昭和天皇、香淳皇后が眠る武蔵陵墓地を参拝し、ブラジル公式訪問からの帰国を報告(2025年7月4日)

「かなり爆風が強かったんですね」

「やはり核はなくならないといけないですね」

 秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまの家族4人は7月11日、東京都目黒区にある東京都写真美術館を訪れ、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を見学した。1945年8月6日、米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」から、広島市に投下された原子爆弾で推計約14万人(同年12月末まで)が死亡したという。

 また、3日後の同年8月9日、長崎市に米軍B29爆撃機「ボックス・カー」が原爆を投下、大勢の死傷者を出し、街は焦土と化している。今年は、広島と長崎への原爆投下から80年の節目の年に当たる。

企画展で説明を受けられた佳子さまたち

「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を見学する秋篠宮ご一家(2025年7月11日)

 この企画展は、中国新聞社など報道機関5社の主催で、各社のカメラマンや市民らが撮影した原爆投下直後の写真など約160点と映像2点を公開している。

 佳子さまたちは、担当者から説明を受けながら、原爆投下後の市街地や、激しいやけどを負った市民の様子を撮影した写真などを真剣な表情で見て回った。

 秋篠宮さまは、爆心地から2・2キロ地点の写真を見て、さらに、放射線が人体に及ぼす影響に触れながら、冒頭のような思いを口にした。また、紀子さまは遺体の写った写真の前で手を合わせ、悠仁さまは「写真や映像が持つ情報の多さや力を感じました」との感想を述べたという。

 7月中旬、私は、佳子さまたちが訪れた「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」に足を運んだ。地下鉄の恵比寿駅で下車して、写真美術館に向かった。強い雨が断続して降るあいにくの天気だったが、会場は若者や年配者たちで混雑していた。

 中には海外からの若いグループや夫婦連れの姿も見られた。「きのこ雲の下で~8月6日の記録~」「焦土の街 人間の悲惨~あの日から1カ月~」などのコーナーに分かれ、写真が展示されている。誰もが真剣な表情で、食い入るように一つひとつの写真に見入っていた。声を出す人はいない。会場は重い空気に包まれていた。

《1945年8月6日午前8時15分に米軍が広島市に投下した原爆は、島病院の上空約600メートルでさく裂した。直後に発生した火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表は3000度から4000度、爆風波秒速約280メートルに達したとみられている。

 そこに生身の人間がいた。何が起こったのかも分からぬまま瞬時に焼かれた。爆心地から2キロ以内の建物ほぼ全てが破壊し、焼き尽くされていた(略)》

 このように、企画展のカタログは説明している。「きのこ雲(さく裂約2~3分後)」の写真は、地上から最も早く捉えたきのこ雲の写真だという。「きのこ雲」とは、原爆の爆発などで発生する巨大なキノコ状の雲のことである。当時17歳の山田精三さんが、爆心地から約6・5キロ離れた広島県府中町の水分峡で、原爆の炸裂から約2分後に撮影したものだ。

《飛行するB29爆撃機と落下傘を見ていたところ、閃光、地響き、ごう音に襲われた。「松の木々の下から太陽が上がってくる感じでね。雲の色は赤と黒の絵の具を混ぜたような…」(略)》(企画展カタログより)

「被爆後の市街地に立つ少女」

静岡県御殿場市の「高嶺の森のこども園」を訪れ、園児たちの遊びに加わりハイタッチで交流(2025年7月25日)

「被爆後の市街地に立つ少女」は、当時、毎日新聞大阪本社写真部の国平幸男さんが撮影したものだ。カタログによると、原爆投下から3日後の8月9日午前、大阪から派遣された取材班の一人として国平さんは広島市に入り、市街地の惨状を撮影した。

 戦後50年の1995年7月、毎日新聞大阪本社夕刊に掲載した回想記の中で、「『頑張るんだぞ』。頭をなでて別れた」などと、撮影時を振り返ったという。その後、家族や知人らの証言で、この少女の氏名などが判明した。少女は、当時、10歳だった。戦後、結婚して2児をもうけたが、骨髄がんのため42歳でこの世を去っている。

《1人の被爆者が経験した惨禍とその人生、核兵器の非人道性を伝える1枚として、広島平和記念資料館本館入り口に2019年から常設展示されている》

 カタログは、このように少女の写真について紹介している。 

 今年6月、戦後80年の節目にあたり、天皇、皇后両陛下は1泊2日の日程で広島県を訪問した。天皇陛下は、宮内庁を通じて感想を公表している。

《平和記念公園を訪れ、原爆ドームと平和の灯を望みながら、原爆死没者慰霊碑で花をお供えし、80年前の原爆投下により犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに、これまでの広島の人々の苦難を思い、平和への思いを新たにしました。

 この後、被爆遺構展示館と広島平和記念資料館を訪れました。一つ一つの展示品や写真から伝わってくる原爆被害の悲惨さに深く心が痛みました。また、被爆前後の広島の街や人々の様子などについて理解を深めるとともに、原爆被害の実相を肌で感じることができました》

 広島平和記念資料館を訪れた天皇、皇后両陛下はおそらく、この「被爆後の市街地に立つ少女」の写真と対面して感慨深い気持ちになったことであろう。

 今年2月23日、65歳の誕生日を前にした記者会見で天皇陛下は、戦争の歴史とどう向き合うのかと記者から尋ねられ、次のように答えている。

「戦争の記憶が薄れようとしている今日、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や歴史が伝えられていくことが大切であると考えております」

 また、6月、来日中のドイツのシュタインマイヤー大統領と皇居で面会した際にも陛下は、翌日から広島を訪問することを伝えたうえで、「過去の記憶を次の世代につなげていくのは大変、重要なことだと思う」などと話している。

《各地で戦争がやまない今、80年前の「あの日」を決して繰り返させないとの決意とともに、惨禍の記録を次の世代へ継承することが求められている》と、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」の主催者もカタログで訴えている。

 記録を残し、記憶を継承することはとても重要なことである。しかし、一歩進めて、「やはり核はなくならないといけないですね」という秋篠宮さまの言葉にあるように、核兵器廃絶に向けた努力が今まで以上に、唯一の被爆国の国民である、私たちに求められているのではないだろうか。

 特に、アメリカやロシア、そして中国など、核保有国の指導者たちは、「原爆被害の実相を肌で感じる」必要があると思う。佳子さまは、どのように考えるだろう。

 この企画展は8月17日まで、開かれている。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など