日本テレビ系でドラマ化された『セクシー田中さん』(ドラマ『セクシー田中さん』公式HPより)

《攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。》

 悲しすぎるこちらの投稿が“最期”となった。漫画家の芦原妃名子さんが自ら命を絶った。冒頭の『X』投稿は1月28日午後1時。突然の死が報じられたのは29日夕方のことだった。

「芦原さんの作品『セクシー田中さん』は、'23年10月期に日本テレビ系でドラマ化されています。芦原さんは1月26日に自身のXにてドラマの脚本についてのトラブルを明らかにしていました」

必ず漫画に忠実に

 明らかにされた“裏側”は、「必ず漫画に忠実に」という芦原さんの願いが様々な形で裏切られ、原作からかけ離れた改変が行われていたことが綴られていた。そこでは“結果”についてのファンへの詫び、自責の念も込められた真摯なものだった。被害者でありながら……。

 漫画など原作を基にした実写化にあたって、テレビ局側などが行う“原作の改変”によるトラブルはこれまでも起こってきた。なぜ、そのようなことが起こるのか。

「前提として原作物をドラマ化等する際に、“改変”すること、そのすべてが悪いわけではないと考えます。しかし、それをする際の状況、そこに至る土壌に“悪”が詰まっていると考えます」

 そう話すのは、フリーで活動するベテラン脚本家兼漫画原作者。映像作品や漫画等様々な作品に関わってきた。

「こんな時代でもテレビ局の一部の人間はメディアの王様はテレビ、テレビがいちばんという意識の人がいて。またそういった意識の古さは出版にもあって。普通、ビジネスというのは納品ベースで考えるじゃないですか。発注時でもいいですが、そこでギャラが発生する。それが出版になると、たとえば漫画であれば“掲載ベース”だったりする。漫画家は原稿をとっくに提出しているのにギャラは何年後みたいな。メディア業界はそういった古さがまかり通っている」(脚本家兼漫画原作者、以下同)

 立場が強い上が、弱い立場に好き勝手……最近どこかで聞いた状況だ。

セリフなんか変えちゃえばいいんだから

「テレビのプロデューサーは、クリエイティブに対するコンプレックスがあるような人が少なくない。自分が創作できないから、コマとして上から使いたいというような。以前某局のプロデューサーの人に“Pやってみたら、向いてるんじゃない?”みたいなことを言われて。それより自分は作りたい、セリフとかを書きたいんですよと返したら、“Pになって、セリフなんか変えちゃえばいいんだから。書けるじゃん”って。
まさに脚本や原作を書いている自分に面と向かってそれを言うってだいぶこの仕事をないがしろに、下に見ているなって印象に残っていますね(苦笑)」

 今回は原作が脚本家によって“改変させられた”形だ。

「今、テレビを見ないという人は多くて視聴率も下がっている。昔はドラマにも才能が集まっていましたけど、今はそうじゃない。才能って売れている業界に集まりますから。今であれば漫画とか。そんななか原作漫画の人気にあやかった実写化にあたって、どういう脚本家が重宝されるか。局側やプロデューサーの指示通り、都合通りに“改変”してくれる人です。そういう人、何人も見てきましたが、可愛がられてますねぇ」

 ドラマの制作側の意見として、「漫画はこうだけど、ドラマとして売れるためにこうしたい」という考えによる改変はあるのではないか。

「そこで重要なのは、創作物に“勝ち筋”なんてものは極論言ったらないんですよ。売れるためにこうすると言われても、そうして作られたのに大ハズレしたドラマなんて山ほどあるから、原作側は信じられないですよね。ドラマ側は本当に意図を持って変えたいのであれば、とにかく原作側にコミュニケーションを取って真摯に説明するしかない」

脚本家と会うことはなく

『セクシー田中さん』で主演のベリーダンサー役の木南晴夏はグラドル時代と変わらない姿を披露

 今回の『セクシー田中さん』の件では、芦原さんは改変した脚本家と会うことはなく、制作陣ともドラマについて直接話す機会がなかったことから、それについての批判がSNSで上がっているが……。

「あまり“やり方”を決めつけるのも良くなくて。原作者を尊重するのは当然ですが、様々な人が関わっていて、会わせたから良いわけではなく、創作者同士会わせないほうがいい場合もあって。誰か挟んだほうがいいときもあれば、悪いときもある。やり方をパターン化するというのは、結局プロデューサーがやりやすい形になって、どんな作品でもそのやり方で進めるという形になって、柔軟性に欠けて今と変わらない」

 原作者と脚本家というクリエイティブ同士は絶対に会うべきだ、会わせないといった簡単な二元論ではない。会って喧嘩して立ち消えた作品はたくさんある。たとえば例は漫画となるが、不朽の名作『北斗の拳』は原作者と漫画家は顔を合わせることはほぼ無かったことで有名だ。「(原作者と漫画家が会ったら)すぐに喧嘩が始まってしまいますから」と、編集部判断で会うことが無かったことを作画担当の漫画家・原哲夫は後にインタビューで回顧している。また、それが良かったとも。

「人を見てケースバイケースで判断しなきゃいけない問題に対して、人を見ずに判断したら失敗するに決まっています。この原作者はこういう人で、この脚本家はこういう人だから、こういう風に進行して、都度都度立ち止まって今の進め方でいいか吟味して……と」

 なぜそれがなされないのか。

「なされないというかできないというか……。それはとにかく忙しく、流行に遅れないために、制作スピードが求められてしまっているから。ドラマのディレクターとかは午前2時まで撮影して、そこから打ち合わせ、午前5時から撮影みたいなことを未だにやっている。今回の件でも、漫画やドラマについて詳しくない人は、脚本ってこんなギリギリの進行なんだと思った人も多いんじゃないでしょうか」

 漫画家も脚本家もドラマ制作陣も、作品は等しく“子ども”だろう。それを好き勝手に斬り刻まれたら……。作品に関わる者であればこそ、その気持ちがわかるはずでなないのか──。