
「パスポートには、5年、10年といった一般のものとは別に、外務省の職員などが使用する公用のパスポートがあります。われわれも公用パスポートを使って、容疑者の引き取りを行いました」
そう話すのは、地域防犯や外国人対策など、治安戦略のプロフェッショナルとして活動する小比類巻文隆さん。1993年に警視庁へ入庁すると、2023年まで警部補・国際捜査官として数々の事件に対応。組織犯罪・薬物銃器対策、国際犯罪、秘匿捜査などを専門とする中で、とりわけ「薬物」に関する捜査を主戦場としてきた。
空の上で逮捕!! 国際犯罪者の引き取り手順

覚醒剤の使用、密輸などに関与し、中国で身柄を拘束された容疑者を引き取った際の裏側をこう明かす。
「国際捜査官とはいえ、外国で日本の警察が容疑者を逮捕することはできません。そのため、強制送還という形で日本に送り返すわけですが、容疑者が乗る飛行機が公海(いずれの国の領海にも含まれない海洋)上に入ると、機長がわれわれに教える手順になっています。
容疑者の両腕をがっちりホールドしている私たちにCAさんが近づき、そっと口伝えしてくれる。その瞬間に、手錠をかけて逮捕する」(小比類巻さん、以下同)
あくまで容疑者は、民間航空会社の飛行機に乗せられるという。つまり、一般客に交じって送還されるため、実は犯罪者が同乗していた……なんてこともありえるのだ。日本の空港に到着すると、待ち構えていた日本の警察官が容疑者を連行する。小比類巻さんは何度もその任務を行ったといい、「印象的な出来事があった」と話す。
「中国から到着した容疑者を引き取ると、歩き方が変なんですね。調べてみると、両足ともひざの部分に木をあてがわれていて、ガムテープでグルグル巻きにされていた。『どうしたんだ?』と聞くと、容疑者は『暴れられないようにこうされた』と。苦笑いを浮かべながら、『あいつらとんでもねえよ。早く日本に帰りたかった』とこぼしていた」
凶悪犯罪者すら悩ませる中国の警察、恐るべし。
ミリオンヒットを記録した大物歌手Aが……
「大物芸能人の薬物事件は、社会的反響が大きいため、所轄ではなく警視庁本部が動きます。もっといえば、本部の中でも、芸能人の薬物事件を専門とするエキスパート集団が捜査します」
小比類巻さんは、その部署に所属していたわけではないが、薬物事件に精通していたため、幾度となく応援に駆けつけたという。
「警察独自の捜査過程を通じて得られた情報に加え、芸能関係者や内通者からのタレコミ、さらには噂程度の話から捜査が始まることもある」
覚醒剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された、ミリオンヒットを何度も記録した大物歌手A─その捜査にも小比類巻さんは関わっていたという。
「マスコミがかぎつけていた段階で、Aは所在不明となっていた。私は秘匿捜査を担当しており、都内でAを最初に発見しました。本人が立ち寄ったコンビニに入り、レジで隣に立つなどしましたが、Aはまったく不審に思っていない様子でした。“緊張”や“気負い”といった感情は、相手にも伝わってしまうため、内偵捜査では“無心”でいることが何より大切なんです」
尾行によって関係先を特定したことで、その後、Aは逮捕され、世間を揺るがすことになる。
「私はもともとその歌手のファンだったため、複雑な思いを抱きながら捜査をしていました(苦笑)。芸能人の逮捕は、間違いないという確証を得たうえで逮捕しないといけない。われわれの用語で“感(かん)を取る”というのですが、それを得るまでには、それこそ1か月、2か月と秘匿捜査を行う。チャートのように、YES・NOで判断できるものではないんですね」
例えば尾行を続けていると、周りを気にしたり、目つきが変わったり、雰囲気が変わる日が、突然訪れるという。「容疑者にとって、今日がXデーなのだとわかる」。そう小比類巻さんは語る。
「薬物事件は、毎日何もない日々をいかに丁寧に捜査し続けるかが問われます。それだけに、尾行を続けた大物歌手Aの捜査は印象深いです。復活してライブを見たときは感動しました。このときばかりは、私も一ファンに戻ってしまいました」
警察が有名人を逮捕しないでおく“理由”
2015年、アメリカから国際宅配便で、「オキシコドン」と呼ばれる麻薬成分を含む錠剤を輸入した疑いで逮捕されたトヨタ自動車初の外国人女性役員、ジュリー・アン・ハンプ氏。都内のホテルで滞在中の同氏を逮捕したのが、小比類巻さんだった。
「この事件は、国際的な影響が大きく、上層部との軋轢がありました。指揮官と現場との間で板挟みの状況が起こるなどジレンマを体感した事件でもあった。芸能人の逮捕にもいえることですが、マスコミが大きく取り上げることで、世間の注目も集めます。慎重にならざるを得ない」
その一方で、「警察の活動をアピールする“広報効果”もあるため、上層部はそうした案件を重視する傾向がある」と付言する。
「例えば、危険ドラッグ(RUSH)を所持していた大物歌手Bの事件にも私は関わっていました。容疑は固めていたものの逮捕許可が下りず、そのまま私は異動することに。しばらくしてBは逮捕されますが、タイミングに違和感を覚えたほどです。
あくまで個人的な推測ですが、Bは警察にとって都合のいいタイミングで逮捕されたと感じています」
たしかに、芸能人が薬物で逮捕されると、薬物使用に対して警鐘を鳴らすような宣伝効果があるだろう。そういう意味では、覚醒剤のみならず、危険ドラッグや大麻で捕まる芸能人やミュージシャンは、一種のスケープゴートといえるかもしれない。
「逮捕に至らないだけで、捜査線上に浮上してくる芸能人は少なくない。先ほど説明した“感を取る”に至らなかったケースもあれば、もっと大きな事件─国際的な麻薬組織を追っている場合などは、それどころではなくなる。運がよくて捕まっていない有名人もいるんです」
巧妙に日常に流通している違法薬物
小比類巻さんによると、昨今の薬物の売買交渉はSNSが主流だとか。
「薬物を表す数々の隠語が生まれては消えています。SNSが主流になった今は、取引方法も多種多様になりましたね」
小比類巻さんは、渋谷署、四谷署に籍を置いていた時代、仲間の刑事たちから“守護神”と呼ばれるほど、薬物の取り締まりに対して辣腕を振るっていた。
「毎日誰かしらを逮捕していたくらいです。大麻やコカイン、ありとあらゆる薬物に関係する犯罪が起きていた。路上で売人から薬物を買う事案を“小シャ売”というのですが、例えば2010年くらいの渋谷では、当時いたイラン人が大量に売りさばき、外貨を稼いでいた。昔も今も日本は大きな市場であり、薬物は身近な存在であり続けている」
自分には関係のないことだと思うなかれ。ストレスや不安にさいなまれたとき、想像している以上に薬物は身近にあるということを忘れてはいけない。
「つい先日も、某所で家族と食事をしていたのですが、私たちの向かい側のテーブルで食事をしていた仕事仲間とおぼしき3人組の男性たち。そのうちの一人に、思わず目が留まりました。同僚の他の2人はまったく気がついていないようでしたが、私は長年の経験から、その男性が薬物を使用しているとわかりました。彼だけが、薬物を使用している人間特有の顔つきをしていたのです。
想像以上に、薬物は日常に潜んでいます。知見を生かして、皆さんに伝えていけたらと思っています」

<取材・文/我妻弘崇>