
大好きなお母ちゃんに褒められたい。歌うことが好きだった少女は、だからこそ本物の歌手になることを目指してマイクを握った。それから40年以上─。
《どんな未来かはわからないけれど、私たちの未来のために、私は進む。“終わり”の次があると信じて》
唯一無二の歌姫となった女性は公式サイトで、そうメッセージを発信している。何度も手放そうかと煩悶しながら、マイクを握り続ける道を選んだ女性、中森明菜。
「完全復活は、もう目の前です。今年に入ってから野外音楽フェスに出演したかと思えば、テレビ番組にも“登場”を果たしましたから」(スポーツ紙記者、以下同)
43回目のデビュー記念日となる5月1日に開催されたコンサートの模様が6月上旬、2週にわたってNHK BSで放送された。名だたる歌手が明菜の楽曲を歌う“トリビュート”コンサートだったが、その客席にいる明菜の姿も映し出されたのだ。
明菜の実兄が語る「きょうだい」
「さらに6月6日には、お笑いコンビ中川家がパーソナリティーを務める『中川家 ザ・ラジオショー』に生出演。兄の剛さんが明菜さんの大ファンだったことから、ゲスト出演が叶ったそうです。明菜さんは着実に活動の場を増やしており、今後地上波の出演があるかもしれません」
そんな明菜も、7月13日で60歳を迎える。
「6月10日が母親の命日なのですが、この日は“時の記念日”なんです。だからこそ明菜にも、時間を大切にして生きてほしいと思っています」
そう静かな語り口で話すのは、明菜の3つ上の実兄だ。

2024年12月、明菜の父・明男さんが亡くなった。きょうだいが連絡するも、明菜からは今も音沙汰がない。それは、家族が明菜のお金を使い込んでいると疑ったことが原因とされる。明菜と最後に会ったのは、母親が亡くなった1995年。断絶して30年の月日が流れた。
「父を火葬した日に、きょうだいで実家に集まったんです。父と明菜の思い出についても話題にあがりましたが、やはり他人と養子縁組をしていたことについて、みんな悲しんでいました」(実兄、以下同)
明菜が中森の姓を捨て、所属事務所の女性社長と養子縁組したことは、すでに2月4日発売の週刊女性で報じた。
中森家との完全なる決別を示す、明菜の意思表示なのかもしれない。しかし、時代を象徴する歌姫と呼ばれた明菜の原点こそ、中森家にあった。
娘の明菜に託された母の夢
「歌い方とか口の開き方とか、母親が教えていました」
明菜の母・千恵子さんは、歌手を目指し上京した。東京・新宿のキャバレーで働く中で、明男さんと出会い結婚。6人の子宝に恵まれた。
「美空ひばりさんのような歌手になりたい!」
千恵子さんが熱望した夢は、娘である明菜に託された。
1981年、3度目の挑戦となったオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)で合格。1982年にデビューすると、瞬く間にスターの階段を駆けあがる。
ただ、家族の前では変わらない明菜だった。
「家族で静岡県の伊豆に旅行したことがありました。デビューして1~2年たち、明菜がもう人気になっているころです。明菜は本当に楽しそうにしていたし、旅館では母親と夜遅くまでいろんなことを話していました」
頑張った自分を褒めてほしい。明菜には、そんな思いがあったのかもしれない。

順調に活躍する中、ひとつの節目があった。
20歳を迎えた1985年、明菜は日本レコード大賞を受賞する。『ミ・アモーレ』を熱唱する明菜の前に登場したのは、花束を手にした千恵子さんだった。明菜にとって、母親の夢を叶えた瞬間だった─。
なんで仲よくできないの!
「ここに来たのは3年ぶりですね」
母親の墓前で祈るように手を合わせ、顔をあげた実兄が話を続ける。
「最近は、明菜がいろいろな活動をしているようだと周囲から聞こえてきます。ラジオから明菜が新しく歌った『北ウイング』が流れてきたんです。従来とは違うバラードで、お酒を飲みながらゆっくりと聴きたくなる曲ですよね」
妹の活躍を喜ぶ反面、複雑な思いを抱え続けている。
「たまに会って、昔話をしたり、そういう家族の形に戻れたらいいのですが……」
そのうえで、こんな母親の願いがあったと打ち明ける。
「子どものころ、きょうだいゲンカをすると母親が“同じお腹から生まれてきたのに、どうしてケンカするの。なんで仲よくできないの!”って悲しそうな顔で話していました。だから本当はみんなで仲よくしたいのですが……。母親に申し訳なくて」
母の願いを叶えられる日は再び訪れるのか─。