
日本女性として初めて、さまざまな道を切り開いた人物をクローズアップする不定期連載。第7回は女性として初めて日弁連会長となり、裁判官、検察官、弁護士の法曹三者でも初めて女性としてトップに立った渕上玲子さん。40年以上の弁護士としてのキャリアを持つ渕上さんが法曹への道へ進んだきっかけは5歳の時。女性の就職差別がひどい時代にも負けず、奮闘してきた彼女の半生とは―。
一橋大学にしたのは国立で自宅から通えたから
「会長選挙には自ら手を挙げました。日本女性の社会進出を進めるためにも、女性がトップに立つこと、さまざまな決定過程に関与することはとても重要だと考えています」
そう話すのは、弁護士の渕上玲子さん(70)。弁護士歴40年以上のキャリアを持ち、昨年女性で初めて日本弁護士連合会会長に就任。全国4万5000人の弁護士を会員とする組織のトップに立った。会長の任期は2024年4月からの2年間。
「2年間で成し遂げられることはそう多くはありません。ただ、引き継いだ課題は山積みで、再審法改正、取り調べの可視化、裁判手続きのデジタル化をはじめ、目の前にある問題に今しっかり取り組んでいるところです。私の任期中に叶わなくとも、先々必ず実現できるものとしてきちんと道筋をつけ、次の会長につなぐ、という役割があります」
と前を見据える。

生まれは長崎県の大島で、炭鉱会社勤めの父、元教員の母のもと、炭鉱の町で育った。法曹への憧れが芽生えたのは早く、彼女が5歳の時に遡る。
「父が町役場で出生届に『玲子』と書いたら、その字は使えないと言われて『冷子』とした。でも使えないというのは役場の間違いで、その後裁判所で訂正しました。裁判官に『自分の名前を書いてごらん』と言われて、当時5歳だった私が『玲子』と書いて。その印象が強くありました」
教育には熱心な家庭で、島自体もまた特別な教育環境下にあった。炭鉱が栄えていたころのことだ。
「教職員は全国から優秀な方が集まっていて、極めて教育水準が高かった。一つのモデルケースになっていて、よそから先生方が見学に来ることもありました。小学校では××さんと呼びなさいと言われていました。普通、友達同士は××ちゃんと呼び合うものですよね。でも当時はそれが当たり前だと思っていたんです」
15歳の秋に大島を離れ、家族で千葉に移り住む。千葉でトップレベルの千葉高等学校を経て、一橋大学の法学部に進学した。自宅から大学まで片道2時間半の通学だ。
「一橋大学にしたのは、うちはそんなに裕福な家庭ではなく、国立で自宅から通えたから」
当時の一橋大学法学部は1学年140人で、うち女性は5人のみ。男子学生に囲まれ、司法試験という狭き門を目指す。肩身の狭い思いをすることはなかったのだろうか。
「女性はいらない」と言われる
「あまり感じなかったですね。それより司法修習終了後、就職の時のほうが明らかでした。ある程度予想してたことではあるけれど……」

司法試験に合格し、司法修習生として計2年間の研修に励んだ。その間、裁判官から弁護士に志望を変えている。
「判決を書くために裁判所の中で黙々と記録を読むのはあまり向いていない。人と関わりのある仕事のほうが自分には合っているのではないかと考えて」
弁護士になるための就職活動は厳しく、そこで男女の壁に突き当たる。
「女性はいらないと言われました。いらないと明確に言えていた時代でした」
面接で落とされるならまだしも、そもそも女性というだけで面接すら拒否されてしまう。一方、同期の男性陣は次々と就職先を決めていく。
「男性とはもう全然違う。なかなか就職先は決まりませんでした。故郷の九州で弁護士をしようかとも考えたけど、地方はもっと厳しかった。最終的に、同期の男性弁護士が先に就職を決めていた事務所に入ることになりました。事務所を拡大するので1人女性を雇ってもいいと言われ、やっと引っかかった感じです」
事務所の案件のほか、法律相談、国選弁護、そして弁護士会の活動にも力を入れた。弁護士会の会務で、法律相談センター設立や広報活動などに尽力。司法修習生の手助けも彼女の役割の一つで、
「女性弁護士として女性修習生の面倒を見る人間が必要だったのだと思います」
と振り返る。13年間の弁護士活動を経て、1996年に仲間6人と「日比谷見附法律事務所」を開設。
「弁護士というのは依頼者がいて初めて成り立つもの。頂いた仕事を一生懸命やる。それだけです」
と、不動産関連や倒産、破産管財と幅広い案件を担当してきた。事務所は来年、設立30周年を迎える。
2017年、女性初の東京弁護士会会長および日弁連副会長に就任。2006年に東京弁護士会の副会長を務めた経緯があり、そこでの実績が認められた形だ。
「当時は東京弁護士会の副会長に女性がなること自体すごく珍しかったころで、そろそろ女性が出ていかなければ、という空気がありました」
東京弁護士会会長就任時は不祥事など大きな問題を抱えていた時期で、女性トップとして対応に尽力している。
ジェンダー平等から取り残された亡国になってしまう
2020年から2年間、日弁連事務総長を務め、令和6年度同7年度日弁連会長選挙への出馬を表明。日弁連は全国52ある弁護士会からなる組織で、会長は選挙により選出される。
「日弁連会長を目指す人は今まででも、最も会員数が多い東京弁護士会の会長経験者が多かったのです。私は日弁連事務総長の経験もありましたので、弁護士会の課題は把握していました。
ただ先輩方の会長選をそれまで何回か応援していて、どれだけ大変かというのもよくわかっていました。選挙活動では全国を回りました。各地の弁護士会で意見交換会をしては、その合間に地元の法律事務所へご挨拶にお伺いして、支援を要請して。それが7か月ほど続いたでしょうか」

開票の結果、次点候補を大幅に上回る1万1111票を獲得。次期会長に選出された。女性が会長に就くのは、75年にわたる日弁連の歴史で初めてのこと。裁判官、検察官を含む法曹三者でも女性トップは初となる。
女性初の会長として、とりわけ力を入れるのが男女共同参画だ。日本のジェンダーギャップ指数は146か国中118位で、日本女性の社会進出は大きく遅れている。
「ジェンダー平等、女性活躍の見地から、選択的夫婦別姓実現という環境整備が必要だと考えています。強制的に国が夫婦同姓を義務づけているのは世界でも日本だけ。
女性の不都合を解消するという意味でも、選択的夫婦別姓を実現しなければ、日本はいつまでたってもジェンダー平等から取り残された亡国になってしまうのではと危惧しています」
女性がトップに立ったいまなお、女性弁護士はまだまだ少数だ。法曹という男性社会でいくつもの「女性初」を成し遂げてきた彼女は、後進たちに期待を込めたメッセージを送る。
「私が弁護士になった時、女性の割合は約4%でした。あれから40年がたち、女性の割合は約20%になりました。ハーバード大学のある教授によると、20%というのはやはりマイノリティーだそうです。けれど女性が増えているのは事実。
20%ということは、全弁護士のうち女性は9000人以上いるわけです。日弁連の副会長も、今15人中7人が女性です。私など目指さずとも、後輩たちは着実に増えている。自らやりたいと頑張ってくれている方々がいる。私自身そう期待しています」
取材・文/小野寺悦子