長嶋茂雄さん(2013年5月9日、旧読売巨人軍多摩川グラウンドにて)

 昭和を代表する英雄の訃報に列島が悲しみに包まれた。6月3日、選手時代の背番号『3』がつく日に長嶋茂雄さんが旅立った。

「長嶋さんは肺炎のため、都内の病院で亡くなりました。2022年に都内の自宅で転倒した際に後頭部を打ち、脳内に出血が見られたため、入院することに。それ以降は基本的に病院で過ごすことになり、体調がいいときには外出をするという生活でした」(スポーツ紙記者)

 1936年に千葉県で生まれた長嶋さん。立教大学時代は東京六大学野球のスターとして活躍すると、1958年に巨人に入団。1年目から本塁打王と打点王を獲得し、新人王に。勝負強い打撃や華麗な守備で人々を惹きつけ、プロ野球を国民的な人気スポーツへと押し上げた。

 現役引退後も巨人の監督として、松井秀喜氏ら数々の名選手を育てあげ、日本における野球の発展に大きく貢献。いつしか“ミスタープロ野球”と呼ばれるようになった。

 長嶋さんとは、どんな人物だったのか。編著『長嶋茂雄語録』(河出書房新社)があるスポーツライターの小林信也さんに聞いた。

天覧試合で時代が変わった

「長嶋さんが活躍した当時は、敗戦から復興の途中で、日本が世界に対して劣等感を持っていた時代。そんなときに勇気を与えてくれたのが長嶋さんでした。長嶋さんを語るうえで欠かせないのが、プロ野球史上初の天覧試合で放ったサヨナラホームラン。当時はプロ野球より大学野球のほうが人気。プロ野球の地位は低かったんです。そんな中、長嶋さんが天皇陛下の前でサヨナラホームランを打って時代が変わった。今のプロ野球人気は、あのホームランがあったからでしょう

婚約発表時の長嶋茂雄さんと妻・亜希子さん。長嶋さんが口説き落として交際から約40日で婚約

 元来、人を喜ばせることが好きだったという長嶋さん。球界を代表する人物としての自覚もあったようだ。

「自分が活躍すると、みんなが喜んでくれるとわかると徹底して期待に応えていました。三振しても喜ばせたいからヘルメットの飛ばし方を練習したとか。守備でミスしても、わざとアクションを派手にするとか。失敗でも人を喜ばせようとする人。うれしいときはうれしい、悔しいときは悔しいと、そのときの感情を身体全体で表して、それをファンと共有する。素直で嘘がないから相手チームも、そのファンも嫌いになれない選手でした」(小林さん)

 そんな“スター・長嶋”にも29歳のときに家族ができた。前出のスポーツ紙記者によると、実に長嶋さんらしいゴールインだった。

「1965年1月に東京五輪のコンパニオンだった亜希子さんと結婚。亜希子さんは田園調布雙葉学園中学、高校出身で、4か国語が堪能。そんな亜希子さんに一目ぼれした長嶋さんが口説き落として、交際から約40日での婚約というスピード婚でした」

妻は何度もスープを温め直した

 結婚した年から巨人は9年連続で日本一になる“Ⅴ9”時代に。その中心選手だった長嶋さんを亜希子さんが支えた。

「長嶋さんは試合から帰ると裏庭で素振りをするのが日課。ただ、自分が納得するまでそれが続くため、10分で終わることもあれば、2時間続くことも。亜希子さんは練習が終わるタイミングでスープを食卓に並べるために、長嶋さんの練習の様子を見ながら、何度も温め直したそうです」(前出・スポーツ紙記者)

 ふたりの間には2男2女が誕生。長男・一茂は立教大学からヤクルトに入団し、プロ野球選手に。次女の三奈はテレビ朝日に入社し、キャスターとして活動した。そんな子どもたちの活躍を長嶋さんも父親として見守っていた。前出の小林さんが振り返る。

「悪口を言わない長嶋さんが一度だけ、人を悪く言っているのを聞きました。それはヤクルトに所属していた一茂さんについて“野村は一茂をうまく使ってくれない”と、当時の監督だった野村克也さんへの発言でした。六本木のスタジオで取材をしたとき、そこからテレビ朝日の社屋が見えると“三奈が勤めているテレビ局がアレですね”と、家族のことは気にかけていたようです。ただ“自分はみんなの長嶋”という意識があったようで、父としての顔はまた別、という感じでした」

 そんな一茂と三奈だが、かつて“仲違い”も一部で報じられていたが……。

家族みんなが病室に集まった

長嶋茂雄さんの次女でキャスターの長島三奈

長嶋さんが亡くなったあと、一茂さんと三奈さんの2人が弔問に来た王貞治さんらを並んで出迎えていました。晩年、病状が思わしくない中でも人前に出ると多くの人が感動する長嶋さんの姿に兄妹も心を動かされたのかもしれません」(前出・スポーツ紙記者)

 一茂は6月6日に『モーニングショー』(テレビ朝日系)に生出演。父の病室での様子について、

「きょうだいとも会って、病室にみんな集まったけど、泣いているきょうだいはいなくて、笑い声さえ聞こえて」

 と語り、さらに、

「妹たちと話したのは、きれいな若い看護師さんがいた病院で“パパは幸せだよね、こんなきれいな看護師さんに見送られてさ”って。妹が“きれいな看護師さんが来ると笑うね”って」

 と終始、和やかな雰囲気だったことを明かした。

「長嶋さんは、野球に身を捧げてしまったため“私はまったくダメ親父だった”と話すことも。子どもたちと直接、触れ合うことは少なかったかもしれませんが“不滅の愛”は伝わっていたのだと思います」(前出・スポーツ紙記者)

 最期は、いわゆるひとつの明るい家族に見送られて。