養老孟司さん 写真提供/新潮社

 戦後のベストセラー本の一つとしても知られる『バカの壁』。その著者であるのが解剖学者の養老孟司さんだ。90歳に手が届くという年齢でありながら、心身共にお元気で、音声コンテンツでお悩み相談もしている。そんな養老先生に、「楽に生きるコツ」をお伺いしました。

養老先生だからこその発見

人の悩みというのは、モノを考える種みたいな存在ですね

 そう落ち着いた口調で語るのは、450万部を超えるベストセラー『バカの壁』(新潮社)の著者であり、解剖学者の養老孟司先生

 実は養老先生、音声教養メディア『VOOX』で、リスナーから寄せられる人生の悩みに対して、自身の豊富な知識と経験をもとに答える『養老先生のお悩み相談ラジオ』を、2024年の3月から配信。

 番組はいったん終了したが、同年6月からタイトルを『養老先生と人生考えます』にリニューアルし、現在もリスナーの悩みと向き合っている。

「いろいろな人がいるんだなと思います」と養老先生が笑うように、お悩みの内容も、“人生の先が見えすぎてつらいです”“40代をどう過ごせばいい?”といった重量感のあるものから、“コーヒーを飲みすぎてしまいます”“Netflixで見たくもない連続ドラマを見てしまうのですが”というライトなものまでさまざま。

写真はイメージです

 こうした多種多様なお悩みに対して、「自分が年を取るということを認識しておく」とか「私もNetflixを見て困っている」など、時折、先生の知られざる一面を開陳しながら答えていく様子が人気を呼んでいるのだ。

 他者の悩みを介して自分自身を考える─冒頭の言葉は、一年間、老若男女から質問を受けてきた養老先生だからこその発見というわけだ。

「僕は、若いときに医学を学んで、普通であれば臨床のお医者さんになるところが、解剖学を選んだ。なぜ臨床を選ばなかったかというと、自分のためにならないと思ったんですね。患者さんが来て、その問題を解決するのが臨床です。ですが、解剖学は対象者が死んでいますから、こちらが問題を探さなきゃいけない」(養老先生、以下同)

 養老先生は、悩み相談も似たところがあるといい、解決してあげるというスタンスではなく、問題を探すというスタンスが大事ではないかと続ける。

わかってもらえると思っているほうがおかしい」

相談に答えるというよりも、もっと一般的な問題として、『こういう見方もあるんじゃないですか?』といったことを話しているだけなんです。僕の言っていることが参考になればいいなくらいの気持ち。ですから相当、あさっての方向から答えていることもあるんじゃないかな(笑)

「バカの壁」は『新語・流行語大賞』にも選出された

 学者という立場上、若いころから相談されることが少なくなかったというが、「親身になって聞くから相談されやすかった」と微苦笑。

裏を返せば、親身になってくれる人が少ないから、悩みが増えていくのかもしれないですね。誰にも言えないってそういうことなのかもしれない

 ただ、こうも付言する。

悩みに対して答えがあるとは限りません。加えて、説明しても相手がわかるとは限らないという難しさもあります。もし皆さんが誰かの相談を受けるときは、自分が伝えたことが100%伝わっている、あるいは100%理解してほしいと思わないほうがいい。人はそれぞれ違うのだから、わかり合えないのが当たり前。そういう視点を持ったほうが人生は楽ですから

 '03年に発売された『バカの壁』は、新語・流行語大賞となるほどベストセラーとなった。同書で養老先生が伝えていることは、まさにこの点だ。

 一つの考えを「絶対に正しい」と自分の中で定めてしまうと、それ以外の考え方を理解できなくなる、認めることができなくなる。その結果、自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまう。自らつくり出すバリアを、「バカの壁」であると養老先生は喝破した。

自分のことをわかってもらえない、と文句を言う人がいますが、わかってもらえないことは当たり前だと思わなきゃいけない。わかってもらえると思っているほうがおかしいんです

「壁」の高さが少し下がるように感じないだろうか? 「人はそれぞれ違うのだから、わかり合えないのが当たり前」と構えるほうが気が楽だし、悩みも軽くなりそうだ。

「世の中はそういうふうに悪くなっていくだろうと思ったから、僕は『バカの壁』を書いたんですね。当時から学生が僕のところに来て、『説明してください』と言う。

 それ自体は、先生と生徒ですから普通のことなのですが、一方で、男子学生に『例えば陣痛の痛さを説明したとする。君はそれで陣痛がわかるか?』と聞くと答えられない。説明してもわからないことなんてたくさんあるわけです。簡単になんでもわかると思っちゃいけない

 養老先生が指摘するように、きちんと考えれば物事を理解できると思い込んでいる人は少なくない。しかし実際には、「考えたってわかんねえよ」とか「話が通じない」と思うことは山のようにあって、“周りが自分を理解する”ことなんてそうそうない。

『バカの壁』の印税は「妻が使ってくれた」

 そのため、養老先生自身、「生きているから悩みはあるけど、悩んでもしょうがないと考えている」と話す。

 近著『人生の壁』では、こうした人生のテーマも扱っており、先の言葉を表すエピソードが登場する。養老先生は57歳で東大を辞めるのだが、なんと貯金はほとんどしていなかったというのだ。

「ないならないで仕方ないという考えだったのですか?」と質すと、「そうですよ」とあっけらかんと答える。

僕はお金って、政府が国民に必要な分だけお札を刷っていると考えていた。つまり、誰かがお金を使わずに貯め込むと、その分ほかの誰かが困ってしまうと。だから、ほかの人を困らせないようにと、僕は積極的に使うようにしていた。その後、『バカの壁』がベストセラーになって印税が入ってきましたけど、きちんと女房が使ってくれています(笑)

 何年も先のことを考えても仕方がない。だから、

何か起きたら起きたでしょうがない。悩んでお金が入ってくるなら、たくさん悩むけど、そんなことはない(笑)

 こうした“考えすぎない考え方”を持つからだろうか、2020年には心筋梗塞を患い、'24年には小細胞肺がんと診断されたにもかかわらず、87歳になった今も養老先生は心身共にパワフルだ。大好きだったタバコについては、こんな考え方で折り合いをつけているのだそう。

「本当は吸いたいけど、家族やお医者さんが一生懸命、健康面の心配をしてくれるわけです。そんな中でタバコを吸ったら、『何事か!』と怒られるでしょ。怒られるのが嫌だから吸わないだけ。ですから、タバコを吸わないということに対して決意をしているわけではなくて、吸わないという付き合いをしているという発想ですね

 たしかに、「禁煙する!」と意気込むとかえってストレスになりそうだ。だが、「吸わないほうが角が立たないな」と考えると、不思議と心の余白が生まれる。

できもしないのに決意だけしても嘘くさいだけ。楽に考えたほうがいいんです

 ほかに健康の秘訣を問うと、「散歩くらい」と笑って答える。今ではリスナーから寄せられる相談が、養老先生にとって大事な頭の体操になっているという。考えすぎて悩むのはよくない。しかし、フランスの哲学者・パスカルが言うように、「人間は考える葦である」。頭を使ってナンボである。

日本人はもともとどっちつかずの中間的な考え方をするのに、悩むときだけまじめすぎるんです。『まぁいいか』になれない。みんな、不まじめになれない自分に悩んでいる。でも、時には『仕方ない』とか『それでいい』と考えることも大切です。困る前に悩むなってことですよ

 悩めば悩むほど目の前の壁は高くなる。乗り越えるのではなく、そもそも壁をつくらない。そんな考え方を、今も養老先生は教えてくれる。

養老孟司著『人生の壁』(新潮社)生きていくうえで壁にぶつからない人はいない。自身の幼年期から今日までを振り返りつつ、誰にとっても厄介な「人生の壁」を越える知恵を正面から語る。

取材・文/我妻弘崇

ようろう・たけし 1937年、神奈川県生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年『バカの壁』はベストセラーとなり、新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞。ほか著書に『唯脳論』『遺言。』『ヒトの壁』など多数。大の虫好きとしても知られ、鎌倉の建長寺に虫塚を建立し、毎年法要を行っている。