
日曜日の朝は6時に起床。福岡を中心に、“手羽先ハンドメイド作家”として活動する、なみきさんは、マルシェに出店するための準備を始める。マルシェとは、ショッピングモールや公園などの敷地に、地域の生産者やお店、個人が出店するイベント。
2万人に1人の重い障害で生まれる
「朝8時ぐらいに現場に着き10時にオープン。17時ごろまでは何も食べずに、お客さんとおしゃべりしながら、自分で手編みして作ったシュシュや、レース糸で縫ったテーブル用のナプキンなどを販売して過ごします」(なみきさん、以下同)
“手羽先ハンドメイド作家”の名前は、なみきさんの生まれつきの障害からきている。それは『VATER症候群』という先天性の難病。
「自分と同じ症状が発症する確率は2万人に1人といわれています。人によってパターンはさまざまですが、僕の場合は手首が曲がって元に戻せない『両橈骨側列欠損』というもの。常に曲がった状態なので僕は“手羽先”って呼んでいます」
障害は、身体の内部にもあり、食道がつながっていない状態で生まれた。
「生後1日で食道をつなげる手術をしましたが、通常よりは細いため、栄養補給のために点滴を受け、なんとか生き延びた幼少期でした。現在も飲み込みづらく、食べるものが限られ、栄養失調になることもあります」
腎臓も1つしかなく、尿路に尿道はつながっていない。体内に尿を出すための管である留置カテーテルを入れ、蓄尿バッグに尿をためながら、月に1度通院し交換する。5、6歳ぐらいまでは、一年の4分の3ぐらいは病院の中で過ごす日々。それでも両親は、集団生活ができるようにと、なみきさんを地元の幼稚園に入れ、入退院を繰り返しながら通った。
「ただ、食事がままならないため、液状になったミキサー食を持参。ほかにも蓄尿バッグの交換をお願いしたり、排泄を手伝ってもらったりと、先生方にすごく助けてもらった記憶があります」
「できるだけ自分で」だからこそ今がある

周囲の助けもあって、地元の小、中学校へ進学し、高校は情報系の学校へ。
「中学に入ってからは同級生から嫌ないじりが増えて……。排泄や食事など、できるだけ自分でやるように心がけました。今、健常者と同じような生活をこなせているのは、サポートなしで生活をせざるを得なかった時期があったから。ありがたくもあり、でも当時は苦しかったですね」
卒業後は、障害がある子どもたちを預かる事業を手がける会社に入社。主に経理の業務を担当して、3年間働いた。そして仕事と並行し、SNSで趣味のハンドメイド作品や手料理を投稿するように。
「ハンドメイド歴は中学3年生から。ちょうど生まれた妹のためにと始めたのがきっかけです。ハンドメイド作家の動画を参考に、見よう見まねで始めました」
その後、諸事情で仕事を辞め、将来に悩んでいたところ、祖父母が道の駅で経営している野菜屋に「ハンドメイド作品を出してみないか」と提案をされ、趣味が仕事に。編み針もミシンも使いこなし、毛糸のコースターや、ぬいぐるみ、キーホルダーなどを作る。最初はオーダーが頻繁にはなく、再就職活動も同時に行っていたとき、母から“ハンドメイド作家が集まる即売会があるよ”という話を聞き、定期開催をしていたショッピングモール内でのマルシェ出店にこぎつける。そこでは新たな出会いが待っていた。
「同じ会場にいた、ローカルタレントの山本カヨさんと話す機会があったんです。その後、山本さんからのお誘いで、彼女が主催するイベントに参加するようになりました」
それが縁となり、ハンドメイドと並行しながらやっていた狂言師のお仕事やイベントのMCなど、世界が広がっていく。
これまで大きな挫折や悩みはなかったのだろうか?
「壁だなと感じても、それを壊して進んできました。障害者用の使いやすくて便利な道具もありますが、周りと違うのは嫌で、健常者用のハサミでガタガタになっても切っていくような人間なんです」と笑う。
マルシェでは、設営から片づけまで、ひとりで行う。
「売り上げの管理など、社会人での経験も活かされていて、今までのことは全部無駄じゃなかったと思えます」
現在は母と15歳差の妹と3人暮らし。基本的に家事全般をなみきさんが担当しているというのにも驚く。健常者でも苦手な人が多い、揚げ物も得意で、好きな料理はメンチカツ。平日はそのほかに掃除、洗濯、学校に行く妹を車で送迎もする。家族の喜ぶ顔がモチベーションだ。
そして、家族と同じくらい大きな存在になっているのが、マルシェのお客さんやSNSを通じて知り合う人たち。
「マルシェに直接足を運んできてくれたお客さんが購入した品物を身につけて再来店してくれたときに“これ気に入っているんだ”と話してくれるのは、ものづくりをしている人間としてはすごくうれしい瞬間。現地に来られない人に郵送したことも。作品が思いどおりの形にならないことはあるけど、その過程も楽しんでいます」
障害があっても外へ光となる存在になりたい

今後の活動についての展望を聞くと「本業のハンドメイドも大事にしつつ、地元の福岡で障害者の光のような存在になりたい」と言う。
「テレビや講演会、舞台にも立てるパフォーマーになれたら。飲食店兼アトリエのようなものを運営して、いろんな人とのコミュニケーションを広げたいです」と夢を持つ。
同じように障害がある人やその家族から「活動を見て励まされた」という言葉をもらうことも多いそう。
「障害者だからひきこもってなきゃいけないということはないです。この世の中、誰でも気軽に発信できる場が多くあるので、少しでも踏み出す勇気があれば、世界は変わるんじゃないかな」と、何かやりたい人の背中を押す。
この身体で生まれたこと自体に決して後悔はない。
「むしろレアなものに産んでくれた母に感謝です。そして、支えてくれた医学の力や教育環境を与えてくれた先生方にも。どんな環境に置かれても、卑屈にならずにチャレンジできる人でいたい。恋愛や結婚も前向きですよ。ご縁があればいいですね(笑)」
<取材・文/小林賢恵>