松原のぶえさん 撮影/佐藤靖彦

 腎臓の病気が原因で肺に水がたまり、命をおびやかす状態に陥ってしまった松原のぶえさん。その命を救ったのは家族の愛だった。あれから16年たち、今だから話せる、病気だったときの気持ちその後の人生で学び得たことを話してもらった。

「最悪の場合、命を落としていたかもしれない」と言われ

 身体の奥に潜む“病気の芽”が、気がつかないままひそかに育ち、身体が弱ったときに、突然発症することがある。松原のぶえさんが、腎臓病を発症し、命の危険にまでさらされたときも、突然ではあったが、振り返れば思い当たる節があったという。

今でも覚えているんですが、幼少期に、公園で元気に遊んでいたらプツッと記憶が途切れて。突然倒れたそうなんです。すぐに病院に担ぎ込まれて検査をしたら、腎臓病であることがわかり、2週間くらい入院したんですよ。それからは、母が腎臓に負担をかけないように塩分の少ない食事を作ってくれたりして、すっかり健康に。そこで完治したと思っていたんです

 しかし、歌手になるために上京し、夢が叶い、30周年を迎えようというときに、それは突然やってきた。

きっかけは風邪でした。声が出なくなり、咳をすると息が薬のようなにおいがして。そうこうしているうちに、なんだか息苦しくて横になって眠れなくなってしまったんです。だから枕を抱え、座った状態で寝たりして

 後でわかったことだが、肺に水がたまり、横になると心臓が圧迫されていたそうだ。健康と体力には自信があって、ちょっとくらい体調が悪くても、少し休めば大丈夫だと自分に言い聞かせ、それまで休まず通してきた。

でもね、さすがにおかしいと思って、休みの日に近所のクリニックに行ったんです。そうしたら“すぐに大きな病院で検査したほうがいい”って。なんだかオーバーねと思いながら、その足で指定された病院に行きました。するとお医者さんから“来るのが1日遅かったら、尿毒症で脳に障害が出るか、最悪の場合命を落としていたかもしれない”と言われたんです

 病院の検査を「また今度に」と先延ばしにしていたら、どういうことになっていたのかと考えると、身体が震えた。

 病名は腎臓病。“もうとっくに完治したと思っていたのに、まさか……!”と。しかも、2つある腎臓は、わずか2%しか機能していないことがわかった。そしてその日のうちに入院することになる。

 医師からは人工透析(自分の腎臓の代わりに人工腎臓のフィルターを介して、血液から老廃物や余分な水分を取り除く治療のこと。医療機関に週3回通院し、1回4~5時間を要する)をすすめられる。

弟が「オレが提供するよ」

透析を受けると時間的制約があり、仕事が続けられなくなるという思いがあって、最初は投薬治療を受けたんです。でも何か食べると、身体が受けつけなくて口から噴水のように吐き出してしまうんです。身体中に赤い斑点も現れて。人工透析を受けることにしたんです

16年前、事務所社長であり弟の廣原伸輝さんと。同意してくれた弟と家族には、今でも感謝しかないと松原さんは語る

 地方にいるときも、病院を探して午前中に透析を受け、午後からステージに上がっていた。高音が出づらくなり、呼吸もつらい。それでもステージに立てば病気である様子は見せなかった。

しんどいけれど、そういう身体をつくったのは私ですもの。愚痴れなかったわよ

 先が見えない闘病生活が続いていたある日のこと。歌手仲間の山本譲二さんに斑点だらけの腕を見られてしまう。そして事情を聞いた山本さんがサラッと言った。

『だったらさあ、(家族に)腎臓もらえよ』って。いやいや、そんな簡単なことじゃないのよ。できるわけないじゃないですか、と(笑)。でも話を黙って聞いていた弟が“オレが提供するよ”って言い出したんです。

 担当の先生も移植を受ければ健康になれるとおっしゃってくださったんですが、私は病気なんだから手術を受けるとしても、弟は健康で身体にメスを入れる必要はないんですよ。

 私のために腎臓を取り出すなんて、そんなことをしてもらっていいのか、葛藤がありました。ところが母までが“私の腎臓を”と言い出して、弟いわく、若い僕の腎臓のほうがいいだろうと

 そのときの心境を弟の廣原伸輝さんは、笑いながら話してくれた。

腎臓は2つあって、1つあげるだけですから。抵抗はありませんでしたよ

 松原さんは、手術当日まで悩み、泣きながら“やめてもいいんだよ”と何度も話した。泣く松原さんに向かって、弟が「じゃあね」と手を振ってオペ室に向かった姿が今でも目に焼きついているという。

 39歳で発症し、投薬治療を半年、人工透析を2年続け、42歳で生体腎移植(腎移植は、親族から腎臓を提供してもらう生体腎移植と、亡くなった人から提供してもらう献腎移植がある。健康な身体にメスを入れるよりも、亡くなった方からの移植のほうが望ましいが、日本では生体腎移植が約85%を占めている)を受けた松原さん。

1年でも2年でも長生きをするのが恩返し

 激闘の3年間だったと振り返る。

あのときの自分を“本当によく頑張った”と褒めてあげたい。手術をして2週間でコンサートがあり、そのために退院しました。大きな声を出したら縫ったところが破けてしまうのではないかと不安で、お腹を押さえながら歌ったんです。

 担当の医師も舞台袖で見守ってくださって。お客さまも“お帰り、のぶえちゃん”と声をかけてくださって。弟の腎臓をもらって戻ってこれたって、そう心の底から思いました」

姉弟現在の姿。共に元気で過ごしていきたいと、今でもお互いへの思いやりを欠かさない 撮影/佐藤靖彦

 その後も2か月ごとに、血液検査などを行っているが異常なし。今の心配事を伺うと。

「年齢を重ねていくと、若いころにかかった病気が再発しやすいと聞きました。私は腎臓に爆弾を抱えているのは間違いないから、無理しないで、身体をいたわっていこうと思っています。みんなに支えられて、もらった命だから、1年でも2年でも長生きをするのが恩返しなんじゃないかと思っているの。

 心配なのは弟のこと。私のために腎臓を1つ取ってしまい、もし身体に不調が出てきたらどうしようという不安がいつもあるのね。でも『もらったものは返せない』じゃないですか。

 それぞれが1つしかない腎臓(腎臓が1つになると機能が70~75%くらいになるといわれている。レシピエント=腎臓をもらった側もドナー=提供側も手術後は定期的な検査が望ましい)で生きているから、お互いに節制しないとね

 健康のために気をつけているのはどんなことか。

当たり前だけれど、バランスの良い食事、よく眠ること、そして運動。私はあまり外に出ないので、家にいろんな健康器具があふれています(笑)。窓のとこでは足踏みマシンで20回、トイレの帰りにウエストひねり10回と、ながら体操を意識して。それから、病院で定期的にメンテナンスすることも大切。皆さんも、身体のメンテナンスはちゃんとやってくださいね

取材・文/水口陽子

1961年生まれ、大分県出身。高校生の時に歌手を志して上京。'79年に『おんなの出船』でデビューし、日本レコード大賞をはじめ各歌謡曲賞で新人賞を受賞。'85年から『NHK紅白歌合戦』に7回出場。歌謡指導なども行い、現在はコンサートを中心に活躍中。