タレント・俳優、うつみ宮土理(81)※撮影/近藤陽介

 芸能界には80歳を過ぎても驚くほど若々しく元気な人がいる。うつみ宮土理もその一人だ。舞台で主演を務め、テレビの散歩番組ではゲストを迎えて軽やかな足取りで街を歩く。ニット帽にパーカ、ダンスパンツというヒップホップのファッションをかわいく着こなせる81歳はそうそういない。約60年前の『ロンパールーム』の“先生”のときから変わっていない、チャーミングな笑顔も健在だ。

 10年前、夫の愛川欽也さんを亡くしたときは悲しみに打ちひしがれていたが、2年が過ぎたころから立ち直り、本来のパワフルさを取り戻していった。「同年代の人たちはどうしたのかしらと思うくらい、みんなどこか痛いと言っているし、病気の人や亡くなった人も多いの。だからクラス会もできなくなったわね」と、うつみは嘆く。

 80歳を過ぎても元気でいられる秘訣はどこにあるのだろうか。昭和から平成、令和とテレビ業界を軽やかに駆け抜けてきた、うつみの人生を振り返る。

小4で母を亡くし伯母に育てられる

3歳の七五三のとき

 東京・世田谷の造園業を営む家に生まれ、5人きょうだいの次女として育ったうつみ。同居する姑から母がいじめられているのを見て育ったせいか、幼いころは無口で暗かったという。一家で引っ越しが決まり、ようやく意地悪な姑から解放された矢先、母は突然この世を去った。

「学校から帰ってきたら、母が真夏なのに『寒い、寒い』と言って寝ていて。布団をかけてもガタガタ震えていて、布団の上からも母の熱さが伝わってきました。急いで医者を呼びに行ったけれど、戻ってきたときには母はもう危篤状態でした」と、うつみは悲痛な体験を語る。当時小学4年生だった。

 母が亡くなって家族が呆然とする中、部屋に飛び込んできて、まだ小さかった妹や弟の世話をし、ごはんを作ってくれたのが母の姉である伯母のハナさんだった。

「伯母は夫が戦死し、近くの病院で雑用をして生計を立てていました。『おばちゃんが来たからもう大丈夫』と言ってくれ、それからは困ることなく、普通の生活に戻っていったんです」

 その後、伯母は父と結婚し、自分の一人娘と、うつみを含む5人の子どもの母親となった。暗かったうつみが明るく前向きな性格に変わったのは、この2番目の母のおかげだ。

「母は『小さい声の人は出世しない』という考えで、『ただいま』を大きな声で言う練習も何度もさせられました。そうやって大きな声が出せるようになると、顔つきまで変わって、明るい性格になっていったんです」

中学3年生のころ、登校前

 母から学んだ教えは、今もうつみの道しるべになっている。

「人の役に立つこと、喜んでもらえることをすれば、人生はうまくいく。明るい笑顔は100万ドルの価値があるというのが母の教えでした。何かしてもらったら、ありがとうとお礼のハガキをすぐに出すように言われ、それも守ってきました。今になってみると、母の言うことは何ひとつ間違ってなかったと確信できます」

 褒め上手だった母のおかげで、成績もぐんぐん伸び、大学は実践女子大学の英文科に入学。ところが大学4年生のときに、父ががんで亡くなってしまう。

「家族を支えていかないといけないので、就職先を探し始めました。当時、芥川龍之介の写真のような、ほっそりとした知的な男性に憧れていたんです。新聞社に入れば、ああいう人がいっぱいいるんじゃないかと思って朝日新聞社を受験しました(笑)」

 応募したのは英字雑誌『ディス・イズ・ジャパン』の欠員募集だった。英語を勉強し、大学を首席で卒業したうつみだったが、ハーバード大学を卒業した人も受験する難関だ。そのとき母が「面接官は年配の人が多いから礼儀作法も重視するんじゃないか」とアドバイスをくれたのが功を奏した。

「面接では丁寧に挨拶し、『政治経済は全然わかりません。入ってから勉強します』と正直に答えました。すると『あの子はかわいくて癒される』という理由で採用してもらえたんです」

 そのとき同期として入社したのが、ジャーナリストとして活躍する下村満子だった。うつみは下村のアシスタント的な立場で、お茶くみや掃除がメインの仕事だったが、会社の偉い人たちにかわいがられた。

「テニスに誘われ、3時のおやつに呼ばれ、おじさまたちとの食事でスケジュールが埋まっていきました。高いお寿司屋さんや、有名人が集まるサロン的な場所として有名だった、銀座の『マキシム』などに連れていってもらって、食事のマナーが身についたのもこのころのおかげです。『君は本当においしそうに最後まで食べる』と食べっぷりをみんなが喜んでくれて。若い人には全然モテなかったけど、年上のおじさまたちからはモテモテでした」

ロンパールームの2代目先生として人気者に

『ロンパールーム』のオーディション直後。この後、最終選考に残り、2代目先生になる

 朝日新聞社に勤めてすぐに、子ども向け番組『ロンパールーム』(日本テレビ系)の2代目の先生のオーディション取材を任された。自分もオーディションを受けるという体験取材だったが、最終選考に残っていたのはうつみと2人の美女。「自分が受かるはずがない」とはなから諦め、子どもたちと一緒に『かごめかごめ』を歌って遊んでいたという。

「私は子どもが大好きだから子どもにはなつかれるんです。たまたまその様子を現場で見ていたスポンサーの会長さんが『こういう庶民的な人がいい』と、私を選んでくださって。もうびっくりでした」

 当時からうつみにはキラリと光るものがあったのだろう。タレントになるつもりはまったくなかったが、報酬が高かったことから、新聞社を退社してテレビの仕事を選んだ。弟や妹を大学に行かせたいという思いもあったという。

『ロンパールーム』特番でのシーン。「昔から子どもが大好きだったの。だからとっても楽しかった」

「当時の会社員の一般的な月給は10万円で、『ロンパールーム』の月給は16万円でした。ただし『衣装は全部自分持ち』というのが条件。一度着たブラウスを次の日は前後ろを反対にして着たり、紙をちぎって葉っぱの形にしてブローチにしたりして、お金をかけずに1週間の着回しを工夫しました。このときの経験が、今のおしゃれの基礎になっているのかも」と、うつみは振り返る。

 1966年、『ロンパールーム』のみどり先生として芸能界デビューを果たしたうつみは、「鏡よ鏡よ鏡さん、みんなに会わせてくださいな」というフレーズで一躍テレビの人気者となる。

 しかし、番組とは3年契約だったため、『ロンパールーム』はほどなく卒業に。このときうつみは27歳だったが、当時の芸能界では“おばさん”といわれる年齢だった。

「これからどうやって生きていこうか……」。進路を模索していたところ、バラエティー番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ系)のプロデューサーからスカウトされた。人気番組だったが「絶対レギュラーには入りたくない」と思いながら出演を決めたという。

「セクシーな格好で踊ったりするので、最初はもう恥ずかしくて。でも、どんなことも一生懸命やるタイプなので、司会の大橋巨泉さんと前田武彦さんにかわいがられて、レギュラーで出演するようになったんです」

 そんなうつみの活躍を面白く思わなかった共演者もいたようだ。

「あるとき某女優さんから『あなたってブサイクね』と言われたんです。びっくりしたけれど、踊りの振り付けも覚えないといけないし、泣く暇なんてなかった。すると前田さんが『君はどんなにいじめられてもケロッとしていてえらいね』『ケロッとしているロンパールームの先生だからケロンパだ』と愛称をくださった」

1978年、当時『シャボン玉こんにちは』のコンビ司会をしていた愛川欽也さんと結婚。以降、芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるように

 それからはケロンパとして快進撃が続く。トークバラエティー番組『シャボン玉こんにちは』(TBS系)の司会者に抜擢され、のちに夫となる愛川欽也とともに「キンキン・ケロンパ」として親しまれるように。女優としてドラマや映画にも出演するようになる。

 一方、当時は今よりも20代の独身女性に対して結婚へのプレッシャーが強い時代だ。早く結婚しなければとは思わなかったのだろうか。

「母は戦争で夫を亡くして苦労したので『男はあてにならない』と考えていました。『女性も頑張って一人で食べていけるぐらいの収入を得なさい』といつも言っていて、結婚をせかされるようなことはなかったんです。『自分がときめいているほうを選びなさい。仕事でも男性でも、気持ちは正直だよ』とも教えられました。20代は仕事が楽しかったし、仕事を辞めて結婚したいという人にはまだ出会っていなかったんです」

“二度と出会えない、いい男”愛川欽也との結婚

1978年、当時『シャボン玉こんにちは』のコンビ司会をしていた愛川欽也さんと結婚。以降、芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるように

 そんなうつみが愛川さんとの結婚を発表したのは、36歳のときだ。のちにおしどり夫婦として知られるふたりだが、当時は驚きとともにバッシングにさらされた。入籍したのは愛川さんの離婚が成立した翌日だったからだ。

 このとき愛川さんは「取材は全部自分が引き受けるから、お母さんと一緒に海外にでも行ってきなさい」と告げ、うつみと母親はカナダへ旅行に行くことに。こうしてバッシングから守ってくれたという。

「離婚にあたって財産は前の家族に全部置いてきて、『裸一貫でもう一度人生やり直す』と言ってくれました。母は『そこまでやれるのは立派だ。あれは本当の男だから結婚しても絶対幸せになれる』と結婚を後押ししてくれたんです」

 うつみにとって愛川さんのどんなところが魅力的だったのだろうか。

「キンキンとは笑うツボが同じ。それって一緒に生きていく上で大事ですよね。人を区別、差別しないところも素晴らしかったです。裏方のスタッフを見下すような発言をする人には本気で怒っていましたから。見えないところで努力している人をリスペクトして、裏方さんと一緒に演出の枯れ葉を作ったりしていたのを覚えています」

 美空ひばりさんの母親にも気に入られ、夫婦で自宅に遊びに行ったこともある。

「ひばりさんは『シャボン玉こんにちは』に何度も出演してくれて、時にはお母さんとともに登場してくださったりもしました。キンキンが、お母さんが持ってきてくれた手作りの塩辛を生放送直前に『おいしい』『世界一だ』ってパクパク食べるものだから、隣の私は時間が押すことにヒヤヒヤしたことも(笑)。でもそんな心の温かさが最大の魅力でした」

 おしゃれなうつみだが、愛川さんはファッションにこだわるのを嫌がったという。

「ワイシャツが古くなったから注文してあげると、『そんなのは着ない。まだ着られるからこれでいいんだ』って、ボロボロのものを着てるんです。ブランドの服で固めることは頑なに拒んでいました」

 2009年に誕生した「中目黒キンケロ・シアター」は、愛川さんがうつみのために建ててくれたものだ。

「私が歌うのが好きだからと知らない間に建ててくれて、稽古場もつくってくれました。この劇場は長時間座っても腰が痛くならないよう、座席は飛行機のファーストクラスと同じ椅子を使っています。最前列と舞台の間は車椅子が通りやすいよう広くとっているのもキンキンの優しさですね。つくづくキンキンは人生で二度と出会えない、いい男だったと思います」

 母が亡くなった後、愛川さんがうつみには内緒で、母に毎月お小遣いを渡していたことも知った。

「そのお金に母は手をつけず、私の名義で貯金をしていたんです。愛にあふれた人たちでした」

 愛川さんが肺がんで亡くなったのは2015年。80歳だった。周囲には病気のことを知らせず、本人の希望により、入院はせず在宅で治療を続けてきた。

「仕事が大好きだったから、息を引き取る直前まで『仕事に行こう』とうわ言のように言っていて。キンキンがいなくなるなんて考えられなくて、1、2年間はほとんど記憶がないです」

 うつみとも愛川さんとも仕事をしてきた俳優の東てる美は、2人の関係を「愛川さんがうつみさんの手のひらで転がされている感じだった」と語る。

「妻のために劇場までつくれる人なんてなかなかいませんよ。おしどり夫婦だったから、愛川さんが亡くなったときは、うつみさんに声をかけられるような状態ではなく、心配しました。今は舞台もご一緒させていただき、お元気になられて本当によかったです」

 うつみと東は実は中学・高校の先輩後輩にあたる。

「普段はテレビのイメージの明るさや元気さよりも、知的でスマートな印象のほうが強いです。舞台の長いセリフや歌を覚えるのも、相当努力されていると思いますよ。愛川さんとともに平和を愛していて、『戦争がテーマの舞台は苦しくてできない』とおっしゃったのを覚えています」

韓国ドラマにハマり64歳で語学留学

「キンキンは、私のために劇場をつくってくれたの。本当にいい男だったよね」(うつみ)

 マルチな活躍を続けてきたうつみは、小説家としてもデビューしている。

「もともと文章を書くのが好きで小説を10冊ほど出しました。でも才能の限界を感じて、今は書いていないんです」

 とはいえ、芸能界を舞台にした生々しいストーリーの作品には定評があり、ファンも多い。例えば『紐育マサオ』はエイズで亡くなった実在のヘアメイクアーティストが主人公。『晩鐘』は落ちぶれた女優がのし上がる話で、荻野目慶子が主演の昼ドラの原案にもなった。43歳のときには自らがメソッドを考案した美容本『カチンカチン体操』が100万部を超えるベストセラーとなり話題に。

「カチンカチン体操は今も続けています。寝る前に今日はウエストが1センチぐらい太ったなと思うと、体操をして元に戻すんです」

 うつみの好奇心はとどまるところを知らず、64歳のときには韓国に語学留学をして、世間を驚かせた。きっかけは大ヒットドラマ『冬のソナタ』のヨン様(ペ・ヨンジュン)だ。

「友人にすすめられて『冬ソナ』を見たら、もうヨン様のとりこに(笑)。生まれて初めて芸能人に憧れました。ご本人に会えることがあれば、韓国語で思いを伝えたいと考えて、次の日に語学スクールの韓国語教室のレッスンを申し込み、さらに個人授業まで受けました」

 しかし、「一刻も早く韓国語を身につけてヨン様に会いたい」と思いが募ったうつみは、日本を飛び出し、3か月の語学留学を決断した。

「すべてのレギュラー番組を降板したので、周りからは『そこまでする?』と驚かれました。でもキンキンは『まだ勉強するなんてえらいね』と応援して送り出してくれたんです。

 ソウルの慶熙大学で午前中は学び、午後からは個人レッスンを受け、韓国語漬け生活を3か月。すると会話が理解できるまでになれました。60代になっても語学が習得できたことがうれしかったです」

 その後、ヨン様と会う機会に恵まれ、韓国語で挨拶をするという夢を叶えることができた。時代とともに推しは変遷し、チャン・ドンゴン、イ・ビョンホン、コン・ユ、パク・ソジュンを経て、今はチョ・スンウにハマっている。9月にチョ・スンウの舞台『ハムレット』を見に韓国を訪れる予定だ。

 さらに日本にも推しが2人いる。一人は演歌歌手の吉幾三、もう一人は落語家の春風亭一之輔だ。

「吉さんは歌がうまいだけでなく、舞台がすごく楽しくて。キンキンと相通じる温かさを感じます。春風亭一之輔さんは顔が父にそっくり。追っかけとして落語会に行って、毎回、一緒に写真を撮ってもらってます」

 一之輔はうつみが自身のファンであることをどう思っているのだろうか。

「年は離れていますけど、変に持ち上げたりせず、いじったりして、ぞんざいに扱うところが気に入られているんですかねえ?『うるさいなあ』とか普通に言いますから(笑)。うつみさんも『もうちょっとファンを大切にしなさいよ』と言いながら帰っていきますが、そういうやりとりがラクなのかもしれません。毎回、寄席に来てくださるので最初はびっくりしましたが、終わった後にいつもメールで感想を送ってくださって。子どものころから見ていた方にそこまでしてもらえて、ありがたい限りです」

 中目黒キンケロ・シアターにも落語家として登壇している一之輔。うつみは仕事の顔とプライベートの顔は違うのだろうか。

「まったく同じ。いつも自由で元気でテンション高いです。ちょっと変わったほうがいいんじゃないかと思うくらい(笑)。もう根っからおしゃべりが好きなんでしょうね。80を過ぎたら、誰しもくたびれてくるのが普通ですが、うつみさんは疲れを知らないからすごい。洋服も派手だし、憎めない方ですよね。35歳下の僕のほうが元気をもらっているくらいです」

美肌の秘訣は1時間のスキンケア

1978年、当時『シャボン玉こんにちは』のコンビ司会をしていた愛川欽也さんと結婚。以降、芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるように

 誰が見ても元気なうつみだが、スリムな体形と美肌を保っていることでも知られる。しかし、愛川さんが亡くなって1年間は食事もきちんととれなかったという。体重は45キロから37キロにまで落ち、周囲からも心配された。

「そんな私を見かねたマネージャーが、毎日おいしい料理を作ってくれるようになり、そこからだんだん元気を取り戻していったんです。『カミさんが暗いのは好きじゃない』というキンキンの言葉も思い出して、前向きに生きようと決意しました」

 今もインスタグラムに栄養バランスのとれた料理がたびたび掲載されているが、それはマネージャーが作ってくれたものだ。

「古い油は酸化して身体にもサビをつくるそうなので、新しい油を使ってもらっています。メインは野菜ですが、お肉は肌をピンとさせるためにも大事だし、歌うときにお腹に力を入れるためにも必要。1日に150グラムくらいは食べるようにしています」

 普段はあまりメイクをしないといううつみ。シワやたるみ、シミが少ないため隠す必要がないのだろう。1日の美容ルーティンを教えてもらった。

「毎朝5時に起きて、化粧水とUVクリームをしっかり塗った後、近くの公園でラジオ体操に参加。雨の日でも行くんです。体操が終わったら、近くのコンビニでコーヒーを飲みながら仲間とおしゃべりするのが日課です。みんな血圧が高いとか、どうしたら痩せられるの?って言いながら、あんパンを食べてます(笑)。楽しいですよ」

 家に帰ったらすぐに洗顔をして、汗や汚れを落とし、再度、スキンケアを実施。さらに夜のスキンケアにはたっぷり1時間をかける。信頼できる化粧品を選び、毎日時間をかけてスキンケアを続けることが大事だという。

「何もしないのは肌がかわいそうなので、いたわってあげないと。ただ、痛いのはダメ。だから美容整形はしません。夜はクレンジングでお化粧を落としてから、石けんを泡立てて洗います。それから化粧水をしっかりしみ込ませて、美容液、栄養クリーム、オイルをつけます。

 それぞれの過程ごとにゆっくりと手で浸透させていくから、スキンケアが全部終わるまで1時間くらいかかってしまう。最近はまつげ美容液でまつげを育てるという工程も追加しました。寝る直前には大きな口を開けて『あいうえおかきくけこ』と顔の体操も忘れません。首のシワ対策にもなりますよ」

舞台に立つとキンキンの姿が見える

 現在も中目黒キンケロ・シアターでの舞台、テレビ番組、YouTubeと勢力的に活動しているうつみ。劇団キンキン塾生は7人で、週1回、うつみが歌唱指導などを行い、塾生と自主公演やコンサートを行っている。

「キンキンが亡くなった直後は劇場にいると思い出してつらくて、手放すことも考えました。でもここはキンキンのこだわりがつまった場所。だから公演を行って、この劇場を守っていくことは、つくってくれたキンキンへの恩返し。舞台に立つと、今もキンキンがいつもの席で座って観ている姿が見えます。うれしそうな顔をしてね」

 中目黒キンケロ・シアターでは、うつみが主演する舞台“豆子シリーズ”も人気だ。「世の中が少しでも明るくなれば」という願いを込め、笑いあり、昭和の歌ありのコメディーで、ホロリとさせられる場面もある。“豆子シリーズ”ではセーラー服姿も披露し、今年も10月に公演予定だ。

「この私が17歳の設定です。スケバン役の東てる美さんと、正木慎也さんが演じる男子高校生を取り合ったりして、楽しいストーリーになっているので、ぜひ見に来てください」

 1日2回公演のときは5時間立ちっぱなしだ。81歳という年齢を考えると驚異的な体力である。

「人間ドックの結果は毎回まったく問題なし。風邪もひかないから医者にも驚かれるんです。どこに行っても『どうしてそんなに元気なの?』って聞かれますが、元気は自分でつくるもの。嫌なこと、やりたくないことはしない。楽しいことだけをすればいいんです。朝起きたときも『今日も楽しいことが待っている!』と思い込んで起きるんですよ」

 これまで大きな病気をすることもなく、あふれる才能で芸能界の荒波を軽やかに渡ってきたうつみ。

「確かに私はツイていたと思うし、亡くなった両親が守ってくれているのも感じます。でも運命は歩いてこないし、恐れずにいろんなことに挑戦したから今があるんじゃないかな。そして真っすぐ生きていれば、必ず誰かが見てくれていて、引き上げてくれるというのは本当です」

 今年から始まったBS11のテレビ番組『ケロンパの ナカメへおいでよ!』では、うつみがゲストに愛川さんとともに過ごした中目黒を案内している。うつみは主題歌も歌っており、軽妙なトークが楽しい。

「黒柳徹子さんは91歳でしょ。私も90歳を過ぎても舞台に立てそうな気がする」

 いくつになっても前向きなうつみが今日も周りを元気にしている。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、'02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。