
「近年、世界における災害が激甚化、頻発化する中で、災害医療や救急医学の重要性はこれまでにも増して高まってきていると思われます。阪神・淡路大震災、東日本大震災をはじめ、数々の大きな災害を経験してきた日本では、災害医療体制に、さまざまな側面から変革を加え、進化させてきました。
この会議は、それらの経験と、これまでに得られた知見や技術を共有する貴重な場であり、さらなる国際協力を促進する機会として、また、これからの時代を担う若い世代に、皆様の豊かな経験や知識を継承する機会として意義深いものとなることと思います」
愛子さまの語りかけ

天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまは5月3日、東京都内で開かれた「第23回世界災害救急医学会」の開会式に出席し、公的な活動では初めて、前述したようなお言葉を述べた。淡い水色の洋装で、白手袋をつけた愛子さまは、原稿に目を通し、時折、会場の出席者たちを見渡しながら、終始、落ち着いて語りかけていた。
海外から医療従事者らが集まり、災害現場の保健医療体制の強化などを目指す国際会議で、愛子さまは、事前に皇居・御所で、関係者から進講を受けるなど準備を進めていたという。
また、秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまは4月17日、石川県輪島市の県立輪島漆芸技術研修所を訪れ、能登半島地震で被災した地元の漆芸作家らと交流した。日本工芸会総裁を務める佳子さまは、昨年、この技術研修所を訪問する予定だったが、9月の記録的な豪雨で延期に。佳子さまは、被災した作家らと懇談し、被災後の復興状況などについて熱心に尋ねるなど、心を寄せていた。

4月29日は、愛子さまや佳子さまの曽祖父である昭和天皇の誕生日で、「昭和の日」だった。昭和の元号が続いていれば、今年は「昭和100年」にあたるという。
思い立って私は、東京都立川市の国営昭和記念公園にある「昭和天皇記念館」を訪れた。JR立川駅で降り、北口を出て、15分ほど歩いた。この日は晴天とあって、記念公園を目指す大勢の家族連れや若者たちと出会った。
正午前、「あけぼの口」から記念公園に入った。公園内に足を踏み入れると、高いビルなどがないためか、青空がいつもより広く見える。芝生の上や樹木の下ではレジャーシートを広げた入園者たちが、寝転んだり、語り合っていた。気候もすがすがしく、実に気持ちがいい。平和な休日の光景がどこまでも広がっていた。

この日は、昭和天皇の124歳の誕生日である。昭和天皇記念館も入館者たちで混雑していた。昭和天皇と后である香淳皇后の遺品や、ゆかりの資料、そして写真などを展示し、87年に及ぶ昭和天皇の激動の生涯がわかりやすく紹介してある。半ズボンをはいた秋篠宮さまが、昭和天皇と香淳皇后、上皇ご夫妻、天皇陛下、それに、叔父と叔母にあたる常陸宮ご夫妻と談笑しているカラー写真も飾られていた。秋篠宮さまは、昭和天皇と上皇さまに挟まれている。2005年秋に開館した記念館は、今年で20周年を迎える。
以前、この連載で紹介したが、昭和の初めは、戦争の時代だった。1931年9月、満州事変が起きたとき、昭和天皇は今の佳子さまと同じ30歳の若さだった。その後、戦争は拡大を続け、'45年8月15日、昭和天皇が44歳のとき、先の大戦が終わっている。
《あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を》
《をとめらの雛まつる日に戦をばとどめしいさを思ひ出にけり》
上海事変が起きた'32年3月、日本は満州国建国を宣言し、翌'33年、国際連盟を脱退。そして、'37年7月、日中戦争が始まったが、このとき、昭和天皇は36歳だった。
私は、『昭和天皇記念館』という冊子を購入した。その中にある、「昭和天皇の和歌とそのお心」に、文化勲章受章者で宮中歌会始選者などを務め、昭和天皇の和歌に詳しい岡野弘彦さんは、戦火が中国大陸に広がるころに詠んだ、前述した昭和天皇の短歌二首を取り上げ、その平和を願う気持ちがどれほど強いものだったのかを解説している。
天皇陛下が詠まれた和歌

《遠い古代からこの日本の国では、神と人の間、あるいは人と人の間で、深く重い心が交わしあわれる時には、その会話のことばはかならず「うた」によって交わしあわれました。「うた」こそは、聖なる言葉の形であり、神にも通じ人の心をも動かす魂の表現でありました。
(中略)殊に天皇が国の平安と民の幸福を神に祈られる時、あるいは年の始めに国民に対してよき生活を祝福される時、短歌によって心を表現されるのです》
岡野さんは、このように天皇の詠む和歌、「御製」について説明している。そして、岡野さんは二首目の《をとめらの雛まつる日に戦をばとどめしいさを思ひ出にけり》の心温まるエピソードについても紹介している。
'32年1月、中国の上海で、中国軍と日本軍が衝突し、いわゆる上海事変が起きた。上海派遣軍の司令官だった白川義則大将は、昭和天皇の意を受けて停戦したという。『昭和天皇独白録』(文春文庫)によると、天皇は白川大将に《3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるであろうと思っている》と、依頼した。白川大将は、天皇の言葉を忠実に守り、陸軍中央の反対を押し切って戦火を収めたという。
ところが、その年の4月29日、上海で開かれた昭和天皇の誕生日を祝う祝賀会の会場に、爆弾が投げ込まれ白川大将は負傷、その後、死亡した。天皇は白川大将の生前の功績をたたえ、遺族に対し、「外部に絶対に、発表せぬように」との注意を添えて、この和歌を贈ったという。
岡野さんは《天皇の平和を願われる気持ちと、残された大将の遺族を思う心とが、しっとりと伝わってきます。日本の文学史の中に永く伝えられるべき、やさしい物語の背景とこまやかな天皇のお心のひびきあった歌だと思います》と、感動を込めて記している。
曽祖父である昭和天皇の激動の生涯から学ぶことで、愛子さまや佳子さま、そして、悠仁さまたちが新しい知識や視点を得たり、優れた発見をするかもしれない。「温故知新(故きを温ねて新しきを知る)という言葉の意味を、もう一度、かみしめてみることが佳子さまたち若い皇族に必要なことではないだろうか。
<文/江森敬治>