m.c.A・T

 見事なラップと伸びのあるハイトーンボーカル、誰もが踊りたくなるようなポップナンバー……。DA PUMPをはじめ、若手ミュージシャンたちに“師匠”と慕われているm.c.A・T。現在は音楽プロデューサーの比率が高くなったものの、まだまだ魂は“Bomb A Head”で“ごきげんだぜっ”!!現在の心境を語っていただきました!

エキストラのようなこともやっていました

 『Bomb A Head!(ボンバヘッ)』の衝撃から30年以上、日本の音楽シーンで独自のポジションを築き、DA PUMPのプロデューサーとしても一世を風靡したm.c.A・T。

 そのハイトーンボイスやエネルギッシュな活動は今も変わらない。音楽との出会いから、数々のヒット曲誕生秘話、そして未来への展望まで、貴重な言葉で自身のキャリアを振り返る。

 ステージとの最初の接点は、NHK札幌放送局に勤めていた父の影響だった。

番組制作の現場を見せてもらえる機会が結構あって。児童劇団にも入って、エキストラのようなこともやっていました」(m.c.A・T、以下同)

 しかし、言われたことをやるだけでは物足りず、「自分で何かクリエイティブなことをしたい」という思いが募る。

 中学でフォークギターを手にし、作曲の面白さに目覚めると、高校ではエレキギターに持ち替え、ブラックミュージック、特にファンクの虜になったという。

 教育大学へ進学し教員免許を取得するも、音楽への情熱は抑えきれず、コンテストで頭角を現す。バーの雇われマスターとして生計を立てながら曲を作り続け、応募しては優勝を繰り返し「コンテスト荒らし」と呼ばれるほどの実力を示した。

 その才能が、ミュージシャンの故・中川勝彦さん(タレント・中川翔子の父親)の目に留まる。

『東京で活動したらどう?』という誘いを真に受けて上京しました。一時期自宅に住まわせてもらっていたのですが、中川家の飼い猫が機材におしっこをかけたりして、これはいかんと引っ越すことにしました(笑)

 制作に明け暮れ、自作のデモテープを手にレコード会社を回った。10社中7社から声がかかるなど、その実力は確かだった。

声とジャンルに興味は持たれましたが、『日本語のラップは流行らない』とも言われましたね

 さまざまな選択肢の中から最終的にキティレコードと契約し、本名でデビュー。当時の音楽シーンでは、久保田利伸やバブルガム・ブラザーズ、AMAZONSといった錚々たる面々と交流し、デビュー前からツアーに参加するなど、刺激的な日々を送った。

最初はめちゃくちゃディスられた

 本名での活動は2年ほど続いたが、当時のディレクターと音楽的な方向性で衝突。

まったく売れなかったんで、いつもケンカばっかりでしたね

DAPUMPのメンバーには“師匠”と呼ばれている(右はISSA)

 そのディレクターが去ったことでソロ活動は一時停滞するも、才能はプロデュースの仕事で開花し始める。

 そして1993年、m.c.A・Tとしての代表曲『Bomb A Head!』が誕生する。きっかけは、東映Vシネマのサウンドトラック制作だった。

監督からオープニング曲のイメージとして某有名ミュージシャンの曲を提示されたんですが、もっとブラックミュージックっぽく作ろうと思ってできたのが『Bomb A Head!』なんです

 この曲が当時エイベックスの専務だった松浦勝人氏の耳に留まり、TRFに続く邦楽アーティストとして白羽の矢が立った。

'93年の終わりに出るって言われて、いつジャケット写真撮るのかなって思っていたら、『もうできてるよ』って。見せてもらったら漫画風のイラストだったんですよ(笑)。僕に似ても似つかなくて、企画モノと思われるんじゃないかって

 戸惑いはあったが、この曲の大ヒットがm.c.A・Tの名を世に知らしめることになる。

当時は韻を踏むことがダジャレに聞こえがちだった。だから僕はアクセントとグルーヴで伝えることを重視したんです。最初はめちゃくちゃディスられましたね(笑)。でも先駆者としての自覚もありました。これは主流じゃないかもしれないけど、これで売れればシーンの底上げにもなると思ったんです

 と自身のラップスタイルを振り返る。その言葉どおり、自身が切り開いたスタイルは、後のJ-POPシーンにおけるラップの普及に大きな影響を与えた。

 プロデューサーとしてのm.c.A・Tを語る上で欠かせないのが、ダンスボーカルグループ・DA PUMPの存在だ。

沖縄で僕の曲をカバーしているグループがいるとデモテープを聴かされて、プロデュースしないかと。自分の活動もしながらだから、あのころは本当に忙しかったですね

 彼らのデビューから約4年間、楽曲提供からラップ指導まで全面的にサポートを続けた。

m.c.A・Tだったらいい曲を作ってくれるんじゃないかと

(DA PUMPの)事務所側から『ラップを入れないでくれ』と言われたことがあって。でもみんな僕がいなくなってもリリック(ラップの歌詞)を書けるくらいには教えてるし、彼らがラップをやりたがるんですよ(笑)。

 それでサビにラップがないと成立しない曲『if…』を作ったんですが、カッコよかったので受け入れていただけました」

m.c.A・T伝説のシングルCD

 DA PUMPを国民的グループへと押し上げたが、ある日メンバーから申し出を受ける。

「正月にメンバーと会ったら、急にみんなが正座し始めたんですよ。『自分たちだけでやってみたいです』と。そのときにはもう100曲近く提供してたんで寂しい気持ちもありましたが、お互い休んでまた一緒にやろうと

 いったんはプロデュースを離れるも、メンバーから“師匠”と慕われる深い関係は続き、2009年から再度プロデュースに関わるようになった。その他にも数多くのアーティストに作品を提供してきたが、特に印象深いのがTRFの『Unite! The Night!』だという。

当時、僕とSAMさんは同じマンションに住んでいたんですね。ある日、SAMさんが夜の10時に僕の部屋にやって来て『明日までに曲を作ってくれ』と。なんでも、『新曲の候補がいくつか届いたんだけど、どれもしっくりこない。m.c.A・Tだったらいい曲を作ってくれるんじゃないか』と(笑)。

 『おいおい』って思いましたが、何時までにあればいいか聞いたら『13時』って。でも朝8時くらいにだいたい作って渡しました。SAMさんが気に入ってくれて、それがシングルになったのは本当に忘れられない経験ですね」

 m.c.A・Tの創作意欲は、キャリアを重ねても衰えることはない。数年前、正月に愛犬とじゃれていて転倒し手を骨折。ギターが弾けない状況に陥ったが、サンプリングや新しい機材を駆使してアルバムを完成させた。

手で弾けないからこそ、普段はやらないコード進行や音使いができて、結果的に新しいものが生まれました

 常に新しい音楽や機材、作曲法にアンテナを張り、「若者から教えてもらうのも面白い」と語る。

AI作曲も試しましたが、よくできていると思います。ただ、そこからどう人間的な遊びやオリジナリティーを加えるかが重要ですよね

 近年も精力的に活動し、デビュー30周年記念のアナログ盤リリースや、『「ごきげんだぜっ!」〜Featuring ISSA(DA PUMP)&屋良朝幸』を発表。

 昔の曲でもキーを下げずに歌える。「他のアーティストと歌うときは、彼らに合わせてキーを下げています」というから驚きだ。ライブ活動も活発で、DJと共にクラブで観客と至近距離で盛り上がることも多いという。

求められるのは本当にありがたい

小さい箱だともう囲まれちゃいますね。今でも自分の曲を聴きに来てくれる人がいる。それだけで燃えますよ

m.c.A・Tファーストアルバムのジャケット

 後進の育成にも力を注ぎ、コーラスグループBETCHI'Nや、若手アーティストへの楽曲提供・プロデュースも変わらず手がけている。

 なお、7月5日スタートのドラマ『浅草ラスボスおばあちゃん』(主演:梅沢富美男、フジテレビ系)の主題歌『Pon de SKY, Pon de STAR』(DA PUMP)では、作詞・作曲・編曲を担当している。

「曲を作ったりMVにも出たり。おじさんが何やってるのって感じですけど、求められるのは本当にありがたいですね

 m.c.A・Tの類いまれなる探究心と情熱は尽きることがない。

北海道札幌市生まれ。シンガー・ラッパー、作詞・作曲家、音楽プロデューサー。大学在学中からオリジナル曲でライブを始め、数多くのコンテストで入賞。1993年、m.c.A・Tとしてavex traxより『Bomb A Head!』でデビュー。DA PUMP、AAAなど多くのアーティストに楽曲を提供。現在開催中のDA PUMPのツアー『LIVE DA PUMP 2025 BACK 2 DA UNITY』に音楽監督として参加。

取材・文/高松孟晋