なぜ彼は最後に「桐島」と名乗ったのか――(写真/警察庁ホームページより)

 瀕死の状態の男が病床で名乗ったのは半世紀前、日本中を震撼させた爆弾テロ犯の名前だった。全容解明が待たれるなか、過激派の動向に詳しい元警視庁公安部員の勝丸円覚さんが、逃亡の軌跡、名乗り出た理由を分析する。

最期は本名で迎えたい――

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 最期は本名で迎えたい――。

 警察庁関係者によると、病床に伏していた男は病院関係者にこう語ったという。

 1月25日。神奈川県鎌倉市内の病院に入院していた男が、連続企業爆破事件に関わった桐島聡だと、病院関係者に名乗った。このことは直ちに病院から神奈川県警を通じて警視庁公安部に報告された。

 警察庁関係者によると、男は今月中旬、路上にうずくまっているところを通行人の男性に保護され、その後、自ら救急車を呼んで入院。症状は末期の胃がんだった。

 健康保険証は持っておらず、「内田洋(うちだ・ひろし)」と名乗り自由診療で入院していたが、1月29日の朝、入院先の病院で死亡が確認されたという。

 この男が本名として明かした桐島聡――桐島聡容疑者(70)は、1970年代に数々の企業爆弾テロ事件に関与した疑いがあり、警察当局が重要指名手配して、この半世紀行方を追ってきた人物である。

 誰もが一度は目にしたことがあるかもしれない、黒縁眼鏡のある男性の写真。全国各地の駅などに張り出されている指名手配ポスターに、桐島容疑者の顔写真が掲載されている。

 警察庁によると桐島容疑者は過激派「東アジア反日武装戦線『さそり』」のメンバーで、1974年から1975年にかけて発生した連続企業爆破事件の1つにかかわっていたとされ、爆発物取締罰則違反の罪で警察庁が重要指名手配し、行方を追っていた。

企業爆破事件では警察官も重傷

 元警視庁公安部員の勝丸円覚さんは、この人物の名前を報道で聞いた際に複雑な思いを抱いたという。

「私が公安部員に登用される際に受講した講習を通じて、桐島容疑者のことは熟知していた。一連の企業爆破事件では警察官が重傷を負った事件もあり、在職中は顔、名前に加えて警察が持つ非公開情報を脳裏に刻み込み、発見次第いつでも身柄確保できるよう構えていた」

 重要指名手配がかかっていた桐島容疑者。警察当局もその行方を半世紀にわたり追い続けてきた。

 勝丸さんによると、桐島容疑者など逃亡中の過激派メンバーの行方を追っていたのは、警視庁公安部公安一課に特別に設けられた「担当班」の公安捜査官たちだ。現在では規模は縮小されているが、50年前から警視級のベテラン管理官のもと、追及捜査にあたっているという。

 今回、桐島と名乗る男のもとに急行し、事情聴取したのは、この「担当班」の公安捜査官たちだった。

「男の身元の確認を進めるが、前歴がないため指紋からは特定が難しく、DNA鑑定を行うことになった。親族から試料の提供を受け、かつ男からDNA採取の許可を得ねばならず、相当時間がかかる見込みだった」(勝丸さん)

 しかし事態は急変し、男は死亡する。勝丸さんは「捜査官たちは遺体の口腔内からDNA試料を採取することが可能になり、鑑定がスピードアップするのではないか」と推測する。

 ところで、桐島容疑者はどんな人物だったのか。

 元警視庁幹部によると、桐島容疑者は1954年1月9日に広島県深安郡神辺町に生まれた。曾祖父、祖父は村議会議員、町議会議員をそれぞれ務めるなど、生家は地元では名家として知られていた。

 尾道市内の高校から1972年4月に明治学院大学に進学した桐島容疑者は、過激派組織「東アジア反日武装戦線」の思想に共鳴し、同戦線の「さそり」グループのメンバーとして活動する。

 大学入学後は映画研究会、同和研究会に所属するも、すぐに退部。その後、東京・山谷の日雇労働者らの「越年資金闘争」に参加。東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れていく。

 警察関係者によると、この闘争の場で、ほかの「さそり」メンバーと知り合い意気投合したとみられるという。

 桐島容疑者の手配容疑は、1975年4月に中央区内の韓国産業経済研究所の入り口付近に爆発物を仕掛け発動させた、爆発物取締罰則違反の罪だ。東アジア反日武装戦線の他のグループの共犯者がいまだ海外に逃亡しているため、桐島容疑者の罪は時効停止となっている。

「1970年代は、過激派による壮絶な爆弾テロの時代だった」と振り返るのは、70代の警視庁OBだ。

戦後最大規模の爆弾テロ事件

 警視庁OBが「社会を不安のどん底に陥れた」と強く記憶しているのが、1974年8月に発生した三菱重工ビル爆破事件だ。

 桐島容疑者が所属していた東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバー、それに「大地の牙」「狼」メンバーらが、手製の爆発物を東京丸の内にあった三菱重工ビルの通用口近くのフラワーポットに置き、時限爆発させた。この事件で8人が死亡し、300人以上が重軽傷を負った、

 過激派による戦後最大規模の爆弾テロ事件だった。

 この事件当時、桐島容疑者は、「狼」グループの爆弾テロを超える爆弾テロを起こさないと「さそり」の存在理由がないと考え、1974年12月、ある建設会社を標的にした爆弾事件をメンバーらと実行する。

 しかし、この事件は派手な火柱や爆発音を出したものの、けが人もなく、報道もベタ記事扱いがほとんどで、なかには「悪質ないたずら」との報道もあった。

 ただ、「この建設会社への爆破事件は失敗に終わったものの、東アジア反日武装戦線の他のグループ『大地の牙』や『狼』から認められ、桐島容疑者らの『さそり』グループが爆弾闘争に本格参戦するきっかけとなった」(勝丸さん)という。

 その後、韓国産業経済研究所爆破事件に関与したとして、指名手配された桐島容疑者は行方をくらます。警察当局は、失踪の直前まで都内の大衆割烹店でアルバイトをしていたことを把握。失踪3日前の1975年5月17日には、渋谷区内の銀行で現金を引き出していたことが確認されている。

 そして同年5月31日に「岡山で女と一緒にいる」との親族への電話を最後に、警察も足取りをつかめなくなる。

 勝丸さんは、警察は桐島容疑者の立ち回り先を追い続けていたと明かす。

「失踪直前まで就いていた仕事に注目し、全国の割烹料理店や日雇い労働の現場に捜査の網を張っていった」

 しかし。半世紀もの間、その網に桐島容疑者がかかることはなかった。

 桐島を名乗る男は、神奈川県藤沢市内の工務店で「内田洋」名義で、数十年にわたり働いていたことがわかった。住居は工務店から数キロ離れた古い共同住宅だったという。

なぜ逃亡を続けられたのか?

 桐島容疑者はなぜ逃亡を続けることができたのか? 勝丸さんは「たった1人で逃げ続けることは不可能」と、何者かの支援を強調する。

「50年逃げ続けているので、住まいを提供する、資金を提供する、逃走手段を提供する、偽造書類を手配するといった『犯人隠避』にあたる行動を取っていた人物が必ずいるはず。一連のオウム事件でも、警視庁による特別手配がかかっていた信者らは組織から人や資金などの支援を受けながら、一般社会にひっそりと浸透していた」

 1971年の渋谷暴動で警察官を殺害したとして、2017年に46年ぶりに逮捕・起訴された「中核派」構成員の大坂正明被告(74)も、組織の支援を受けながら日々の生活を送っていたことが判明している。

交番に張り出されていた桐島容疑者の指名手配ポスター(写真/東洋経済オンライン編集部)

 勝丸さんは、男が今回、桐島聡と名乗り出た行動について、次のように推測する。

「通常、過激派のメンバーなどの活動家は、逮捕されても完全黙秘を貫くものだ。なぜならそれが本人にとって最高の栄誉となり、組織への多大な貢献とみなされるからだ。そうした掟を破って今回自ら名乗り出たのは、単純に自分の死期を悟ったからなのではないか。身を潜めて暮らさざるをえなかった環境下で、自分の存在理由を示したかったのだろう」

 警視庁公安部では、死亡した男が桐島容疑者かどうかDNA鑑定で確認を急ぐとともに、容疑者死亡のまま書類送検する方針。そして数十年働いていた工務店への就職の経緯、また逃走支援役がいたかどうかも含めて、慎重に捜査を進め事件の全容解明を目指す。


一木 悠造(いちき ゆうぞう)Yuzo Ichiki
フリーライター
ノンフィクションの現場で取材・執筆を重ねてきたフリーライター。