今年6月29日、結婚35周年を迎える秋篠宮ご夫妻

 戦後80年という大きな節目の年にあたる今年5月26日、第2次大戦中に海外などで亡くなった身元不明の戦没者を慰霊する拝礼式が、東京都千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われ、秋篠宮ご夫妻が参列した。墓苑には、身元が不明で、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨が37万1008柱、納骨されている。ご夫妻は、そろって納骨堂の前まで進み、深々と拝礼した。

秋篠宮ご夫妻は結婚35周年の節目

「結婚の儀」に臨んだ秋篠宮さまは束帯、紀子さまは十二単におすべらかしの装い(写真/宮内庁)

 秋篠宮ご夫妻もまた、今年6月29日、結婚35周年の節目の年を迎える。さらに秋篠宮さまは11月30日の誕生日で60歳の還暦となる。次の天皇である皇嗣として、秋篠宮さまは、兄の天皇陛下を支えながら、年々、その存在感を増している。

「公的な活動についてですが、大学在学中は学業を優先させていただきながらにはなりますが、少しずつ携わっていくことになると思います。周りの方々からご助言を頂きながら、一つひとつに丁寧に取り組み、成年皇族としての自覚を持ち、皇室の一員としての役割をしっかりと果たしていきたいと思っております。

 これまで、天皇、皇后両陛下や上皇、上皇后両陛下が、公的なお務めにお心を込めて取り組まれているお姿を拝見し、また、お話を伺う機会もあり、大切なことを学ばせていただいてまいりました。また、両親や姉からも、実際に行事に出席した方や、訪問先でお会いした方々のお話を聞き、また、その土地の文化や風土についての話も聞き、ときには両親に同行することによって、活動のあり方を間近に見ることによって、学んできました」

 今年3月3日、秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが、初めて記者会見を行った。昨年9月6日、悠仁さまは18歳の誕生日を迎えた。民法の改正で成年が18歳に引き下げられたため、成年皇族の仲間入りを果たしていたが、大学受験を控えていたこともあり、成年会見などは延期されていた。

 念願の筑波大学生命環境学群生物学類に見事、合格し、今年4月から大学生となることが決まったこともあり、この日の記者会見となった。

 皇位継承順位第2位の悠仁さまは記者から、今後、成年皇族として公的な活動にどのように取り組むのかを尋ねられ、前述したように答えた。

 スーツにネクタイ姿の悠仁さまは、終始、落ち着いていて、記者の質問に対して、一語一語、丁寧に受け答えた会見で、多くの国民から称賛する声が相次いだ。

 6月4日から17日まで次女、佳子さまは南米ブラジルを公式訪問した。今年は、日本とブラジルの外交関係樹立130周年および、日本ブラジル友好交流年でもあり、ブラジル政府からの招待を受けての訪問だった。

 佳子さまの外国への公式な訪問は、2019年のオーストリアとハンガリー、'23年のペルー、そして、昨年のギリシャに続き、令和に入り4回目となる。華やかな容姿に笑顔が映える30歳の佳子さまは、国内外で人気が高い。ブラジルでは、首都ブラジリアやサンパウロなどを訪れたが、晴れ着姿の佳子さまは日系の方々やブラジルの人たちから大歓迎を受け、日本とブラジルの友好親善を促進するという大役を立派に果たした。

 このように、秋篠宮ファミリーは、今や令和皇室の中で、極めて重要な役割を担っている。ご夫妻ばかりでなく佳子さまや悠仁さまも天皇、皇后両陛下を盛り立てながら、国民との絆をさらに深めていくことだろう。

 35年に及ぶ秋篠宮ご一家の歩みを振り返りながら、今後10年先、20年先の皇室に深く思いをはせてみたい。

「あのとき出会わなければ、現在でも独身だった……」

秋篠宮さまとの婚約発表後、紀子さまは一躍、時の人に。ご結婚の日まで連日、通学風景などをマスコミが追いかける「紀子さんブーム」に

 まず、個人的な思い出から書き起こしてみよう。秋篠宮ご夫妻は1989年9月、皇室会議で2人の婚約が正式に決定し、翌'90年6月29日に結婚して秋篠宮家を創立した。

 ここに秋篠宮家が、船出をしたのである。私が、紀子さまの父親である川嶋辰彦・学習院大学名誉教授(故人)と初めてお会いしたのは'87年夏ごろだったと思う。ご夫妻が結婚する3年近くも前のことだった。

 私の妻が大学を卒業した後、学習院大学経済学部で副手をしていた。当時、彼女は辰彦氏の資料整理などの手伝いをしていた関係で、結婚を控えていた私と妻は、辰彦氏と学習院大学にある川嶋研究室で懇談した。壁に沿った本棚には専門書などがぎっしりと並び、机の上には、書籍や資料、郵便物などがうず高く積まれていた。

 そんな中にあって、子どものころの紀子さまと弟の舟さんが一緒に写ったカラー写真が壁に飾られていて目を引いた。初対面にもかかわらず、16歳も年少の私に対しても終始、笑顔で、敬語を交えながら丁寧に接してくれた。辰彦氏の謙虚で穏やかな人柄に私はすっかり魅了された。

「そう、あのとき、出会わなければ、私は現在でも独身だった可能性があります」

 秋篠宮さまが、今でもこう熱く振り返るように、紀子さまとの出会いは運命的なものだった。'85年5月、学習院大学法学部2年生の秋篠宮さまは、文学部に入学したばかりの紀子さまと大学構内の書店で初めて会った。紀子さまと出会ってすぐに、当時、ご家族と暮らしていた東宮御所に紀子さまを招き、自分の両親である上皇ご夫妻に紹介した。

 その後も紀子さまは東宮御所を訪れ、上皇さまや上皇后さまとテニスを楽しみ、お茶の席を共にした。上皇ご夫妻は、「キコちゃん」と親しく呼んで、とてもかわいがった。また、紀子さまは、秋篠宮さまが小学校時代の友人らと一緒に始めた大学のサークルである自然文化研究会に入会し、全国各地を仲間と共に訪れながら、2人は、徐々に愛を育んだ。

 そして、'86年6月、学習院大学近くの交差点で秋篠宮さまは、紀子さまにプロポーズした。初めて出会ってからわずか、一年余のことだった。後から振り返ると、私が辰彦氏と会ったのは、2人が結婚に向けて着実に歩みを進めていたころだったが、もちろん、私も妻もそんな事情などまったく知らなかった。新聞報道などで2人の結婚を知り、それこそ腰を抜かさんばかりに驚いた次第である。

独身時代にデートを楽しんだ場所を訪れた、新婚時代の若々しい2人

 秋篠宮ご夫妻が結婚したころ、私は記者として毎日新聞京都支局に勤務していた。

 紀子さまの両親である辰彦氏と妻、和代さんと親しかったこともあり、私は、東京に出張して結婚取材を手伝っていた。

 結婚式直前の'90年5月、学習院大学の研究室で紀子さまの両親に、私はインタビューした。辰彦氏が取材で、娘の結婚についての心境を素直に語ったことはこれが最初で最後ではなかっただろうか。その一部を『秋篠宮家創立、おめでとう礼宮・紀子さま』(『毎日グラフ臨時増刊』'90年7月14日発行)から、紹介してみよう。

 私は、「紀子さんが、皇室という遠い世界に行ってしまうというお気持ちはございませんか」と、尋ねた。この質問に対し2人は、次のように答えている。特に、和代さんは母親としての戸惑いや思い悩む気持ちを、包み隠さずに打ち明けてくれた。
《『遠くへ行ってしまう』とおっしゃいましたが、そんなに遠い所なのでしょうか》(辰彦氏)

《それはあなたらしいおっしゃり方ですけれども、私の気持ちは少し違っております。全く未知のものではございませんが、そうかと申せ、ときどき流れてくる情報だけではわからない面もないわけではございません。不安が全くない、と申すのは当たらないと存じます》(和代さん)

 紀子さまと家族が暮らしていた学習院職員の共同住宅は、大学に隣接していた。自宅から研究室まで歩いてわずか数分の距離で、辰彦氏は一日の大半を研究室で過ごしていた。

 私も何度か訪れたが、古いアパートにはエレベーターはなく、紀子さまたちは自宅まで、毎日、階段を利用して上り下りした。結婚が決まり、若く愛らしい紀子さまは大人気となり、「3LDKのプリンセス」と呼ばれたりもしている。

2人の内親王に恵まれ、公務と子育てに多忙な日々

日本舞踏の発表会を訪れた紀子さまと、当時11歳の眞子さん、8歳の佳子さま

 1990年6月29日、結婚式当日の朝も紀子さまと両親、弟は、共同住宅にある自宅から屋外に階段を下りてきた。紀子さまはピンクのワンピース姿で、同じ色の帽子、首元には真珠のネックレスが輝いていた。宮内庁からの迎えの車に乗り込んだ紀子さまを、近所の住民など大勢の人たちが温かく見送った。

 結婚の儀や朝見の儀などを終えた2人は、皇居から東京・元赤坂の赤坂御用地にある新居まで車で移動したが、初々しいカップルを一目見ようと、沿道には大観衆が押し寄せた。このとき、秋篠宮さまは24歳、紀子さまは23歳で、'93年6月9日に結婚した5歳年長の兄、天皇陛下よりも約3年、早い結婚だった。 

 結婚して紀子さまの生活は一変した。車で外出する際、窓越しに街の様子を注意深く眺めているという話を関係者から聞いたことがある。皇室に入り、1人で街を出歩くことはかなわなくなっていた。紀子さまは、書店で書棚から自由に本を取り出して読んでみたいとの希望があると、知人が教えてくれたのも新婚、間もないころの話だ。秋篠宮妃殿下となり、窮屈な日常が続いていた。

 2人が結婚した翌'91年10月23日、長女、眞子さんが生まれた。そして、'94年12月29日、次女、佳子さまが誕生し、家族は4人に増えた。

 私は家族で、木造平屋建てだった秋篠宮邸を訪問したことがある。秋篠宮さまは、当時、2、3歳ぐらいの眞子さんと私の子どもたちの前でギターを弾きながら、「アイアイ、アイアイ、おさるさんだよ……」と、歌ってくれた。

 紀子さまは、佳子さまが生まれた翌'95年秋の記者会見で、「2人それぞれの年齢に応じた基本的な生活習慣、大事な事柄、そして感性を大切にしていけるよう努めております」と、答えている。

 秋篠宮ご夫妻は、外国への公式訪問や国内での公的な活動もあり、多忙な日々が続いていた。時間的、精神的にも余裕がないときは、少しずつ軌道修正しながら、親としての責任を果たしてきた。4人の明るく、楽しい様子はマスコミで大きく取り上げられるなど、順風満帆だった。

41年ぶりの男子・悠仁さま誕生による波紋

皇室では41年ぶりとなる男児・悠仁さまを出産後、退院する紀子さまは満面の笑み

 2006年9月6日。

 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが生まれた。皇室にとっては、秋篠宮さまが生まれて以来、実に41年ぶりとなる男子の誕生で、国民は大きな喜びに満たされた。

 東京都港区の愛育病院に入院していた紀子さまは、胎盤の一部が子宮口をふさぐ「部分前置胎盤」だったため、予定日より約20日早い帝王切開での出産となった。手術室を出た紀子さまを秋篠宮さまが優しく出迎え、「ご苦労さんでした」と夫がねぎらうと、妻は「帰ってまいりました」と、明るく答えた。

 皇室の重要事項を定めた法律である「皇室典範」の第一章第一条には《皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する》と、明記されている。さらに、第九条には《天皇及び皇族は、養子をすることができない》と、定めている。女性皇族は天皇となる資格はなく、結婚と同時に皇籍を離脱し、一般人となってしまう。また、養子をとることもできずに皇室は先細りで、大事な皇位の継承が危ぶまれていた。

 実際に、1965年11月30日、秋篠宮さまが生まれて以来、ほぼ41年もの長い間、皇室には男の子が誕生しなかった。秋篠宮さまの妹、黒田清子さんが'69年4月18日に生まれた後に三笠宮寛仁親王ご夫妻の2人の娘、彬子さまと瑶子さま、さらに、寛仁さまの弟、高円宮憲仁親王ご夫妻の3姉妹、承子さま、典子さん、絢子さんが誕生した。

 続いて、前述したように'91年、秋篠宮ご夫妻の長女である眞子さん、'94年には次女の佳子さまが生まれた。

 そして、2001年12月1日、天皇陛下と皇后雅子さま(当時、皇太子ご夫妻)との間に待望の長女、敬宮愛子さまが生まれたが、ここまで9人も連続して女性ばかりが生まれていた。

 そこで政府はやっと重い腰を上げ、皇室典範改正に向けて本格的に動き出すことになった。

 悠仁さまが生まれる前年の'05年11月に、皇位継承のあり方を検討してきた小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承者を「男系男子」に限るとする皇室典範を見直し、女性天皇と母方だけに天皇の血筋を引く女系天皇を容認した。さらに、皇位継承順位は、男女にかかわらず、天皇の第1子を優先することなどの報告書をまとめ、小泉首相に提出した。当時の政府は、国会での議論などを経て、改正案を成立させる方針だった。

 しかし、これに待ったをかけたのが、紀子さまの懐妊だった。'06年2月、紀子さまが第3子を懐妊したことが判明すると、改正に慎重な意見が増え、政府は通常国会への改正案提出を見送った。そして、同じ年の9月6日、悠仁さまが誕生すると政府は皇室典範改正を断念した。

 あれから20年近くとなるが、政府が女性・女系天皇を認めようとする動きはみられない。

「関心のあることを深めてほしい」ご一家の教育方針

映画『アナと雪の女王』チャリティー上映会を訪れた紀子さま、眞子さん

 秋篠宮家の教育方針は、どのようなものだろうか。まず、男女分け隔てなく子どもを育てる姿勢が一貫している。悠仁さまが生まれた2006年に行われた記者会見で、秋篠宮さまは、「基本的には長女、次女と同じように接するつもりでおります」と、息子への教育姿勢について説明した。このとき、女性皇族の役割については、「私たち(男性皇族)と同じで社会の要請を受けてそれが良いものであれば、その務めを果たしていく。そういうことだと思うんですね。これにつきましては、私は女性皇族、男性皇族という違いはまったくないと思います」と、答えている。

 また、別の記者会見で、秋篠宮さまは、子どもたちに対して、「きちんとした社会生活をできるようになってほしい」「皇族としての立場もおいおい自覚してもらいたい」「自分の関心のあることなどを深めていってくれれば良いと思う」との、教育方針を示したこともある。悠仁さまの筑波大学進学や、姉2人の国際基督教大学(ICU)入学も、自主的に本人たちが決めたらしい。

 '11年3月、東日本大震災が起こった際、栃木県・那須御用邸の職員用温泉風呂を被災者たちに提供した。入浴のためのタオルの袋詰め作業に紀子さまと眞子さん、佳子さまが参加したことがある。秋篠宮さまは「何らかの形で支援活動に関われるといいね」と子どもたちに伝えており、眞子さんと佳子さまが学生ボランティアとして東北の被災地で活動したこともあった。

 この年の10月、眞子さんの成年の記者会見が行われた。

「(略)昔は全般的によく怒る(略)導火線が少々短いところがあったと申しますか。でも、最近はめったなことではすぐには怒らなくなったと思っております」

 と、眞子さんは父親について語っている。

 しかし、この年、5歳となった悠仁さまをあまり叱らないものだから、2人の姉は、弟を指さして、「叱れ、叱れ」と、秋篠宮さまを促すこともあった。

上皇さまが退位。皇位継承順位第1位の「皇嗣」に

秋篠宮さま59歳の誕生日に際して。佳子さまはこの翌月、30歳を迎えた(写真/宮内庁)

「次第に進む身体の衰えを考慮するとき、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」

 2016年8月8日、上皇さま(当時、天皇陛下)は、「社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのようなあり方が望ましいか」についての考えをまとめ、前述したように国民に向けてのビデオメッセージ、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」として発表した。

 当時、82歳の上皇さまは、数年前から高齢による体力面のさまざまな制約を覚えていて、終身天皇を前提とする制度の問題点にふれながら、生前退位の意向を示唆した。翌'17年6月、天皇の退位を実現する特例法が成立し、上皇さまは'19年4月30日に退位し、翌5月1日、新しい天皇陛下が即位した。

 新時代「令和」がスタートしたのである。

 上皇さまの生前退位が認められ、兄が天皇陛下となると、弟の秋篠宮さまは皇位継承順位が第1位の皇嗣となり、悠仁さまは第2位となった。こうした急展開は秋篠宮家にとって、とても大きな出来事だった。

 なぜなら、皇位継承問題は、あくまで、長男である兄、天皇陛下の領域であって、次男の秋篠宮さまは、口を出すべきものでもなかったからである。こうした両親の厳格な教えのもと、秋篠宮さまは育っている。そして、弟としての強い自覚を持っている。一見、自由奔放そうに見えながらも秋篠宮さまは、自分の分限をわきまえ、次男としての分を頑ななまでに守り通して成長した。

 女の子が続けて生まれたことで、秋篠宮さまの周囲で、「早く男の子を」という声が上がったことがある。しかし、それはあくまでも秋篠宮家の後継ぎとしての男子であり、将来、天皇を継承する、というような大それた話ではなかった。

眞子さんの結婚だけではない、バッシングの根本

4度目となる外国公式訪問で、ブラジルに出発する佳子さま。笑顔と人柄が現地の人々を魅了

「私と圭さんの結婚について、さまざまな考え方があることは承知しております。(中略)私にとって圭さんはかけがえのない存在です。そして、私たちにとって結婚は、自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」

 2021年10月26日、眞子さんは大学時代の同級生、小室圭さんと結婚し、皇室を離れた。東京都千代田区のホテルで2人そろって記者会見し、眞子さんは前述のように発言した。'17年5月、NHKが夜のニュースで、眞子さんの婚約内定を特ダネとして報じて以降、結婚までの4年5か月もの間、眞子さんの結婚は迷走を続けた。

 '17年9月、眞子さんたちの婚約内定会見が行われ、順調に進むかに見えた同年末、義母と元婚約者との間の金銭トラブルが発覚し、事態は暗転した。そして、'18年2月、宮内庁が2人の結婚延期を発表した。'18年11月の誕生日会見で秋篠宮さまは、次のように話した。

「(略)2人にも私は伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていること、これについてはきちんと整理をして問題をクリアするということ(が必要)になるかもしれません。そしてそれとともに、やはり多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは、いわゆる婚約にあたる納采の儀というのを行うことはできません(略)」

 秋篠宮さまは、小室家の金銭トラブルの解決と多くの国民に納得し喜んでもらえる状況にならなければ、正式な婚約にあたる納采の儀は行えないと、国民に向かって明言したのである。しかし、最後まで金銭トラブルは解決せず、秋篠宮さまの要望が叶うことはなかった。

《婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する》と謳う憲法に従い、2人の結婚を認めたものの、「多くの人が納得し、喜んでくれる状況」にないことを踏まえた秋篠宮さまは、内親王の結婚に伴う諸儀式を行わないという重い決断を下した。

 また、結婚した2人が天皇、皇后両陛下に挨拶する朝見の儀などを、天皇陛下は認めなかった。内親王が皇籍を離れる際の一時金も、眞子さんの意向で支給されなかった。結婚式も行わない、まさに内親王としては「類例を見ない結婚」(秋篠宮ご夫妻)となったのである。

 現在まで続く、一部の人たちの秋篠宮家へのいわれのない批判や反発などは、眞子さんの結婚をきっかけに始まったと見てよいだろう。しかし、それだけではなかろう。

 119代光格天皇(在位1779~1817年)から、120代仁孝天皇、そして次の孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、さらに、125代の上皇さまから現在の126代天皇陛下まで、天皇の位である皇位は、代々、親子間で受け継がれてきた。

 しかし、今の陛下の次、皇位は弟の秋篠宮さまに移り、その後は悠仁さまなど秋篠宮さまの子孫に継承されていくことになる。これまで8代、200年以上にわたって続いてきた親子継承が途絶え、兄から弟への兄弟継承が行われる。長男の系統から次男の系統に皇位が移動するという「ねじれ」が、秋篠宮家バッシングの根本にあると、私は考えている。

歴史の節目に立つご一家に、待ち受ける未来とは

筑波大学生命環境学群生物学類に進学した、悠仁さま。1年目のキャンパスライフを満喫

 このような日本の歴史の大きな節目を、今、私たちは生きている。こうした自覚を持ち、現実を素直に受け入れる必要に、私たちは迫られているのではなかろうか。そのためにも、天皇陛下や秋篠宮さまの次世代の皇室を担う唯一の皇位継承者である悠仁さまを応援し、国民の力でもっと盛り立てることが大切だ。9人連続して女子ばかり生まれた皇室に、41年ぶりに誕生した男子である。この重みを深く認識し、悠仁さまを大事に育ててほしい。

 もし、悠仁さまが秋篠宮さまと同じく、24歳で結婚して、すぐに男の子が生まれたとしたら、現状の皇位継承などのモヤモヤは速やかに解消されるだろう。悠仁さまの教育や養育を両親任せにするのではなく、国民もわが子のように案じながら、悠仁さまへの助言や声援を、世論という形で反映させてほしい。

 海の向こうのアメリカで、眞子さんの第1子が生まれた。秋篠宮ご夫妻にとっては初孫となる。また、皇族数確保に向け、佳子さまたち女性皇族が、結婚後も皇室に残ることなどについて、国会議員たちは議論を続けている。昨年の誕生日会見で、秋篠宮さまは、皇室制度に関わる発言は控えるとしながら、このように述べた。

「ただ一方で該当する皇族は生身の人間なわけで、その人たちがそれによってどういう状況になるのか、(略)そういう人たちを生活や仕事の面でサポートする宮内庁のしかるべき人たちは、その人たちがどういう考えを持っているかということを理解して、もしくは知っておく必要があるのではないか」

 佳子さまに寄り添って議論を深めてほしい、という娘の幸せを願う父親の真情がとてもよく表れている。

 今年9月6日、悠仁さまの成年式が行われる。成年皇族として、力強く第一歩を踏み出すことになるが、それはまた、秋篠宮ご夫妻にとっての新しいスタートでもある。

 これからもご一家の活躍を、期待を込めて見守りたい。

<取材・文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など。