
2000年にアメリカのメジャーリーグを舞台にした野球小説『8年』で「小説すばる新人賞」を受賞し、以来、多数のシリーズがある警察小説をはじめ、陸上競技、ラグビー、政治、選挙、新聞社などを題材に多彩な作品を発表し続けている堂場瞬一さん。
刊行195作目の『ポピュリズム』

刊行195作目となる『ポピュリズム』(集英社)は、並行世界の日本で実施される首相直接選挙の模様を描いた社会派小説だ。
「政治を含め、今の世の中に対して、『なんか変だよね』という感覚があるんです。だからといって、SNSなどで声をあげるのは小説家として意味がない。僕は商売として小説家をやっているので、“何かを変だと思ったら小説で書く”というのがポリシーなんです」
『ポピュリズム』は2023年に刊行された『デモクラシー』の続編にあたる。『デモクラシー』では、国会が廃止されて20歳以上の国民から1000人の「国民議員」がランダムに選出され、直接選挙で総理大臣が選ばれる様子が描かれた。
「そもそも、民主主義とは民意をくみ取るための仕組みです。日本における民主主義を考える場合、ほぼ議会制民主主義の枠内でどうするか、の話になりがちですが、それしかスタイルがないのだろうかと思うんです。例えば、インターネットを活用すれば今よりもダイレクトに民意をくみ取ることができます。思い切って政治のシステムを変えてみたらどうなるだろう、と思って書き始めたのが『デモクラシー』なんです」
登場人物とは距離を置き、感情移入もしない

今作『ポピュリズム』で展開される首相直接選挙には、女性首相を目指す政治家・大曽根麻弥や、SNS総フォロワー数800万人以上のインフルエンサー・城山拓己などが立候補する。
「憲法を改正して政治のシステムを変え、首相直接選挙を導入しても、結局は知名度がある人が当選しやすくなります。まさに有権者の感情に訴えるポピュリズムということですよね。例えば、去年の都知事選には56人もの立候補者がいましたし、何の目的で選挙に出るのかわからないような人もいます。
だから『ポピュリズム』では、首相直接選挙に出馬する際の供託金を1億円にしました。都知事選の供託金300万円は親戚中からかき集めればなんとかなるでしょうが、1億円となるとハードルが上がり、それだけ本気度が問われると考えたんです」
候補者のひとりである大曽根麻弥は、少女時代に宝塚歌劇団を目指していたものの、訳あって叶わず、弁護士を経て政界入りをした。首相選の選挙活動中には自身の愛猫の姿をSNSで発信し、アニメ好きの一面もある。
「おそらく日本には猫好きな人が数千万人はいるでしょうから、愛猫家の顔を公表することで基礎票を固められたのではないでしょうか。日本の政治家は自分が好きなものをあまりアピールしない傾向がある中、うまい戦略を考えたものだなぁと思います」
頭がやわらかく気さくな人柄で、戦略家の大曽根麻弥は、多くの読者に好意的に受け入れられる人物だろう。だが、堂場さんは彼女が苦手だという。
「自分の上司だったら、ちょっと面倒くさいなって思うんですよね。猫の話をされても困るし、機嫌をとるためにアニメを見ないといけないのだろうか、などと妄想しながら書いていました。こんなふうに妄想が走ると、いいキャラクターを書けるんです。彼女とは微妙な距離感を保っているような感覚ですね」
登場人物との距離感でいえば、インフルエンサーの城山拓己のことは完全に突き放しているのだそうだ。
「元芸人で見た目もよく、知名度もあり、まじめにそれらしいことを言って大勢の人がその言葉に乗ってしまう。彼は実際の選挙でも出てきそうなタイプで、それがすごくイヤなんです」
ちなみに、主要登場人物のひとりである大学教授・尾島泰人は、堂場さんが一番嫌いなタイプなのだとか。
「ワイドショーのコメンテーターなどでテレビ番組に出演し、名前は知られているけれども、学者として何をしているかよくわからない。イメージだけが知られている感じの人ですね」
並行世界の日本を生きる登場人物の中には、2025年の現実を反映した“2025年型”の人もいる。例えば、大曽根麻弥のライバル政党である民事連総裁の岩下安晴だ。
「ミスを誰かのせいにしたり、いつもカリカリと怒っていたり、保身に走ったり、彼のような政治家は今現在もいますよね。言ってみれば岩下は2025年型の政治家で、『ポピュリズム』の政治システムには通用しない人間として描いています」
堂場さんは登場人物に感情移入することはないらしい。
「作品の中で殺した登場人物を悼む作家さんがいると聞いたことがあるのですが、そうした感情はないんですよね。僕は人形使いのようなものですから。キャラは人形で、小説を書くための単なる道具のような感覚なんです」
1冊分の原稿の初稿を半月で書く

堂場さんはデビュー以来、毎年、10冊前後の新刊を上梓し続けている。驚異的な刊行スピードの裏側を教えてもらった。
「原稿用紙換算で1日55枚、原稿を書きます。それ以上書くと疲れてしまう。巡航速度としてはちょうどいいんですよね。時間でいうと5時間くらいです。ただ、労働時間が5時間というのは、働く人間としていかがなものかと思いますが(笑)」
猛烈な仕事ぶりに驚愕する取材スタッフを前に、堂場さんは「慣れですからね」と平然とした様子。1冊分で500~600枚の原稿の初稿は半月ほどで書き上げるそうだ。
「初稿はまったく人に見せられない状態です。そこから10回ほど推敲して仕上げられるようにスケジュールを組んでいる感じですね」

超人的な仕事量をこなす堂場さんのタイムスケジュールとは?
「朝は7時前に起きて、満員電車に揺られながら8時ごろまでに仕事場に出勤。午前中に2時間くらい原稿を書きます。お昼ごろからジムに行ったり昼食をとったりして、また2時間ほど原稿を書きます。夕方からはゲラを読んだりする作業になりますね。19時ごろに仕事場を出て、自宅持ち帰り残業で1時間ほど原稿を書きます。夜は12時くらいまでに布団に入りますが、そこから海外ミステリを読んだりするので寝る時間は遅めです」
編集者との打ち合わせや取材の対応も堂場さんの仕事のひとつだ。
「新作を書くときには、月の前半に集中して執筆するんです。最近は僕のパターンを読まれているらしく、月の後半に打ち合わせや取材が入るのがありがたいです」
そうした仕事の合間にメールの返信もこなす。
「後で返信しようと思っても忘れてしまうので、メールを受信したら原稿を書く手を止めてすぐに返すようにしています。その後、スムーズに執筆に戻れればいいのですがそうもいかず、ついついYouTubeのショート動画で変化球の投げ方なんかを見たりしちゃうんですよね。1分の動画でも10本見れば10分になってしまいますし、短時間でできる暇つぶしというのは危険ですよね」

堂場さんの頭の中にはすでに、来年刊行される7~8作品の構想があるそうだ。
「ほかにも、その後の作品になりそうなモヤモヤとしたものがありますね。まあ、仕事のほかにすることがないので、いろいろと妄想するしかないんです」
普段の仕事ぶりについて、20年以上の付き合いになる集英社文庫編集部の伊藤木綿子さんは次のように語る。
「弊社では、才能豊かな刑事チームを描いた警察小説『ボーダーズ』シリーズを毎年12月に刊行しています。刊行の半年前には原稿をいただき、刊行するころには翌年の分の概要が届きます。ゲラのお戻しもメールの返信もすべての対応が早い方なので、堂場さんの担当の方はみなさん助かっていると思います」
堂場さんは今年の後半に刊行200冊目の節目を迎える。それを記念して、出版社の垣根を越えた「全国ツアー the200」を開催中だ。
「いわゆる書店訪問で、これまでも書店さんに伺ってサイン会をしたり、トークイベントをしています。それに“ツアー”と名前をつけたということです。今のところ『全国ツアーって何だよ!?』とツッコまれてはいませんし、言ったもん勝ちですね」
全国ツアーの発案者は堂場さん本人だそう。
「基本的に新しい作品の執筆にあたっては、専門家に話を聞いたり、舞台になる場所に足を運んだりと取材をします。ただ、コロナ禍のときは、取材に行きたくても行けませんでした。そのときの思いが爆裂し、行けるときに行っておこうと全国ツアーをしているんです」
勉強のかたわら音楽や文学に熱中した大学時代

ストイックに小説の執筆に励む堂場さんにとって、現在の環境は理想形のようだ。
「小説以外のことを何もしなくていいのは、ありがたい限りです。今のような状態になりたくて、いろいろなものを捨ててきましたから」
堂場さんが捨ててきたものとは? 小説家・堂場瞬一をつくっているものとは? 堂場さんのこれまでの歩みの中にそのヒントが隠されているかもしれない。
「子どものころから作家になろうという気持ちがあり、書く仕事をしていれば作家になれるかな、ということで新聞記者になりまして、入社後15年ほどたってから作家としてデビューしました。言ってみれば、新聞社を文章修業の場に利用したということですが、それが生きているかどうかはわかりません」
堂場さんは茨城県に生まれ、中学ではバレーボール部に所属し、高校ではラグビー部で主将を務めていた。それだけを聞くと体育会系の印象だが、一方では読書家の少年でもあった。
「小・中学生のころは星新一などのSFを好み、高校生くらいからダシール・ハメットなどのハードボイルドを読むようになりました」
高校卒業後に進学した青山学院大学時代からの友人である福冨達夫さんは、堂場さんの読書人ぶりを目の当たりにしている。
「大学の勉強とアルバイトで忙しい中でも多くの本を読んでいましたね。非常に難解な作品ともいわれているジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』といった分厚い本を読破していました」
福冨さんは文学や音楽の話題を通して堂場さんと親しくなっていったという。

「それまでの僕はビートルズやローリング・ストーンズのようなブリティッシュロック系を好んでいたのですが、彼からジミ・ヘンドリックスやロマ音楽とジャズを融合させたギタリストのジャンゴ・ラインハルトなどを教わり、聴くようになりました」
2人とも中高生のころからギターを弾き始め、大学3年で一緒にバンドを組んだ。
「彼がリードギターで、僕はリズムギターを担当しました。ボブ・ディランの曲やブルースなどを演奏した記憶があります」
大学4年のときには、堂場さん発案のプロジェクトに参加したそうだ。
「僕たちは青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科の1期生で、就活で苦労した部分があるんです。後輩の役に立てばと、30数名の学生に取材をして就活の体験談を冊子にまとめました。おそらく彼は、さまざまな仕事に就く133人へのインタビューをまとめたスタッズ・ターケルの著書『仕事(WORKING)!』にインスパイアされて発案したのだと思います」
結婚号外が作られた新聞記者時代

大学卒業後の1986年4月、堂場さんは読売新聞社に入社した。
「当時、東京本社の記者には50~60人くらいの同期がいました。2週間の研修後、彼は新潟支局、僕は長野支局に配属になり、5年後に同じタイミングで本社の社会部に異動となり、彼は渋谷方面、僕は池袋方面の担当になりました」
そう話すのは、新聞社時代の同期で、現在はテレビ局勤務の寺内邦彦さん。
「その後、同じ時期に警視庁記者クラブに異動しました。彼の小説には捜査1課がよく登場しますから、『自分が担当した部署じゃなくて捜査1課のことばっかり書いて』と言ったりしましたね(笑)」
今でも印象深いのは警視庁記者クラブでのエピソードだという。
「警視庁記者クラブにはテレビと新聞を合わせて200人以上の記者が詰めており、読売新聞社の記者だけでも11~12人ほどいました。土曜日は閉庁日なのですが、なぜかうちの記者は記者クラブにいまして、昼飯に鍋を作って食べたりしていたんですよね。彼は非常に料理がうまく、鍋奉行でした。堂場君の小説にはよく料理や食べ物が登場しますが、本人が料理上手なんですよね」
寺内さんから堂場さんの意外な一面も教えてもらった。
「彼は茨城県、僕は栃木県と、魅力度ランキングで下位争いをする北関東の出身です。にもかかわらず、彼は洒落者でいろいろなことをよく知っているんです。警視庁記者クラブ時代に一緒に神田のそば屋に行ったとき、僕がそばをそばつゆにしっかり浸して食べるのを見て“粋じゃないな”と言われました(笑)。彼いわく、そばつゆに少しだけつけるのが江戸のそばの食べ方だそうなんです。バイクや車にも詳しくて、20代のころにはイタリア製のバイクに乗っていましたね」
また、長年の友人の福冨さんからは、最近の堂場さんの素顔を伺った。
「彼は自律性が高くストイックな面がありますが、やさしく情に厚いところもあるんです。少し前に一緒に食事をしたときには、“年のせいで涙もろくなったのか、朝ドラを見ると泣いちゃうんだよなあ”と話していました」
堂場さんがNHKの『連続テレビ小説』を見始めたのは2013年ごろからだそう。
「もともと映像作品はほとんど見ない人間ですが、ドラマの勉強もしようと思って『あまちゃん』あたりから朝ドラを見るようになりました。毎度泣いていますし、60歳を過ぎてからその傾向が加速したようです」
寺内さんも福冨さんも、共に堂場さんの結婚式に出席している。
「20代の後半に同期が相次いで結婚した時期がありまして、そのころに彼も僕も結婚しました。当時は結婚式があると、新郎新婦のことを記事風に書いた“結婚号外”を作ったりしていたんですね。彼の結婚式の結婚号外には、プロポーズのときに大きなバラの花束を持って行ったと書いてあったように記憶しています」(寺内さん)
「堂場さんの結婚号外に大学時代のエピソードを寄稿しました。出席者には立派な結婚号外が配られて、さすが新聞社だなあと思いました」(福冨さん)
プライベートなことをあまり話さない印象のある堂場さんだが、言葉の端々から奥様との関係が垣間見られる。
「夕食は妻と一緒に作ることが多く、煮方は妻、焼き方は僕という具合に役割分担ができています。年齢的なこともあって塩分に気をつけているのですが、僕が作るとなぜか塩けが強くなったりするんですよね。だから、できるだけ塩分を少なめにして代わりにレモンを多めに使ったりしています。うちはレモンやポン酢の消費量がやたらと多いんです(笑)」
女性にとって、夫婦に関する堂場さんの考え方は理想の夫像に近いかもしれない。
「基本的に男が弱いということにしておくと、ほとんどの場合は世の中が丸く収まると思うんです。妻が愚痴をこぼしたときには、“そうなんだ、大変だね”と相槌を打ちながら聞いています」
小説を書くために感情をフラットな状態に保つ

堂場さんはデビュー後、約12年間は小説家と新聞記者の二足のわらじを履き、2012年に専業作家となった。
「今の環境を手に入れるために会社を辞めました。お酒もやめたし、人間関係も整理して本当に親しい友人とだけ付き合っているような感じです」
趣味や息抜きについて何かあるかと質問したところ、「何もないかも」という答えが返ってきた。
「楽しいことも悲しいこともできるだけ起こらないようにして、感情をフラットな状態に保ちたいんです。なぜかというと、感情がフラットでないと小説は書けないから。例えば、登場人物の中に気に入ったキャラがいた場合、退場させざるを得ないときに悲しくなってしまう。だから登場人物とも作品とも距離を置いて書いていきたいと思うんです。とはいうものの、いまだに小説の書き方をよくわかっていないんですけどね」
これまで生み出し続けてきた200作近い小説の中には、堂場さん的にイレギュラーな作品もある。
「警察ものやスポーツものなど、僕の小説を読んでくださっている人が期待しているものとは違う、“変なものを書いたなあ”という感覚の作品もあるんです」
具体的に挙げてもらった作品のひとつが『ルーマーズ 俗』。人気俳優の心中疑惑のニュースを軸に、マスコミが発信する情報やSNSの書き込みのみで構成された長編小説だ。
「よくこんな作品を書けたなあと思います。売れるかどうかもわからないこういう変な小説を書かせてくれる限り、日本の出版社はまだまだ大丈夫だと思っています。ただ、好き勝手に書かせてもらった後には、ある程度の売り上げが予測できるものを上納するんですけどね(笑)」
堂場さんは現在、小説の執筆をきっかけに出合ったあるモノについての企画を温めているそうだ。
「今書いている小説の中に山梨が出てくるんです。山梨には、ご飯の上にトンカツやキャベツの千切り、トマト、ポテサラなどがのり、自分でソースをかけて食べるカツ丼があると聞き、登場人物に食べさせたいと思ったんです。実際にはどんな感じだろうと思って山梨まで食べに行ったら、トンカツ定食がそのまま丼にのったようなカツ丼が出てきてびっくりしました」

堂場さんは過去にもカツ丼でカルチャーショックを受けた経験がある。
「新聞記者時代に新潟のお店でカツ丼を頼んだら、醤油だれに浸したカツをのせただけのものが出てきたんです。卵でとじたカツ丼しか知らなかったものですから、非常に衝撃を受けました。こうした経験から、日本各地のカツ丼を食べてレポートする“日本カツ丼紀行”という企画を実現したいと思っているんです」
創作活動50年を迎えたら辛口海外ミステリ評論家へ

堂場さんの唯一の趣味ともいえるのは、10代のころから親しんでいる海外ミステリを読むことなのかもしれない。海外ミステリ愛が高じ、昨年は翻訳家としてデビューした。
「海外ミステリを専門に読んできたことが自分のベースになっていると思うんです。何とか恩返しをしたいと思い、去年は翻訳にも挑戦しました」
翻訳したのは警察小説の巨匠エド・マクベインの『キングの身代金』。この翻訳本に関して、前出の福冨さんは次のようなエピソードを語る。
「僕の父は直井明という名で海外ミステリ研究家として活動していました。父は『87分署』シリーズのエド・マクベインのファンでしたから、堂場さんが警察小説という分野を継承し、牽引してきたことがすごくうれしかったようです。彼と父は直接、交流するようになりました。『キングの身代金』の翻訳を手がけることを知ったときも父はとても喜んでいましたし、その新訳本の解説を執筆させてもらったんです。父は今年の初めに他界したのですが、その解説が活字となった最後の原稿でしたから、棺桶に本を納めて送りました」

今作の『ポピュリズム』では政治を描き、映像化もされている「刑事・鳴沢了」シリーズや「警視庁追跡捜査係」シリーズなど多くの警察小説を手がけ、スポーツ小説も上梓し、さらにはカツ丼にも熱い視線を注いでいる。堂場さんの作品のすべてに共通するものは何なのだろうか。
「それが、定かではないんです。いまだに自分で自分の作品がわかっていないんですよね。もちろん、これから先も書きたいものはたくさんあります。でも、トータルでの作品群がどうなっていくか、イメージもなければ予定もないんです。結局、作家としての僕の存在というのはどうでもいい。作品さえ残っていれば、それでいいんです」
作品に関していえば、『ポピュリズム』で描かれた世界の続きが気になるところだ。
「建物でいえば『ポピュリズム』は階段の踊り場のような位置づけです。2階にあたる部分の話はもう固まっているのですが、ちょっとシビアな内容なので書くのが怖くて、けっこうビビってます(笑)」
最後に今後の目標を尋ねたところ、思わぬ答えが返ってきた。
「目標は立てないようにしていまして、これからも書きたいことを書いて淡々と生きていきたいと思っています。僕は37歳でデビューしているので、87歳で創作活動50年になるんですよね。87歳になったら小説家は引退して、本音で語る辛口の海外ミステリ評論家になろうかな」
<取材・文/熊谷あづさ>