商品紹介に登場するようになった保科さん。本人の“素”はどちらかといえば低めの声だが、CMのときは“愛人感”を全開にしている。その表情管理や指先に至るまで「完璧」で、ミラクルひかるさんなどモノマネ芸人の大好物であるのもうなずけるというものだ。

「私のオリジナル曲はいろんなタイプの楽曲があって、初恋の歌もあれば、失恋の歌もある。それによって人格を変えて歌うことが好きなんです。だから、CMでは思いっきり甘える女の子の人格になっていますね。甘えた声を出すのは最初恥ずかしかったんですが、それを望まれているのであればやりきろうと思っています。愛人かって本当によく聞かれてきましたが」

 では、そもそも石田社長が保科さんを見初めたのはなぜだったのだろうか?

「保科さんをCMに起用したのは、まるっきり“色がなかった”からです。松方弘樹さんだったら、商品じゃなくて自分たちのために表情をつくっちゃうでしょう。そうなると社名は覚えてもらえるかもしれないけど、彼らの下になって、彼らの色がついちゃうから。でも保科さんなら真っ白だから、そこを利用させてもらった形ですね」

 その社長の言葉を聞いて「こんなにヒット曲がなくてよかったと思うことはなかった」とつぶやく保科さん。とはいえ、型破りな石田社長にパートナーに選ばれたのは、決して楽なことではないという。

「社長が基本的に全部決めてきちゃうんですよね。『これをやるぞ』『デュエット曲を出すぞ』と、もうやることだけが決まっている。だから私は毎回『できるの〜?』と疑うところからですね」(保科さん)

 そんな社長のむちゃ振りのおかげか、2人の露出はどんどん増えている。往年のスターを多数抱える夢グループだが、一番の売れっ子は、石田社長と保科さんの2人であるのは他の所属タレントも認めているところだ。実際、夢コンサートで一番人だかりが多いのは、常に石田社長と保科さん2人の物販ブースである。また、特に若い世代にはTikTokでの2人のやりとりが人気だ。

コンサート終了後には保科さんと物販コーナーに立ち、観客と気さくに話す

 さらに現在、夢グループの商品のCMだけでなく、他企業や自治体からのプロモーション映像をCMと同じフォーマットで制作する依頼が多数来ているという。もはや一企業のCMを超えた、確立した存在として浸透してきているのだ。2023年末には2人の単独公演も行い、こちらも若い世代の客が多く集まったという。2人の人気はますます勢いを増している。

「テレビに2人で出るようになって何が変わったかというと、一番大きなところは売り上げじゃなくて、クレームがなくなったことなんです。今まで通販はクレームの嵐だったのに、『頑張れよ』なんて電話をお客様からいただけるようになった。これはとても素晴らしいことです」

「夢グループ」社名に込められた思い

石田社長肝いりのグループ、「二代目橋幸夫yH2」。進公平(左)と小牧勇太(右)は夢グループの現役社員。中央の徳岡純平は現役大学院生

 石田社長の好きな言葉「夢」を冠した社名「夢グループ」には、どのような思いが込められているのか。

「今まで常に大きな夢を追いかけて、それを口にしています。だからオオカミ少年と言われることもありました。それも難しい夢ではなく、自分でできそうだと思ったことをすぐ言っちゃうわけです。思ったことが自分の夢になるんです」

 石田社長にとっては「叶えられるもの」こそが夢なのだ。

「社名ですが、僕はどちらかというと『グループ』のところにこだわっています。どうしてかっていうと、殿様商売がしたいわけではなく、友達が欲しかったからなの。だから『夢スター春・秋』は僕にとって大事なグループなのね」

 グループを超えてむしろ、ファミリーと呼べるほど濃い絆を築いていると言っていいだろう。最後に、今いだいている夢を教えてもらった。

「保科さん何だかわかりますか、はい」との社長の問いかけに「イリュージョンですよね」と答える保科さん。イリュージョン……?

「はい、私たちはこれからイリュージョンをやります。早ければ3月か4月あたりにお見せできると思います。どんなイリュージョンをするかといえば、例えば保科有里さんが箱の中に入ります。そして見たらば、あらら、ウサギちゃんになってた! とか、僕がベッドの上で身体を保科さんに切られて、足をバタバタさせているとかね。要はラスベガスに行かなくても、僕たちがイリュージョンを見せられるようになるわけです」

 次の夢を熱く語る社長に「練習する時間ありませんよ」と保科さんがツッコむも、石田社長は止まらない。そんな石田社長は保科さんいわく「ひらめきの天才」だという。

「本当に自分でひらめいたことを信じてやる人。言い方は悪いんですが、人が恥ずかしいと思うことでも平気でできる人ですね。だけど、それが結果すごいことになっていくんです」(保科さん)

 型破りな発想で夢を次々と叶えてきた石田社長。いったいイリュージョンの次はどんな夢を描いてくれるのだろう。ますます目が離せない。

取材・文/高松孟晋
取材協力/田村陽光(株式会社ワンハート)

たかまつ・もうしん ライター。食、カルチャー、ダイバーシティなどをテーマにさまざまな媒体で執筆を続ける。DJとしても活動。趣味が高じ、インドカレー店を不定期で営業。