
今年1月28日に逝去した経済アナリストの森永卓郎氏。原発不明がんと闘いながら、亡くなる直前までメディアに登場し続け、また最後の最後まで執筆活動を続けた。
小太りでメガネがトレードマーク、口角泡を飛ばして持論をまくし立てる森永氏は“モリタク”の愛称で親しまれた。
数百冊を超える著書の数

森永氏の著書はゆうに数百冊を超える。ここ数年は財務省の実態を暴いた『ザイム真理教』や、タブーといわれる日航機墜落事故の真相などに迫る『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』、『投資依存症』などの暴露的な著書がベストセラーとなっている。
3月に上梓された『この国でそれでも生きていく人たちへ』(講談社+α新書)は、森永卓郎氏と長男である森永康平さんの共著である。康平さんは、父にどんな影響を受け、「経済のプロ」になったのか─。
康平さんは、大学卒業後、SBIホールディングスに入社し、以降SBIアセットマネジメント、SBI証券の機関投資家として企業分析やマクロ分析を担当、外資系運用会社、証券会社などを経て独立。現在、証券アナリスト、経済アナリストとして活躍している。
康平さんが、父と同じ「経済のプロ」になったのは、父の影響もあったのだが、その経緯は実にユニークだ。
「僕はアトピーと小児喘息がひどくて走ったりできなかったんです。不憫に思った父が“絵でも描けばいい”と、与えてくれたのが、シンクタンク勤務時代に持ち帰ったレポートの裏紙でした。最初は絵を描いていたんだけど、同級生から男子なのに球技をしないのは気持ち悪い、といじめられてやめちゃった。それでヒマになって表側を読むようになったんです。
もちろん、最初はチンプンカンプン。中学生になると(レポートの内容に)興味が湧いて、親父に“これ、どういうこと?”と尋ねると、マクロ経済とミクロ経済の分厚い教科書を手渡されたんです」
父のアドバイス

経済関係の本は大量に家にあった。康平さんは、それらを読んで独学で「経済」を学んだのだ。大学は経済学部に進んだが、入学前から基礎知識が備わっていたために、ほとんど大学には行かなかったという。父親はいつも仕事で不在。森永家は母子家庭のような状態だったらしい。
「僕は大学院に行ってさらに深く学ぼうと思ってたんですね。で、院試の勉強をしてたら、父親が“1回民間で働いてみたほうがいい”とアドバイスしてくれたんです」
確かにモリタクさんも、東大卒業後、日本専売公社(現JT)に入社し、経済企画庁などに出向したのち、三和総研の研究員としてテレビやラジオに出演するようになって、ユニークな経済の専門家として一躍、注目を集めた。その後、獨協大学経済学部教授に就任し、経済アナリストとして活動していた。
「親父いわく、学問だけをやってしまうと結局、机上の空論を振りかざす学者になってしまう。理論だとこうなんだみたいな感じにね。いや、理屈じゃそうだけど、現実はそうじゃないだろうと。だからとりあえず民間で3年働きなさいと言われた。その後もし、大学院に行きたいと思ったら、そのとき行けばいいと言ったんです。このアドバイスはすごく筋が通っていました。そのとおりだなと当時はすごく腹落ちしたんです」
モリタクさんとの共著はどんな内容なのか。
「父と僕が交代で書いているんですが、父の担当のところにはまったく口出しはしていませんね。本人がどう思ってたかわからないですけど、親父は結構、キャッチーというか、ちょっと極端なことを言うタイプですからね。結果的にそれが賛否両論を巻き起こして注目を集めるみたいな。でも、それは狙ってやってたのか、自然とそうなのか、ちょっと最後までわからなかったですね」
モリタクさんは「NISAは危険だ」「これはバブルだ、きっと崩壊する」と言っていたが、康平さんはどう思うのか。
「僕は、投資はあくまでも自己責任だと思っていますから、別にやりたくないと思う人に、“やらなきゃダメだ”って言うつもりもないし、逆にやってる人に対して危険だからやめようと言うつもりもない。ただ、その自己責任ってすごく大事だと思う。
中には、おまえの父親がやるなって言ってたから俺はやらなかったんだけど、その間に株が上がってしまった。どうしてくれるんだ、みたいなクレームは僕のとこにはいっぱい来るんですけどね(笑)」
データだけではなく 生の情報に触れたい
死の直前まで経済の、そして日本のタブーを告発し続けたモリタクさん。父親亡き今、康平さんはどのように経済を伝えていくのだろうか。
「そうですね。なるべく講演の依頼を多く受けようと思っています。僕にとっても勉強になるんですよ。みなさんは僕の講演を聞きにくる場合、勉強しようというスタンスで来てると思うんです。でも主催者の方、参加した方と会話する中で僕自身も実は学ばせてもらってるんですよ。
地方が過疎化している、少子化が問題だ、とかそういうデータ上では理解しているけど、やっぱり実際に足を運んでみると全然違う。思っていた以上に過疎化がひどかったりね。金沢にも今年だけでも何回か講演で行ってますが、能登から来てる方から写真などを見せていただくと、いまだに瓦礫がある場所の写真で現実を知るんですね」
データや情報で見ていてわかった気になっているが、現実との違いに驚くという。
「いろんなところに行くと、本当にそのリアルな情報というのを、その場で暮らしてる方たちからいただける。僕は仕事でデータではこうだと頭に入れておきながら、実際、生の情報を入れることによって、データ上自分が思ってたことがやっぱり正しかったと再認識できるときもあれば、なんかこれ、データで思ってたのと違うなって修正するときもある。
そういう生の情報となるべく触れる機会を触やしたい。そういう意味では、メディア出演というよりは、講演を中心にしていきたい。アウトプットしながらインプットもするみたいな感じですよね」
モリタクさんは、最後の最後まで本音で伝えたいことを発信し続けた。
「がんの余命宣告をされてから、もうリミッター外して、言いたいことは全部言って死ぬって言い出してね。その心意気、その気持ちは僕もわからなくもない。父親が本当に言いたかったテーマって、それなんだっていうことをね。
例えば、『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』の中で、日航機(墜落事故)の話とかも書いてますけど、あれにも、僕のSNSにもコメントが来るんですよ。“おまえ、日航機事故の本当のこと知ってんだろ?”みたいな。でも、知ってるも何も、あの事故が起きたのって'85年の8月。僕が生まれたのがその年の2月ですからね(笑)」
最後まで果敢に闘った父、モリタクさん、そして同じ「経済」という土俵に新たな視線で挑む康平さん。タイプは違えども、熱い思いは伝わってくる。心に浮かんでくるのは、「生」を全うし、あっぱれな最期を遂げた「親父」の笑顔だ。
お疲れさまでした、モリタクさん。あとは息子に任せてのんびりしてください─。
<取材・文/小泉カツミ>