作家・北原みのり(53)撮影/佐藤靖彦

 津田塾大学を卒業し、アダルトグッズ販売へ。女性による女性のための経済活動をするには、さまざまな困難も。不当な逮捕、祖母の死を乗り越えて軽やかに生きる北原さんの半生を振り返る。

 今から100年近く前の昭和の時代、日本初の女性弁護士となり、後に裁判官、裁判所長となった三淵嘉子をモデルとした連続テレビ小説『虎に翼』が話題となっている。伊藤沙莉演じる主人公の猪爪寅子は、女性が置かれる立場に疑問を感じたり、世の中の理不尽にぶち当たると「はて?」と口にし、納得するまで問題に取り組もうとするパワフルな人物だ。

作家でフェミニストの北原みのり

 このドラマを楽しみ、時に涙しているというのが、女性が安心して使えるセクシュアルヘルスグッズやフェムテックの商品を扱う会社を経営する、作家でフェミニストの北原みのりだ。北原も子どものころから疑問や理不尽にぶち当たると、同じように違和感を抱いていたという。

「私が普段、仕事で使っている名前の“北原”は母の旧姓なんです。戸籍上は渡邉なんですけど、小学生のときにクラスに4人も渡邉がいたので、どうして北原にしなかったのか聞いたんですね。すると父が『俺はじゃんけんで決めてもよかったんだけど、お母さんが渡邉になりたいと言ったんだ』と言って、それをしばらく真に受けてたんですけど……よくよく考えたら変ですよね、男と女は対等なはずなのに。そんな父は教育者で左翼思想の人。リベラルなことを言うんだけど、なんかいつもどこか威張っていて、矛盾してるな、ウソだなって思っていました」

 母の旧姓を使う理由─その根本には北原の母方の祖母の存在がある。『虎に翼』の寅子のひと回りほど下の世代生まれの祖母は結婚せず、ひとりで北原の母を産み、育て上げた。祖父に当たる人物はある会社の創業社長で、祖母はその愛人だった。

「祖母は20歳で母を産んで、母は私を25歳で産んでくれたので、私は祖母が45歳のときの孫なんです。母は祖父にすごく可愛がられたそうで、私も子どものころに1度会ったことがありますけど、年がずいぶん上のおじいさんでした」

 戦後すぐの生まれの北原の母はしっかりとした教育を受けたが、大学進学の際に理系学部へ行くことを反対され、文系大学へ進学。そこで北原の父と出会い、結婚した。

「それが原因で、祖父から勘当されてしまったそうです」

男子の前だと女子が弱いふりしてムカつく

2歳下の妹のあかりさんと

 北原は1970年、神奈川県横浜市で生まれた。当時、家族が住んでいたのは父の実家で、北原が3歳のときに2学年下の妹と家族4人で千葉県柏市に建てたマイホームへと引っ越した。

「母が、たぶん横浜からいちばん遠いところに行きたかったんじゃないかなと思うんですね。父の勤め先が都内だったので、通える範囲で。義父母のいる父の実家に居づらかったのもあるだろうけど、時代的にも核家族で子どもを育てるのが普通でしたし、母方の祖母が千葉の大原で旅館をやっていたことも大きかったんじゃないかな」

 地元の公立小学校へ進学した北原。どんな小学生だったかと聞くと「先生に信頼される、学級委員を絶対やらなきゃいけない感じの、まじめないい子だったと思います」と振り返る。その小学校へ入学してすぐのころの、今でも忘れられない教えがあったという。

「斉藤カツ先生という祖母と同じ世代の超立派なおばあさん先生がいて、その先生が『男の急所は金玉だ。女の子は何かされたら、金玉を蹴れば男は動けなくなる。頑張りなさい』と言って、すごいなぁと思って。小1ですよ? それで『あいつら、身体の真ん中に急所つけて生きてるんだ』っていう男への優位感が得られたんです。カツ先生がそう言ったときの男の子たちの叫び声、まだ耳に残ってますよ。これはもう私にとって、人生の核になってますね。偉そうにしてても身体の真ん中に急所があるんだ、っていう(笑)」

 フェミニズムへの視点はいつごろ生まれたのだろう?

「小学生のときの日記を読み返すと『女子が弱いふりしてムカつく』とか書いてて。男子がいると弱いふりをしていることにめっちゃ怒ってる。全然今と変わってないですよね。女の子同士だと楽しいのに、男がいると感じるジェンダーギャップに気持ち悪さがあったんです」

 小4だった1981年、元参議院議員だった市川房枝が亡くなったことを新聞で知った北原は、戦前から婦人運動家として活躍していた市川に興味を持ち、父にどんな人物だったか尋ねたという。

市川房枝新聞を作っていた小学4年生のころの北原さん

「話を聞いて『そんな人いたんだ、私、市川房枝みたいになりたい!』って感動して、ひとりでいろいろ調べて、模造紙で『市川房枝新聞』を作って、学校の壁に『先生、作ったんで張らせてね』と言って張ったりしてました。変わり者の子どもだったんですよ(笑)」

 北原の妹の井口あかりさんは「姉は頭が良く、父と母の期待が大きかった」と話す。

「母は主婦で、仕事もしていたんですけど、私たち姉妹には『家事を手伝わなくていい、勉強していればいいから』と言ってました。母は祖母に厳しく育てられて、大人になっても祖母の前で寝転がったり、リラックスができなくて、父が自分の両親の前で寝転がったまましゃべっているのを見て、とても驚いたそうなんです。なので私たちも厳しく育てられたんですけど、子どものころは父が仕事から帰ってきて家のチャイムが鳴ると、母と姉と私が玄関まで行って、三つ指ついて『おかえりなさいませ』と出迎えるのが当たり前。でもいつだったか姉が『バカバカしい!』とやらなくなってから、その習慣もなくなりました。幼いころから姉は立ち向かっていってましたね。でも父は、姉のことをずっと応援しているんだと思います」

北原の原点となった祖母の旅館

祖母の輝子さん。「戦後すぐの解放感がすごい」と北原さん。

 北原が小学生のときの夏休みは、学校勤めのある父はひとり横浜の実家へ、母と姉妹は大原の祖母の旅館で過ごすのが恒例だった。しかし同じ千葉県内とはいえ、大原は東京に近いベッドタウンの柏から電車を乗り継ぎ、房総半島を横断した先の太平洋に面した海辺にある町だ。

 漁港と海水浴場のある土地で祖母が切り盛りしていた旅館は、町を流れる塩田川の河口に立っていたという。そこは作家の山本有三が逗留し、小説『真実一路』を書いた由緒ある旅館で、大原も小説の舞台となっている。川には今も一路橋という橋がかかり、橋のたもとには小説の一節を刻んだ碑が立っている。

「旅館は祖父の持ち物だったようですけど、祖母が任されていて、たくさんの女性が住み込みで働いていました。だいたい40代前後くらい、みんな独身だったりシングルマザーだったりで、芸者さんもいて、女の職場でした。おそらく祖母は、身寄りのない女性たちに旅館で働いてもらっていたんですね」

輝子さんが営む『翠松館』は作家の山本有三も愛したという

 北原いわく「すごく威張っていた」という祖母は、旅館とは別にラブホテルも経営していたという。そこにいる祖母を訪ねると、よく仕事を手伝わされたこともあった、と北原は笑う。

「行ったら『ちょうどよかった、これをベッドの上に置いてきて』と言われて、カゴに入ったコンドームを渡されたんです。それで『これは何?』と聞いたら『それはコンドームといって、男性のペニスにつけると妊娠しないんだ』と言われて、意味はよくわからないけどそういうもんなんだな、と。それで置きに行くんですけど、赤い色の部屋には大きなベッドにピンクと水色の枕があって、小学生でしたけどエロチックな雰囲気は感じていましたね。『ちょっと留守番して』と言われてラブホテルの受付に座っていたこともありましたね」

 その大原では従業員の前で芝居を披露したこともある、と言うのが妹のあかりさんだ。

「夏は繁忙期なので働いている人がたくさんいて、旅館で働く人の子どもたちもいて、私たち姉妹は彼らと一緒に夜に向けて芝居をつくっていくんです。姉が話を考えるんですけど、私がいじめられっ子、他の子たちがいじめっ子、そして姉が正義の味方で私を助けてくれるんです。姉はどこへ行ってもリーダーで、正義の味方なんですよ」

 小6になった北原は難関女子中学を受験するが不合格となり、公立校へ進学する。

念願だった女子大への進学

 本好きだったという北原は幼いころからたくさんの本を読んだが、中学、高校で氷室冴子や新井素子などを読むようになってから、男性が書く本が読めなくなってしまったという。

「女の人が表現する女の子が主人公の小説というのが『これは自分たちのものだ』と刺さったんだと思います。そこから上野千鶴子さんや青木やよひさんなど女性が書いたフェミニズムの本を読み始めて、私が感じていた違和感が何だったのかがわかってきました。そして私が中3のときの1985年に男女雇用機会均等法が制定されて、それを新聞で知って『今までこんなに差別されてたんだ!』と意識化されました」

 中学受験で女子校へ行く夢が叶わなかった北原は高校受験でも女子校を目指すが、またも不合格となってしまう。進んだ先は県内有数の共学進学校だったが、男子生徒の数が多かったという。

「今考えると男が多いっていうのは、不正入試だったのかなって疑っちゃいますよね? でもそれに無自覚で、威張ったり、女を品定めするような感じだったりなど、“上に立っている”という男の世界や乱暴さは嫌でした」

 妹のあかりさんは「姉は小学生のときから男子に人気があって、不思議にモテていたんですよ。よく告白もされてたみたいです」と言う。北原も文化系の男子や、所属していたワンダーフォーゲル部の仲間とは安心して話すことができ、付き合った優しい男子もいたという。しかし大学は絶対に女子大へ行くと心に決めていた。あかりさんは、北原が猛勉強していたのを覚えているという。

「それまで姉は全然勉強していなかったのに、高3の夏に突然勉強をし始めて、その勢いがすごくて。いつも机に向かって背中を丸めて勉強していました。あるとき学校帰りのバスで単語帳を見て必死に勉強している女の子がいて、すごいなと思ってたら、姉だったんです(笑)。バスを降りても歩きながら単語帳を見ていて、声をかけられませんでした」

 時代が平成に入った1989年、北原は「自分を入れてください」と墓参りまでした日本初の女子留学生であった教育者・津田梅子が設立した女子英学塾を前身とする津田塾大学の学芸学部国際関係学科に入学。柏から大学近くの東京の小平市へと引っ越し、念願のひとり暮らしを始めた。

「高校生のとき、私はもう完全にフェミニストでしたから、女性がちゃんと生きられる社会にしたいと思っていて、それにはちゃんと経済的に自立しないといけない、そのためにはいい会社に入らないといけないと考えていました。それは津田塾だったら可能なんじゃないか、いろんな人に出会って、違う世界に行けるんじゃないかという気持ちがあったんです」

 北原は18歳にして、ようやく心が落ち着く環境を手に入れた。

“女の経済”をつくる第一歩を踏み出す

大学時代「勉強どころじゃない」と何かと忙しかったという当時の北原さん

 将来はキャリアウーマンとしてバリバリ働くと決め、難関だった国際金融論のゼミへと進んだ北原だったが「全然興味がないと気づいたんです」と苦笑する。

「それよりも社会心理とかジェンダー、性平等といった社会に自分は関心がある、じゃあそれには何が必要かと考え、4年生で教育学のゼミに移って性教育を学び始めました。性のことをちゃんと学ぼうと思ったのは、自分がずっと持っていた違和感とか悔しさって、自分の身体や性の話だったことに思い至ったから。でもそれで“働く”ことが何だかわからなくなってしまって、未来が見えなくなってしまったんです」

 バブル経済がはじけ、就職氷河期の始まりとなった1993年、北原は就職活動をせず、日本女子大学大学院の教育心理学専攻への進学を決めた。

「大学を卒業してすぐ、国際金融論のゼミで一緒だった子が自殺してしまったんです。でも同じゼミ生たちは誰も葬儀に来なくて……びっくりですよね。そのとき、参列していた国際金融論のゼミの先生から『経済やる人間は冷たいんだよ。でも君は女の経済をつくるようなことをやれたらいいな』と言われたんです」

 その後、大学院での勉強が行き詰まってしまう。

「哲学とか教養ってほとんどが男の世界で、世界のベースが男でできてることにもう耐えられなくて。しかも性教育ではなく、自分は性に関して表現したいことに気づいたんです。女性向けに発信する、性に関するエンターテインメントをつくりたいんだって思ったら、それはここじゃないと思って。だったら、もう自分で何か仕事したほうがいいなと思って」

 大学院を中退した北原は、学生時代にアルバイトをしていた編集の仕事へ飛び込む。書き仕事のため、当時は世帯普及率がまだ2割にも満たなかったパソコンを購入したことで、黎明期のパソコン通信やインターネットに触れ、「これなら組織に入らなくても仕事ができるのではないか」と思い、大学時代の友人と1995年にホームページ制作会社を立ち上げた。

予想外だったフェミニスト宣言

さまざまな著作を発表していた北原さんだが、逮捕後10年は書けなくなったという

 1996年、北原はイベント開催を経て「日本で初めての女性だけで運営するセックスグッズストア」として「ラブピースクラブ」を設立。そこで最初に爆発的に売れたのが、指型の柔らかなバイブレーター「Pラビア」だった。

「当時、松浦理英子さんの小説『親指Pの修業時代』を読んで、足の親指がペニスになってしまう話に感銘を受けて、こういったバイブがあったらいいなと思って作ったものです。私はエロチックなことをポジティブに捉えたくて、率直に自分の身体で受けたことを、痛みも含めて語れる安心な場所をつくりたいという思いがあった。そして当時は岡崎京子さんや内田春菊さんが自分のセックスの話をし始めた時代だったから、それにすごく背中を押されたところもありましたね」

 女性がバイブレーターを作ったことが話題となり、多くの取材を受けたが、思いもよらないことが起きた。

「今でも覚えてますけど『FRIDAY』の取材で『ちょっとバイブ持ってニッコリ笑ってよ』と言われて。それがあまりに屈辱的な言い方だったから『私、フェミニストなんですよね』と言ったら『フェミニストですか。すいません』と謝られたんです。それで『なんて便利な言葉なのかしら!』と思って、名刺にフェミニストと肩書を入れたら『初めて見た』ってみんなに笑われました」

 それまでフェミニズムを勉強し、資料を集めたりしていたものの、自分はアクティビストではなく「趣味でフェミニズムをやってるオタク」だと思っていたという。「私は社会運動よりも、女性が使うものを、女性が作って、女性が女性から買うという女性主体の経済の循環をしたかったんです」

 '90年代から北原のことを知る、公認心理師・臨床心理士でフェミニストの信田さよ子は彼女の印象をこう語る。

「これまで北原さんのことを新しいとか古いとか考えたことがなくて、フェミニストとしての“基本のキ”というような“憤り”を忘れないでいる人として尊敬していますね。 私にとって北原さんは人間として変なことをしてないかどうか、というスクリーニングテストをしてくれる存在。

 だからお友達としていられるのは私が人間として、フェミニストとして合格していることかなと思います。互いにおしゃれ好きで、美しいものが好きなところも合うし、北原さんははっきりしている人だから、これだけ長く親しくできているのかな」

突然の逮捕・勾留で変わった人生

さまざまな著作を発表していた北原さんだが、逮捕後10年は書けなくなったという

 日本の女性のセックス観の変遷を綴った『アンアンのセックスできれいになれた?』や、女性犯罪者のルポルタージュ『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』を発表するなど作家としての活動も始め、フェミニストとして発言をする機会が多くなっていた北原の身に2014年、ショップに陳列されていた女性器をモチーフにした作品がわいせつであるとされ、わいせつ物公然陳列罪で逮捕される衝撃的な出来事が起きた。北原は留置場に勾留され、その後、略式起訴されて罰金30万円の略式命令が出た。

「このことで人生変わったと思います。自分のことが全然書けなくなって、単著を出せなくなってしまったくらいですから……。でも今年、初めて事件のことを振り返って、記憶が消えているところの埋め合わせパズルのような作業をしているんです。10年かかってようやく話せるかな、書けるかなと思っています」

 自分の思いとは違う思惑に巻き込まれ、逮捕にまで至ってしまった当時の出来事について、北原は「すごく怖かった」と心情を吐露する。そのときに離れていった人たちもたくさんいたという。しかし離れなかった人もいる。それが信田だった。「離れる理由がないじゃないですか。悪いことをして捕まったわけじゃないし、逮捕するほうが悪い。北原さんは当然のことをやっていただけ」と話す。

「みんなで勇気づけの会とかやったけど、当時は憔悴していましたね。木嶋佳苗(死刑囚)の呪いなんじゃないか、と話したりね……拘置所の中から呪いをかけれるのは怖いね、とか言ったりして」

 北原が勾留されていたのとちょうど同じころ、 闘病していた大原の祖母の容体が悪化。もしかしたら死ぬ前に会えなくなるかもしれないという苦しみもあったという。

「私、12月3日に逮捕されて、祖母が死んだのは20日なんです。だから早く出たかったんです。早く出ないと、もう死んじゃうから、会えなくなるじゃんって……」

 勾留は4日間だったため、幸い祖母の最期には間に合った。そのときのことを思い出すと、今も涙が出てくるという。

「そのときに『人は、戦ってる人を見たいんだな』と思ったんです。なんか私は戦ってる人と思われてるみたいで、『北原さんが戦わないの、意外だ』って言われたんだけど、悪いけど私、あんまりケンカしないんですよ。本当に戦うとかって、最終的なことだと思うんですよね。そして私に関係ない責任まで一緒に戦うことを求めないでほしいって思う。だって女でいるだけで、日々戦ってるわけなんで。無駄な戦い、したくないですよね?」

行動すると新しい道が開ける

「おばさんが楽しく生きられる社会になったら最高ですよね」と北原さんは軽やかに笑う(撮影/佐藤靖彦)

 北原は自身が責任編集を務めた書籍『日本のフェミニズム since1886 性の戦い編』に「フェミニズムとは、女の悔しさと祈りが生んだ思想です」「この国で女性として生きることとは、どのような体験なのか目をそらさずに言葉にしていきたいと思うのです」と強い決意を書いている。慰安婦問題にもコミットし、2019年には性暴力の根絶を求め、花を手に行う「フラワーデモ」を呼びかけ、今年で5年目だ。

「最近は社会運動にも積極的に関わるようになりました。闘うしかなかった市川房枝が生きた時代が終わったわけじゃないんだなぁと思うからです。逮捕されてからの10年は重たかったけれど、自分が何に怒っているのかを整理ができた気がします。それに社会運動をするようになって、さまざまな女性の立ち場がもっと見えるようになって、改めて会社を大切にしたいと思いましたね。

 20代のスタッフも増えていますが、女性が経済的に不安なく、仕事の誇りをもつ大切さを実感しています。私は組織というものが嫌いだったから人を縛っちゃいけないと思っていたけれど、女性の組織をしっかりつくることの大切さを意識するようになりました」

 2021年にはラフォーレ原宿に常設店を出店、八ヶ岳にも拠点を置き、出版部門「ajuma―books」を設立するなど新たな事業も始めた。行動すると新しい道が開けることに喜びを感じている、と北原は言う。

「この数年間で政治家がフェムテックとか言い始めて、28年前にラブピースクラブを始めてからずっと叩かれる対象だった自分がいつの間にかフェムテックやフェムケアの分野で老舗の人になっていて、今では健康グッズなども取り扱うようになって。でも私が仕事を始めたときと今の女性の地位がどのくらい変わってきたかっていうと、全然変わったようにも思えないですし、今は明るさが足りない時代なのかなと思ったりして。私があとどれくらい仕事ができるのかわからないですけど、女性が心から自由を感じられるようなことをしていきたいですね」

 信田は北原の実業家としての側面も尊敬しており、経済的基盤があることを頼もしく思っているという。そして北原に今後期待することを聞くと「ずっとそのままでいてください」とエールを送った。

 また妹のあかりさんは「ショップでマスターベーションを始めた男を取っ捕まえて警察に突き出したりなど、姉には危なっかしいところがあっていつも心配していたんですけど、最近は人と付き合うのが上手になってきていて、安心できるようになりました」と変化を感じているという。

「女性を取り巻く状況がこれだけ変わってきているのを見ると、姉が積み重ねてきたことってすごいと思います。でももうちょっと柔らかい感じで、上手にやってくれたらなと(笑)。これまでは北風みたいでしたけど、太陽のような感じでやってほしいですね」

 現在の社名である「アジュマ」は、韓国語で「おばさん」を意味する単語だ。

「おばさんが幸せで、未来を感じられる社会にしたいと思ってつけました。でも韓国人にこの名刺を見せると、みんな大笑いするんですけどね(笑)。私には幸せなおばあさんになりたいっていう夢があって、祖母のような威張ってるおばあさんが楽しく生きていられる世界に自分も行くんだ、みんなも行こうよ、って気持ちがあるんです」

 祖母と同じく、北原は女性たちが安心できる安全な場所をつくり、ずっと守り続けている。「はて?」と感じた疑問や理不尽に力強く、しなやかに、そして軽やかに立ち向かっていくために。

<取材・文/成田 全>

なりた・たもつ 1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、漫画編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。ドラマ『おしん』を語る『おしんナイト』実行委員。