
6月最初の週末、田岡智美さんの姿は代々木公園で開催された、LGBTQ+コミュニティーに関わる多様な人権課題の解決を目指すイベント「Tokyo Pride」にあった。田岡さんが店長を務める男性同性愛者向けの結婚相談所「ブリッジラウンジ」のブースで、パートナーを探す人にサービス内容を懇切丁寧に説明したり、現会員や元会員たちとの再会に顔をほころばせていた。
「私はお相手を探したいという方の相談や話は伺いますが、『“入会してください”と強要した』ことは一度もないんです。始めるか始めないかは本人が決めること。パートナーを見つけて幸せになるには諦めないことが大事ですし、『結婚しない』という選択肢で幸せになる私のような場合もありますから」
ブース内に張られたポスターには《人の数だけ幸せのカタチがある。》という文字が躍る。これは利用者へ向けたキャッチコピーだが、未婚女性で異性愛者である田岡さんが、男性同性愛者向けの結婚相談所で働くようになった人生にもピタリと当てはまる言葉だ。“結婚をしていない”田岡さんが婚活コンサルタントとして活躍するまでには、紆余曲折と試行錯誤があった。
母と離れて暮らした10~20代

現在の仕事を“天職”という田岡さんは1974年2月20日、香川県で生まれた。ひとりっ子の田岡さんが小学校へ上がる前に両親が離婚、母と母方の祖母に育てられた。
「わりとひとりが好きな子どもでしたね。母たちは働いていたので、学校から帰ってきても家にひとりでいるのが当たり前でしたから、寂しいとかもなくて。私は人形遊びが好きで、リカちゃん人形のスカートを自分で縫ったりしていたんです。なので『は~、忙しい忙しい、今日は帰ったら服作って遊ばなきゃ!』みたいな感じで」
地元の公立小学校を卒業後、娘に良い教育を受けさせたいという母の希望で、隣県の愛媛県松山市にある中高一貫の女子校へ。
「寮での生活だったんですが、先輩の湯のみには下級生がサッとお茶を注ぐ、先輩と廊下ですれ違ったら端へよけて元気に挨拶する、どんなに寒くても先輩が入っていればコタツには入れないといった厳しいルールがあって、中学3年間は我慢したものの、高校の3年間もこの生活が続くのは無理だと思って母に頼んで、高校生からは市内の下宿でひとり暮らしを始めました」
誰の目も気にすることがなくなった田岡さんは少々羽目を外して遊びすぎ、母と一緒に学校へ呼び出されながらも高校を卒業。「2年たったら香川へ帰ること」という母との約束で関東地方の短大へ進学する。

「母は愛情や責任感の表れだったのだと思いますが、私の進む道に対して、しっかり方向づけようとしてくれていました。一方の私は親元を離れて自由な10代を過ごしたこともあって、実家に帰るのは嫌だったんですね。でも短大の2年間なんてあっという間に終わってしまって……それで母に相談したところ、四年制大学へ編入できたらあと2年猶予をもらえることになったんです。このときがもう人生で一番勉強したと思います!」
無事に編入試験に合格したのと同時に飲食店でのアルバイトも始めた田岡さんは、卒業後も同じ仕事を続けながら、母と交わしたUターンの約束を引き延ばしていた。
「飲食店の仕事がとても楽しくて、就職せずに働いていたんですが、大学の同級生たちが社会人になって働いているのを見て『このままじゃダメだ』と思って就職活動をしたんです。このときも母から『私が名前を知っている会社なら許す』という条件が出たんですが、なんとかクリアしました」
教育系教材を扱う会社に入社した23歳の田岡さんは、自分に宛てて「3年は絶対辞めるな。何があっても辞めるな」と手紙を書いたという。
「飲食店で働いているときに、いいかげんな人や働かない人、思わぬ人生を歩んでいる人など、いろんな人を見てきたんです。私も勉強してこなかったし、就職活動もやらなかった。そういうだらしなくてズボラなところを自分でわかっていたので、キツかったらすぐに逃げ出しそうだな、と未来の自分を想像できたんですね。
でも社会人になるんだったらちゃんとしないと、と思って手紙を書いたんです。それを思い出しながら頑張りました」
きついノルマを課されながら猛烈に働く日々。そんな中、同じ職場で働く男性との交際が始まった。程なくして同棲、このまま結婚するのかと思った田岡さんだったが、母が理想とする結婚相手の条件にそぐわなかったため猛反対に遭う。
人生で初めて自分で選んだ結婚相談所の仕事

説得しようと香川へ向かった田岡さんだったが、厳格な母は結婚を許さず、逆にUターンを拒み続けていた田岡さんを実家へ留め置いた。結局28歳のときに会社を辞め、母と祖母と暮らすことになってしまう。
「子どものころから無意識に『下の立場の者は上の者に従わなくてはいけない』と刷り込まれていたんでしょうね。だから何か発言したり、上の人の意見を覆したいのなら、それなりの実力をつけて結果を出さないとダメ、という考え方になっていたんだと思います。だから私は母の言うことを聞くことが当たり前でした。母も私も、本当は相手に甘えたり、喜んでほしい気持ちがあった。だけどお互いにそのやり方がよくわからなかったんですね」
香川へ戻って2年、母娘関係は修復されたものの、結婚の許しは出ないまま。田岡さんは逃げるように東京の彼のもとへ戻った。
「この時点で私は30歳。人生どうなっちゃうんだろう、という不安な日々でした。そんなとき久々に友人と会うために外へ出かけようと髪をとかしていたら、ゴッソリ毛が抜けてしまって……よくよく鏡で見てみると円形脱毛症が4か所もあって、髪が全体的に薄くなるくらいまで抜けてしまったんです。元に戻るまでの約半年間、どこへ行くにも帽子をかぶり生活しました。2年間のストレスが一気に出たんでしょうね」
とはいえ仕事を始めたい気持ちもあった田岡さんは、職探しのためパソコンを開いた。結婚が許されない状況が長く続いていたため、結婚にまつわることばかりを検索していたという。そこで見つけたのがウエディングプランナーや結婚式場での仕事だった。
「私の代わりに誰かが幸せになっているところを見たかったんですよね、もう疑似体験ですよ(笑)。それで、誰かの幸せに携わる仕事がしたいと思ってあれこれ検索したところ、『結婚相談所コンサルタント』という仕事が出てきたんです。それまで結婚相談所なんて考えたこともなかったので、『結婚したい人の相談に乗る仕事もあるんだ。結婚したくてもできない私みたいな人がお客さんなら、気持ち超わかる!』と思って、すぐにアポを取って面接に行きました。このときは自分でもビックリするくらい行動が素早かったですね」
念願の結婚相談所で働くことになった田岡さんだが、彼とのすれ違い生活が始まる。
「とにかく仕事が楽しくて、会社からも期待されていて、やっとやりたいことを見つけたという感覚もありました。また自分が頼られる経験がなかったので、その願いに応えたいと奮闘していたんです。そして会員さんが実際に結婚されると『私が人生を変えたんだ!』という、ちょっとおこがましいですけど、誰かの人生の分岐点に立ち会えたという感動があったんです。
ところが私には極端なところがあって、仕事にのめり込んでしまったんですね。それが結果的に、自分の人生に重きを置かなくなってしまったんです」
順調に昇格する田岡さんは会員だけではなく上司の要望にも応え、後輩の育成も担当、出張して研修して……と自分の持ち回りが多くなり、忙しくなっていった。
「これまでの私の人生って、進学も、就職先も、結婚できないことも、言ってみればどれも母の期待に応えようとしていた選択でした。でも結婚相談所のコンサルタントは初めて自分で選択したこと。その仕事が充実していて、楽しくて、自分なりに自分の人生を生きているつもりだったんですが、いつの間にか『誰かのため』が大きくなって、自分がなくなってしまっていたんですね。
会員さんに結婚をすすめていることと反比例して、自分の『結婚したい』という気持ちがいつの間にかなくなってしまった。しかも残業したり休日出勤をする生活が続いて、家事が疎かになって。そのころの私には『家事は女がやること』という呪縛があったので、やってあげられない私はダメな人間、という気持ちがどんどん募っていきました。そんな日が続いて、気づけば『ひとりになりたい』と思うようになっていました」
田岡さんは同棲を解消、彼との別れを決めた。
「結婚したい」が「結婚しなきゃいけない」に

店長に昇格した田岡さんは会社トップが集まる会議に参加するなど活躍していたが、上司たちからは「結婚しないのか?」「早くしないと子どもが産めなくなるぞ」と言われ、会員からも「あなた結婚しているの?」と問われることが多くなった。30代前半の田岡さんは「結婚」という手札がない自分は信用に値しないのでは、と思いつめる。
「それ以降、会員さんに『結婚してるんですか?』と聞かれたら『しています』と言うようにしました。でもそうすると、次に出てくる言葉は『お子さんは?』なんです。でもひとつ嘘をついているので、そのまま『いますよ』と答えると『仕事の間はどこかに預けているの?』と質問が来る。ひとつ逃げても、次の質問が追いかけてくるんです。
こうなってくると、とても楽しかった仕事で何をしていいのかわからなくなってしまって。しかも女性のお客様へ“子どもを望むなら早めに婚活したほうがいい”と言ってきた私に、その年齢が近づいてくる。自分のことを後回しにしている場合ではないのではないか、という思いがどんどん大きくなって、焦っていたんです」
そんなことを考え続けていたある日、仕事帰りの電車でポロポロと涙が流れて、止まらなくなってしまったという。仕事をしたいからと別れたのに、ひとりになったら独り身を責められているような感覚になって、自信を失ってしまった。
さらに彼と別れたことを知った母からは「結婚しないなら香川へ帰ってきなさい」と矢の催促が来ていた。
「結婚すれば今のこのつらさは全部なくなるかなと思ったのが35歳のとき。『結婚したい』と思って始めた仕事が、『結婚しなきゃいけない』に変わってしまっていたんですね。そんなとき久々に同棲していた元彼と会うことになって、お互いに結婚の話になって……好きとかそういう感情はもう全然なかったけれど、『結婚しなきゃいけない』と考えていたことだけで結婚することになって、仕事を辞め、36歳のときに結婚式を挙げました」
反対していた母親は喜んでくれたというが、田岡さんのテンションはまったく上がらないまま、結婚式当日を迎えてしまう。
「よかったね、おめでとうと言ってくれる人に対して『ありがとう』と答えている私は冷めた気持ちで、『母が喜んでくれているからいいか』と思っていました。でもみんな口をそろえたように『今、おいくつ? じゃあ早く子ども産まなきゃね』と子どもの話しかしないんです。結婚したら全部楽になる、と思って逃げてきたはずなのに、ここでもまた次の質問が追いかけてくる。盛り上がっている会場でひとりつらくて……終わってすぐに着替えて、逃げるようにして家へ帰りました」
結局、彼とは籍を入れないまま気持ちがすれ違い、40歳を過ぎたころに再び別れることになった。
結婚を手放してようやく身軽に
職場だった結婚相談所の元社長から紹介された会社での仕事を始め、ひとりの生活にようやく慣れてきたころ、「男性同性愛者向けの結婚相談所で、対応を手伝ってくれないか?」という話が舞い込んでくる。
「元社長の部下が事業を始めるにあたって人を探していたそうで、ある日、喫茶店に呼ばれて『田岡、おまえやってみないか?』と言われたんです。その瞬間、もう本当に何の根拠もないんですけど『ああ、これは人生が変わるんだ!』と感じて、業務内容の詳細は何も知らなかったのに『やります!』と即答したんです。
よく『結婚する運命の相手と初めて会ったときにビビビッときた』という話がありますけど、私のビビビッは人生で今のところこのときだけです(笑)。喫茶店からの帰り道、なぜかすっごいうれしくて、まだ何も始まってないのにワクワクして、フワフワしている自分がいました。
2016年の初め、私が42歳になったばかりの冬の出来事でした」
新宿の大通りから一本入った場所にある小さなマンションの一室で、今では田岡さんが“天職”という男性同性愛者向けの結婚相談所のコンサルタントの仕事が始まった。
「店長兼接客係の私と事務仕事をする社長、そして机と椅子が置いてあるだけのオフィスでした。冬はすきま風が入ってくるので、コートを着込んでいないと寒くて仕方ないようなところで(笑)。でも新しいことが始まるワクワクのほうが大きかったですね」
広告を見てポツポツと訪れる人たちに入会の説明が終わると、お茶を飲みながらいろいろな話をしたことが、今の田岡さんの仕事のベースになっているという。
「結婚相談所で働いた経験はあるけれど、男性同性愛者同士のことは初めてなので、いろいろと知りたい、勉強したいんですとお願いしました。これまでの人生や、嫌だったこと、この先どう歩みたいのか、私との会話の中で不快に感じたことがあるかなど、いろんなことを質問しました。知らない言葉が出てくると『それは何?』と質問をして教えてもらい、メモを取ってからエクセルに打ち込んで、ゲイ用語を頭の中に叩き込んでいました。
初めて知ったので驚くこともたくさんあったのと同時に、これまで私が無意識に『普通』という物差しで考えてきたことで、彼らをどれだけ差別したり、傷つけてきたんだろうと反省しました。そこから『これは社会を変えていかないといけないな……でも私に何ができるんだろう?』という問題を考え始めるようになりました。また私が女性の異性愛者でゲイの方の恋愛対象外なので、男女の結婚相談所でついていたような嘘をつく必要がなく、本音でぶつかれたのも大きかったですね」
心の支えになった会員からの言葉

そこへパートナーを探しにやってきたのが、ユキさんとアキラさんだった。
「田岡さんはこちらのことをよく知ろうとしてくれて、感情でぶつかってきてくれる人。なので『淡々とすすめるだけの婚活サービスではないんだ』と思いました」と言うアキラさんに、ユキさんも「僕はあまりにお見合いがうまくいかなくて気持ちが折れそうになったとき、田岡さんが『そのままでいいんですよ』と言ってくれて、立ち直れました。それがなかったら、アキラとは会えなかったかもしれません」と同調する。
彼らが残した言葉は、今も田岡さんの心の支えになっているという。
「おふたりが成婚されて退会するときに、私を見て『田岡さんは、ずっと僕たちの光でいてね』と言ってくれたんです。それで改めて自分がやっている仕事の重大さを自覚しました。私にできるのは彼らが進むべき道に光を当て、明るいところへ連れていってあげることなんだなと。
この言葉は、何をしたら喜んでもらえるのか、それにはどんなことが必要なのか、と考えて行動するほうに舵を切らせてくれました」
成婚した幸せなふたりや、お見合いがうまくいって一緒に歩く楽しそうな後ろ姿、断られたり失恋して落ち込み、ひとり、道を帰っていく寂しげな背中……彼らを見送った大通りへと続く新宿の細い路地は、田岡さんの原点となった。そんな彼らと接しながら、田岡さんは「普通」についての考えを深めていく。
「親のために結婚しなきゃいけない、女は家のことをやって、産める間に子どもを産まなきゃいけないといった“世間での普通”という小さな箱へぎゅうぎゅうに押し込められてきた私と同じように、彼らもいろいろ悩んできたんだと感じたんです。
もちろん私のこととセクシュアリティーの悩みは違いますが、“普通”から外れてしまう怖さを感じていたのは同じだと思ったんです。それが、私が“結婚”という選択肢を手放すきっかけになりました」
それはある晩のこと。仕事を終えて帰宅している途中、ふと思い立って「私は結婚しない! 子どもも産まない!」と決めたという。
「おそらく心のどこかでずっと考え続けていたことが、突然形になったんでしょうね。でもそうしたら、めっちゃ楽になったんですよ。私は『結婚する、子どもを産む』という、いわゆる“普通”の人ができているタスクがクリアできていなかった。しかもその選択肢を、40歳を超えても捨てることができなかった。それは私にとってめちゃめちゃ重いものでした。親のこと、世間体、普通から外れてしまう怖さ……いろんな重石が心と身体についていたんです。
でも『もうしない!』と決めたら、楽になった。もちろんこれから先、結婚したいと思う人が出てくるかもしれないけど、今の時点ではそうしようと思ったんです」
このころに田岡さんと出会ったのが、婚活するゲイが主人公の『ぼくのはじめてゲイ婚活』(KADOKAWA)というマンガの企画を持ち込んだ編集者の内藤由紀さんだ。
「田岡さんは聞き上手で、この人ならなんでも話せちゃうなと思わせる方。いつもお話が面白いので、いつか田岡さんの本を出したいなと思って、企画を温めていました」
これまでの経験は無駄になっていない
ところが田岡さんが45歳のとき、会社の体制にも変化があり、自分の役割をあらためて見つめ直すことに。
2019年2月、区切りの時期を迎え、会社を離れる決断をした。
「辞めたものの会員様のことも忘れられず、ずっと家に引きこもって、これからどうしよう……と何にもやる気が起きない日々でした」
退職の噂を聞きつけて連絡してきたのが、ユキさんとアキラさんだった。
「おしゃべりしませんかと連絡して、ウチに来てもらったんです。気丈に振る舞っていたけど、自信を喪失していたので、あなたに担当してもらえてよかった、相手の警戒心を解いて、信頼させる力はダントツに持ってるから、と伝えました」(ユキさん)
ほかにも担当していた人たちから連絡があり、無理やりにでも外へ引っ張り出してもらったことで、もう一度やってみようと思えたと田岡さんは笑う。
「この当時、同性愛者向けの結婚相談所はなかったので、『ここしかない!』と面接をしていただけるよう連絡をしました」
5月、晴れて採用となったが、このときは業務委託という形だった。そしてサービス開始に向け忙しく準備する日々を経た7月、期末の社員総会で思いもしなかったことが起きる。
「ブリッジラウンジの部署で働いているのは私だけだったので、スクリーンに業績を映して報告をする仕事は弊社の代表が担当して発表が終わると、スクリーンがパッと切り替わって、画面いっぱいに『田岡さん』という文字が出てきたんです。『えっ、私?』と思った次の瞬間、『社員になってくれますか?』と出て! もうこんなに泣くかというくらい泣いて……この日のことは一生忘れられないです」
以降、店長としてブリッジラウンジをひとりで運営する日々が始まった。タイプや相手への希望も然ることながら、天気の話や休みの日に何をしたといった他愛もない会員との雑談や、その人なりの独自の視点などからヒントを得て、日々マッチングを考えているという。
そうして出会ったユキさんとアキラさんから二人が住む家へ招かれた田岡さんは、箸を贈ろうと思い店へ行ったが、夫婦箸は男性用の箸と女性用の小さい箸がセットになっていて、男性用の箸を二膳選ぶと贈り物用の箱に収めることができず、そのことに「どうして?」と憤ってしまう。結局、店員に無理を言ってなんとかひとつの箱に詰めてもらい、二人にプレゼントしたそうだ。
「田岡さんは僕らのそういう“生きにくいところ”を理解してくれて、一緒に怒って、考えてくれる人なんです」(アキラさん)

世の中で「普通」とされていることに疑問を持ち続けてきた田岡さんは「これまでの経験はすべて今の仕事に生きていて、無駄になっていません。相談をされると『ああ、あのときのことと同じだな』と思えるんです」と言う。その経験から導き出された幸福論は、田岡さん自身の筆によって『素敵なご縁に恵まれて結婚やめました』(KADOKAWA)という一冊の本にまとめられた。編集を担当した内藤さんは「読者の人生に響く本になりました」と、その内容と出版を心から喜ぶ。
現在の仕事で迷ったことは一度もないという田岡さんは、ひとりでも多くの人が正しい知識を得て、誰かが誰かと手をつないで歩いていても、誰も好奇の目で見ない世界になってほしいと願っているという。
「私がこの仕事を始めたころに比べ、同性婚に対しての社会の考え方は変わってきています。なのでこの先、ゲイの方の悩みもまた違った悩みになっていくと思うんですね。私はお客さんと関わりながら人生を終えられたら最高だなと思っているので、お茶を飲みながら『こういうのつらいよね』とか『じゃあ、こうしたほうがいいかもね』という話をしながら、いろいろな悩みを聞いて、価値観をアップデートして、時代に合った相談に応えられるよう、これからも接客を続けていけたら一番いいですね」
世間の“普通”を脱ぎ捨てて軽やかに生きる田岡さんは、人の数だけ幸せがあることを今日も伝え続ける。
<取材・文/成田 全>