北海道なまりが抜けないまま、突然舞い込んだ総合司会のチャンス

女優・沢田亜矢子が『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系)の初代総合司会に抜擢されたのは、30歳のときだった。ヒット曲『アザミの花』で歌手デビューして5年、女優としては時代劇などにもときおり顔を出していたが、一向に先が見えず、そろそろ芸能界から足を洗い、田舎である北海道に帰ろうかと考えていた矢先だったという。
本人としては崖っぷちまで追い込まれた後がない状況だったそうで、
「私は何をすればいいのって思ってました。そもそも司会なんてできるとも思っていなかったし、きっと失敗すると思っていました」
それまで司会の経験といえば高校の生徒会くらいで、まだ北海道なまりも抜けず、人前で話すことも苦手だった。そのため担当プロデューサーによるオーディションでは、
「ほとんど話をしないで、下を向いていました」
しかし、それがプロデューサーの考えていた司会像と合致したのか、新番組の司会は沢田に決定した。
「司会はベラベラしゃべらないほうがいい。表に出すぎる女性は絶対反感を買う、というのがプロデューサーの持論だったみたいです」
ちなみに担当プロデューサーは『コント55号の裏番組をぶっとばせ』『ウィークエンダー』など、人気番組を制作した細野邦彦氏である。そして迎えた放送初日。
「あの日のことは鮮明に覚えています。華美になってはいけないと、衣装は紺のブレザーにスカートでした。それまで主役になったことがなかったので、スタジオに入った瞬間、全部のカメラが自分に向いていることに驚きました。メーンとはこういうことかと、興奮で身震いしました」
司会は沢田亜矢子ひとりでアシスタントも局アナもいない。進行からニュース読みもすべて彼女がこなした。ただ『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系)の主役は、個性豊かなレポーター陣であることを彼女はしっかりと理解していた。
「主役はレポーターであることを肝に銘じていました。私はキャスターではないので、わかったふりや知ったかぶりはせず、“私はきれい”だとか“女優よ”みたいな雰囲気はいっさい出さず、とにかくレポーターが気持ちよく仕事できるように心がけましたし、プロデューサーからも目立つなと言われていました」
そのため沢田に対する視聴者の反感も少なく、最初2~3%だった視聴率は3か月後には何倍にもなった。あれから36年、いまだ記憶に残るエピソードや失敗談をあげてもらった。
年齢をごまかしていたのがバレた過去
「まず、年齢をごまかしていたのが、放送中にバレてしまったこと。同級生が『ドキュメント女ののど自慢』のコーナーに出てきて“沢田さんと同級生です”って。その人の年齢が公表していた私の年より4つ上だったのよ(笑い)」
“また明日”というところを“おやすみなさい”と言ったり、年が明けているのに“それではよいお年を”などという言い間違いは枚挙にいとまがないという。その中でも決して忘れることができない、いや、できるならば忘れてしまいたい出来事が。
「あるとき、ゲストの女優さんが“ワイドショーはやっぱりイヤ”って放送直前にドタキャンしてしまったんです」
それだけでもパニックものだが、そのせいで、もっと大変なことが起きてしまう。
「そのコーナーを埋めるために芸能ネタをできるかぎり延ばしていたんです。それで、大物俳優さんがプロデュースをした香水を取り上げたとき、私が“ファンの方はみんなその香水をつけてコンサートにいらしたんでしょうね”と言って、しめるはずでした。ところが、誰かが“そのニオイで具合が悪くなった人はいなかったんでしょうか?”なんて余計なことを言ってしまったので、私は“過ぎたるは及ばざるがごとしと言いますね〟とシメちゃったんです。“うまい! 私って天才”と心の中でガッツポーズをとったんですが……」
翌日のスポーツ紙には《沢田、失言》の見出しが大きく出て、関係各方面から叱られてしまうことに。
そんな思い出がぎっしりと詰まった『ルック~』に対し、
「少ない予算で作ってましたが、50人ものスタッフがいて、毎日レポーターが日本各地に赴いて生の声をとってました。スタッフとレポーターがぶつかり合いながら日々、死闘を繰り広げていたあの番組は、情報番組の原点だったと思います。おかげで、私はその後も司会の仕事も増えましたし、家を建てることもできました」
と、感謝の気持ちは隠さない。沢田は司会を5年半務めて、岸部シローにバトンタッチしたのだが、降板すると同時にスキャンダルが噴出。皮肉なことにワイドショーの標的になってしまった。
「いろんなことがありました。でも、いまは笑えます。トークショーのネタになってますから(笑い)」
爽やかな笑顔はあのころと変わらない。