林家三平 撮影/山田智絵

 戦後80年。昭和ならば100年。今年は日本を語るうえで、重要な年だといえる。戦争とはなんだったのか。そして昭和という時代とは─。噺家として生まれ変わり、“爆笑王”と呼ばれた男の実像を、戦争の語り部を請け負った息子が今、語る。

初代の生誕百年という節目の年

「初代林家三平こと海老名泰一郎は、塹壕の中で、一度死んだのだと思います」

 そう神妙な面持ちで語るのは、「昭和の爆笑王」と呼ばれた父を持ち、現在は“二代目”として高座に上がる林家三平さん。2025年は、初代の生誕百年という節目の年。

 浅草演芸ホールで行われた記念興行(6月11日~20日)は、初代とゆかりのある多士済々が集い、観客を笑いの渦に巻き込む─初代の人柄が想像できる、明るさに満ちた空間だった。

 初代林家三平は、泣く子も黙る大スターだった。立川談志が参議院選挙に立候補した1971年。応援演説に駆けつけた初代は、選挙カーの上に立って笑いを交えながら、「談志を国政に!」と演説した。

 見事、談志は当選。このとき、誤って「三平」と書かれた票が48票あったという。それほどまでに、初代林家三平は人々の心をつかんでいた。

 太陽のような存在。しかし、「林家三平として生まれ変わるしかなかった。父の明るさの裏側には戦争体験がある」と三平さんは言う。初代は20歳のとき、本土決戦部隊として陸軍に徴兵されると、肉弾特攻を命じられる。

 だが、そうした暗い話は、家族はおろか誰にも話さなかったという。ゆっくりと、三平さんが口を開く。

2014年に放送された『昭和偉人伝』(BS朝日)という番組で、初代林家三平を取り上げることになりました。番組の中で、初代の足跡をたどっていったのですが、そのとき初めて、語られてこなかった父の過去と、私は向き合うことになりました」(三平さん、以下同)

 番組の制作途中で、一本のVTRが見つかった。

兵隊として戦争を体験したことがある有名人を呼んで話を聞くという番組でした。その中のゲストの一人として父が登場していた。そこには、父の上司にあたる当時の班長も同席していました

 番組の中で、栄三郎青年(泰一郎に改名前の名前)が金沢歩兵連隊の重機関銃部隊に所属していたことがわかった。本土決戦が始まるかもしれないということで、千葉県の九十九里に向かうことになった。

父である七代林家正蔵に入門

列車で向かったのですが、何かを隠すように片側だけカーテンが閉じられていた。大空襲によって焼け野原になった東京が見えないように……士気が下がらないようにしていたんですね

初代林家三平さんこと海老名泰一郎さん

 九十九里に着くと、栄三郎青年はひたすら塹壕とトンネルを造らされた。少し前に行われた「硫黄島の戦い」では、18キロにも及ぶ地下壕が掘られていたが、九十九里の海岸線にも同様の地下壕を造ろうというわけである。

三八式歩兵銃が支給されたものの、一小隊に一丁。しかも、弾は8発だけ。支給されるご飯も、家畜のエサ。近くの農家が見かねて、ジャガイモをくれたそうです

 絶望的状況─。「来たるべきときが来たら肉弾特攻せよ」。上官から冷たく告げられると、掘り進める塹壕の中で、死を待つ以外に選択肢はなかった。

“神風特攻隊”と呼ばれた海軍の特攻隊と違って、父が属していた陸軍の特攻隊は海岸線に上陸してきた敵兵に向かって、爆弾を抱えて自爆するという役割でした。『海軍がうらやましい』と漏らす兵士もいたといいます。愚かな話ですよね

 1945年、栄三郎青年とは異なる形で、戦争の悲惨さに直面していた女性がいた。3月9日夜から翌日未明まで続いた東京大空襲によって、父、母、祖母、兄弟ら6人の家族を失い戦争孤児となった、後に初代林家三平の妻となる海老名香葉子さんだ。

父とは違い、母は戦争の悲惨さを僕たち家族に伝える人でした。毎年3月9日になると、母の家族を含め大勢の人が亡くなった中和小学校、弥勒寺、被服廠(跡地)へ行って手を合わせ、最後に天丼を食べて帰るというのが、わが家の習わしでした

 香葉子さんは、疎開先の沼津にいたため大空襲を免れることができた。東京の空が真っ赤に焼ける光景を、当時小学5年生だった彼女は、沼津の山から見つめていた。

 4日後、一人生き残ったすぐ上の兄・喜三郎さんが沼津を訪れ、事実を伝えたという。香葉子さんの胸中は想像を絶する。

 栄三郎青年は塹壕の中で、香葉子さんは新たな疎開先である石川県穴水町で、8月15日の終戦を知った。

 復員した栄三郎青年は、父である七代林家正蔵に入門し、東宝名人会で「林家三平」と名乗るようになる。一方、戦争孤児となった香葉子さんは家族の幻影を求め、上京を決意する。

 香葉子さんの実家は、東京・本所にある「竿忠」という明治から続く伝統技法を受け継ぐ、釣竿師の家だった。店には名の通った有名人も通い、歌舞伎役者、落語家、講釈師らが出入りしていたという。

父と母は戦争によって巡り合った

 だが、久しぶりに訪れた生家は、焼け跡に金庫が立っているだけ。その後、親戚、知人の家を転々とする生活が続くが、下町の風に後ろ髪を引かれた。しばらくして、「竿忠」を訪れると、小さな立札を見つける。

海老名香葉子さん 撮影/山田智絵

《金馬来る、連絡乞う》

 戦前、店に足しげく通っていた釣り好きの落語家・三遊亭金馬師匠からのメッセージだった。金馬師匠を訪ねると、「竿忠の娘が生きていたのか」と歓迎された。

「自分の娘のようにかわいがってくれた」。そう香葉子さんは、著書『ことしの牡丹はよい牡丹』の中で振り返っている。このとき、金馬師匠のもとに稽古に来ていたのが、初代林家三平だった。

皮肉なもので、父と母は戦争によって巡り合った

 まるで初代が乗り移ったかのように、頭をかきながら三平さんが微苦笑する。

父は、まったく戦争のことを語らなかったですが、母に対しては、『みんなの前で語んなさい』と後押ししていました。『戦災孤児である香葉子だからこそ伝えられることがある』って

 子ども心に三平さんが覚えていることがあるという。

3月9日に中和小学校で手を合わせていると、『ここで何かあったんですか?』と尋ねてきた人がいました。まだ戦争から30年くらいしかたっていないのに風化していくんですね

 広島の原爆ドーム、長崎の平和祈念像、沖縄のひめゆりの塔など、地方の都市には戦争で命を奪われた一般市民のための供養の場がある。しかし、東京にはなかった。

 一夜にして、死者約10万人、罹災者約100万人以上ともいわれる甚大な戦災にもかかわらず、である。

 2005年、戦後から60年たって、東京大空襲の犠牲者を追悼する2つの碑が建てられた。一つは、寛永寺敷地内の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」、もう一つが上野公園内の記念母子像「時忘れじの塔」。

 どちらも私財を投じ、香葉子さんが有志の協力を得ながら、個人で建立したものだった。

生涯の、悲願でしたから。絶対に無理だといわれていたんです。だから、まるで奇跡が起きたみたいで」─。

 2005年に掲載された、週刊女性「人間ドキュメント」内で香葉子さんは、万感の思いを語っている。政治上、宗教上の理由から、東京都から頑なに拒否され続けたとも。

ここで海老名泰一郎は死んだ

戦時中の写真を見ることさえ怖かった時期もありました。でも、そんな苦しさを乗り越えてでも、残していかなければいけないものがあると思ったんです。夫の亡き後、それが私の役割だと」(香葉子さん)

「海老名栄三郎」が入隊したころの写真

 言葉だけでは伝わらないものがある。形にして、初めて残るものがある。91歳になった香葉子さんは、今も戦争の醜さを伝え続けている。

『昭和偉人伝』の収録中、僕は実際に九十九里へ行き、1.5メートルほどの深さのタコツボ壕を、父と同じように掘ってみました。目を閉じて、何を感じていたのか想像してみた。そのとき、ここで海老名泰一郎は死んだのだとわかった

 初代林家三平は、1980年、肝臓がんによって54年の生涯を閉じる。「生まれてから20歳までは海老名栄三郎として生き、21歳から54歳までは林家三平として生きた」。そう三平さんは思索する。

父は、おとなしい少年で、学生時代もフランス文学を愛し、シャンソンを聴くような青年だったそうです。『こんなおとなしい子は噺家には向いていない』とも言われていたと聞きます。海老名泰一郎は穴の中で戦死し、這い上がって林家三平として生きる決断をした。焼け野原の中で、それまでの自分とは違う、新しい自分を描かないと生きていけないと思ったんでしょうね

 落語家は、真打になったときなど区切りを迎えると、改名することが珍しくない。

 父・正蔵の名を継ぐこともできた。だが、初代は頑として、生涯「林家三平」を名乗り続ける。名を変えなかったのは、「林家三平」として蘇ったことに対する矜持があったからかもしれない。

終戦を迎えたとき、一度中身を天日干しにするくらいカラにした。戦後は、林家三平という新しい器にまったく違うものを入れていく作業だった。その覚悟は、すさまじいものだったと思います

 だからこそ、新しいメディアであるテレビに順応し、時代の寵児になりえたのではないか─。

父は切り替えの達人でした。家に帰ってきて、お稲荷さんの前で手を叩くと、『イヤなことは忘れた!』って切り替えていた。開き直りともいえる(笑)

 初代の代名詞ともいえる「どうもすいません」は、落語を話している最中に言葉に詰まった際、「どうもすいません」とワンクッション入れて、場を和ませていたことに由来する。

 噺家としてはあるまじき行為だが、いつしかそれを逆手に取って、ギャグにしてしまった。「開き直りにもほどがある」、そう三平さんは破顔する。

父は誰かをばかにするような笑いは一切しませんでした。きっとそれは、戦争を通じて嫌というほど、人間の醜い部分を見てきたからだと思うんですね。まだご存命だった班長が教えてくれたのですが、『肉弾特攻せよ』と命じられたにもかかわらず、肝心の爆弾が届かない。ようやく届いたと思って箱を開けたら空っぽ。いいかげんすぎて、人の命を何だと思っているんだと呆れたそうです

 明日、死ぬかもしれないというのに、足の引っ張り合いは日常茶飯事だった。たばこ一本をめぐって、殴り合いになった。

死ぬ間際まで芸人であり続けた

底辺の戦争があった。父は、その最中にいた。生前、父は私たち家族に、『明るく、元気に、一生懸命』という言葉を残して旅立ちましたが、戦争で『暗く、弱く、適当』な経験を嫌というほど味わったから、真逆の価値観を見いだしたんでしょう

 50代半ばで早世した初代林家三平は、最期のとき、混濁する意識の中で、こう答えたという。

医師「しっかりしてください。あなたのお名前は?」

三平「加山雄三です」

初代林家三平さんの等身大パネル 撮影/山田智絵

 死ぬ間際まで、芸人であり続けた。初代を敬愛し続けた立川談志は、「落語とは業の肯定である」と説いたが、初代林家三平はその体現者に違いない。

二代目を継いだ私は、父の生きざまと母の思いを伝えていかないといけない。当時を生きた人が少なくなっても、戦争の悲惨さを伝えていくことはできます。昔であれば、『東京大空襲』を調べようと思ったら図書館に行かなければいけなかったけど、今は関心さえあればすぐに調べられる。だからこそ、あの時代、日本で起こったことを当時の言葉で伝えていかなければいけないと思うんですね

 現在、三平さんは父が亡くなった年齢─54歳になった。果たすべき役割は大きい。初代を思わせる、人懐っこい笑顔で襟を正した。

林家三平と海老名家の年表

1925年(大正14年)
11月30日 初代・林家三平誕生。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸で、七代目柳家小三治(後の七代目林家正蔵)の長男、海老名栄三郎として誕生。

1933年(昭和8年)
10月6日 香葉子さん誕生。東京市本所区竪川町(現在の東京都墨田区立川3丁目)で、釣り竿の名匠「竿忠」の家に、中根嘉代子(本名)として誕生。祖母、父、母、3人の兄、そして8歳離れた弟との8人家族で、にぎやかに暮らしていた。

1938年(昭和13年)
栄三郎、旧制明治中学入学。

1939年(昭和14年)
栄三郎、同人誌『黎明』を作る。友人とともに芸大教授にバイオリンを師事する。

1940年(昭和15年)ごろ
日本が戦争に突入し、香葉子さんの家族の生活も戦争の影響を受け始めるように。

1941年(昭和16年)
12月8日 太平洋戦争が開戦。ラジオ放送を聴いた香葉子さんの兄たちは、「バンザイ!」と声を張り上げたという。

1943年(昭和18年)
栄三郎、旧制明治中学卒業後、明治大学商学部入学。
1944年(昭和19年)
3月 栄三郎、出征。猿田駐屯工兵隊陸軍歩兵兵長に。
6月 香葉子さんの母方の伯父(母の兄)がニューギニアで戦死したことが知らされる。

「どんなときでも笑顔でいるのよ」

7月 戦火が激しくなる中、静岡県沼津市の叔母の家へ学童疎開。疎開の際、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、どんなときでも笑顔でいるのよ」という励ましの言葉を受ける。

初代林家三平さんこと海老名泰一郎さん

1945年(昭和20年)
3月 栄三郎、本土決戦部隊として肉弾特攻を命じられる。
3月10日 東京大空襲が発生。香葉子さんは東京にいた父、母、祖母、長兄、次兄、弟の家族6人を亡くす。その4日後、生き残った三兄の喜三郎さんが香葉子さんの沼津の疎開先を訪ね、家族の死を伝える。香葉子さんは11歳で戦争孤児となる。
5月25日 B29空襲で根岸の家が被災。
6月 香葉子さん、疎開先の叔母家族と共に石川県穴水町に移り住む。
8月15日 終戦。
10月 栄三郎、復員。香葉子さん、東京へ戻るも、焼け野原になった街を見て愕然とする。その後、親戚の家を転々としながら苦しい日々を過ごす。

1946年(昭和21年)
2月 栄三郎、東宝専属であった父・正蔵に入門し、東宝名人会の前座となる。父の前座名である「柳家三平」をもらい、「林家三平」と名づけられ、この名を生涯名乗り続ける。
4月 初代三平、父親の独演会で初高座を務める。

1947年(昭和22年)
秋ごろ 東宝名人会において二つ目に昇進。

1949年(昭和24年)
10月26日 父・正蔵が54歳で死去。
11月20日 妹・千恵が20歳で死去。
初代三平、父の死を機に本名を泰一郎と改名。かつて父の弟子であった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移り、落語協会に所属し改めて前座からやり直す。

1950年(昭和25年)
香葉子さん16歳。生前父と親交のあった三代目三遊亭金馬に引き取られ、世話になるように。

1951年(昭和26年)
3月 初代三平、再び二つ目に昇進。
1952年(昭和27年)
三遊亭金馬の家を訪れた初代三平の母が香葉子さんを気に入ったことがきっかけで、初代三平と香葉子さん結婚。
初代三平は26歳、香葉子さんは18歳だった。
1953年(昭和28年)
2月14日 長女・美どりさんが誕生。

1954年(昭和29年)
海老名家、電話を設ける。
初代三平、ラジオ番組『浪曲学校』(文化放送)の司会に抜擢される。

1955年(昭和30年)
海老名家、東芝10インチのテレビを買う。
初代三平、テレビ番組『新人落語会』(KRテレビ※現在のTBS)の司会者に。その後、文化放送、ニッポン放送と、続々レギュラーが決まる。初代三平、テレビの普及とともに落語界の異端児としてブームを巻き起こし、「テレビ時代の申し子」「爆笑王」として一躍スターに。

1957年(昭和32年)
テイチクから石原裕次郎、三波春夫、林家三平の三羽ガラスでデビュー。
10月 初代三平、二つ目の身分のまま、上野鈴本演芸場で主任(トリ)を務めるという異例の活躍を見せる。
11月 初代三平、松竹映画『恋して愛して喧嘩して』で映画初出演。

神風タレント第1号と呼ばれるように

1958年(昭和33年)
2月 林家こん平、15歳で入門。
10月 初代三平、真打に昇進。真打披露興行はKRテレビで生中継され、この際も「林家三平」の名を貫く。その後6か所の演芸場で10日間ずつの披露公演を行う。これを機に、週刊誌誌上にて妻子がいたことも公表した。

初代林家三平さんの衣装 撮影/山田智絵

1960年(昭和35年)
初代三平、その人気ぶりから「神風タレント第1号」と呼ばれるようになる。初代三平、正月の3が日でテレビ・ラジオ出演が108回。

1月17日 次女・泰葉さんが誕生。

1962年(昭和37年)
12月1日 長男・泰孝(後の九代林家正蔵)が誕生。

1965年(昭和40年)
初代三平、『踊って歌って大合戦』(日本テレビ系)の司会を務める。第1回の視聴率は30.6%。

1967年(昭和42年)
4月 海老名家、家を新築。内弟子を含め23人の大所帯に。

1968年(昭和43年)
初代三平、落語協会理事に就任。

1970年(昭和45年)
12月11日 次男・泰助(後の二代林家三平)が誕生。

1972年(昭和47年)
香葉子さん(38歳)が心筋梗塞で倒れて入院。夫の初代三平が多忙な中でも毎日見舞いに来てくれたことに優しさを感じ、噺家としての夫の出世を支えることが自身の生きがいとなる。

1978年(昭和53年)
5月 落語協会分裂騒動が発生し、師匠・圓蔵が新団体への参加を表明。しかし、初代三平は新団体への移籍を拒否。圓蔵の脱会撤回を説得して、協会の危機を阻止する立役者となる。

1979年(昭和54年) 
1月16日 初代三平、脳溢血で倒れ、東京逓信病院に入院。1週間の昏睡の後、右半身麻痺と言語障害が生じる。
10月1日 初代三平、壮絶なリハビリを重ね、高座に復帰。

1980年(昭和55年) 
9月7日 初代三平、上野鈴本演芸場での高座が最後の高座となる。
9月18日 初代三平、肝臓がんで再び東京逓信病院に入院。
9月20日 初代三平、家族や親族、一門が見守るなか、東京逓信病院で死去。享年54。香葉子さんは、30人の弟子を抱える林家一門の「おかみさん」として一門の存続を支え続けるように。

1981年(昭和56年)
一周忌追善興行が、「林家三平追善興行」として浅草演芸ホールで毎年恒例となる。

1985年(昭和60年)
香葉子さん、自身の戦争体験を基にした自叙伝的エッセー・児童文学『うしろの正面だあれ』を刊行。

1989年(平成元年)
11月 次男・泰助が大学在学中に林家こん平門下へ入門。

1990年(平成2年)
3月 次男・泰助、前座となり、「林家いっ平」を名乗る。

1991年(平成3年)
3月 『うしろの正面だあれ』が、同名の劇場版アニメーション映画として公開。

1993年(平成5年)
11月 いっ平、二つ目に昇進。

記念館「ねぎし三平堂」を開堂

1995年(平成7年) 
初代三平の生前の自宅を改造し、記念館「ねぎし三平堂」として東京都台東区根岸に開堂。

記念館「ねぎし三平堂」 撮影/山田智絵

1997年(平成9年)
香葉子さん、エッセイ『半分のさつまいも』を刊行。

1999年(平成11年)
9月 いっ平、シンガポールにて英語落語を披露。江戸落語では初の試み。

2002年(平成14年)
9月 いっ平、真打に昇進。第19回浅草芸能大賞新人賞受賞。

2005年(平成17年)
香葉子さん、私財と寄付を投じて、東京都台東区上野に東京大空襲犠牲者の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と「時忘れじの塔」を建立。また、『半分のさつまいも』が劇場アニメ『あした元気にな~れ! ~半分のさつまいも~』として公開。慰霊碑を建立して以来、毎年3月9日に上野公園で東京大空襲犠牲者を慰霊する「時忘れじの集い」を開催するように。

2007年(平成19年)
香葉子さん、個人経営だった「ねぎし事務所」を法人化し、代表取締役に就任。

2008年(平成20年)
3月 香葉子さん、ドラマ『東京大空襲』(日本テレビ系)の監修を務める。

2009年(平成21年)
3月 いっ平、二代林家三平を襲名。

2011年(平成23年)
二代林家三平、時代劇『水戸黄門』(TBS系)での共演がきっかけで交際していた俳優の国分佐智子と結婚。

2016年(平成28年)
二代林家三平、『笑点』(日本テレビ系)の大喜利コーナーに新メンバーとして初登場。2021年12月までレギュラーを務める。

2025年(令和7年)
3月9日 上野公園で東京大空襲犠牲者を慰霊する「時忘れじの集い」を開催。毎年メッセージは香葉子さんの肉声だったものの、今年は高齢で話すことが難しくなり代読となった。
6月 浅草演芸ホールで、「初代林家三平生誕百年記念興行」を10日間にわたって開催。
8月15日 終戦から80年。
11月 初代林家三平が生誕100年。

取材・文/我妻弘崇 

はやしや・さんぺい 1970年東京都生まれ。「昭和の爆笑王」初代林家三平の次男。中大経済学部在学中の'90年、林家いっ平として、林家こん平に弟子入り。'93年二つ目、'02年真打に昇進。'09年3月、二代林家三平を襲名。兄は九代林家正蔵。今年7月には石川県穴水町復興応援特命大使に就任。