
1975年9月にデビューして以降、数々の名曲を生み出してきた中島みゆき。その歌声と叙情的な歌詞は今なお色あせることはない。彼女が50年にわたって愛され続けてきた魅力と軌跡を追うーー。
『ファイト!』に潜む“寄り添い”が織りなす作詞力
中島みゆきが今年9月でデビュー50周年を迎える。
「北海道で生まれ育った中島さんは、1975年に『アザミ嬢のララバイ』でメジャーデビュー。常に音楽業界の第一線で活躍しており、1978年『わかれうた』、1981年『悪女』、1994年に『空と君のあいだに/ファイト!』、2000年『地上の星/ヘッドライト・テールライト』というシングルが4つの年代でオリコンチャート1位を獲得した唯一の女性アーティスト。工藤静香さんなど、ほかのアーティストへの提供曲もヒットを連発しました」(レコード会社関係者)
音楽評論家のスージー鈴木さんに歌手としての中島の魅力を聞いてみた。
「あえてひと言で表すなら“女性、ひいては人間の内面を赤裸々に表現する人”と申しましょうか。初期は暗めで男性にフラレたという歌が多くありましたが、1983年時点で『ファイト!』を作るなど、初期のころから音楽家としてスケールの大きさを持っていたと思います」
鈴木さんは『ファイト!』を中島の作家性がいかんなく発揮されている曲だと語る。
「中島さんは歌詞の中の登場人物に憑依して歌うことに優れています。『ファイト!』では進学できなかったことに悩む女性、罵倒されて暴力を振るわれる少年、駅で突き飛ばされた子どもを助けない女性、周囲に反対されて上京を諦めた女性、男性に虐げられて思うように生きられない女性など、閉塞感を抱えた人たちが群像劇のように出てきて、そんな曲の展開に合わせて歌い方を変えていくんです」(スージー鈴木さん、以下同)
中島が国民的歌手になり得た理由
歌詞では人間たちの視点と並行して、魚の群れにも視線が向けられている。
「中島さんの故郷である北海道の鮭なのでしょうかね。流れに逆らい続けてボロボロになりながら泳ぐ魚たちに中島さんは“ファイト!”と呼びかけて、最後にはその魚たちが無事に命をつないだのか、子孫らしき小魚たちまで登場させる。まさに複数の登場人物が織りなす一つの物語。中島さんが国民的な歌手になりえたのは、歌がうまいことに加えて、さまざまな視点に立てる作詞力と、それらを表現できる歌い方のバリエーションの広さだと思います」

早い段階で“完成”されていた中島だが、持ち前のチャレンジ精神がさらなる成長につながったようだ。
「本人が“ご乱心の時代”と振り返る1984年から1988年の間に音楽性を模索し続け、1989年からは“言葉の実験劇場”をコンセプトにしたコンサートと演劇を融合させた舞台『夜会』を継続的に開催。その結果、表現の幅をより広げることに成功したと思います。1990年に発売したアルバム『夜を往け』に収録された『with』は、それまでからさらにひと皮むけたと思いましたね」
『with』は抽象的な表現を多用しながら、他者に寄り添う気持ちを慈愛にあふれる声で歌ったバラード曲だ。
「混沌とした心の内面を、むき出しのまま臆面もなく書く。あそこまで自分をさらけ出すような歌詞を書ける歌手は多くありません。中島さんは完全無欠のシンガー・ソングライターです」
鳥居みゆきが熱弁、“涙活”としての名曲たち
人間の持つ負の部分や弱さに寄り添うような曲を多く作る中島。芸人の鳥居みゆきも、そんな中島の世界観に魅了されたファンの一人だ。
「私の本名は漢字のみゆきなのですが、中島さんが好きすぎて、芸名はひらがな表記にしたんです。もともと父親がファンで、幼いころからずっと聴いていました。中島さんの歌は私にとって身近すぎて、もはや“環境音”でしたね。家族でドライブすると、カーステレオで延々と流していました。道中、頻繁に『世情』が流れるんですけど、あの曲って『金八先生』で“腐ったみかん”と言われた不良の加藤が警察に連行されたときに使われた重めの曲じゃないですか。楽しい家族旅行なのに、家族全員の顔つきが暗くなっていくんですよね」
奇抜でハイテンションな芸風で知られる鳥居だが、自身の性格をネガティブと評しており、落ち込むことも少なくないという。
「今でもマイナス思考。毎日“もうダメだ”とか“このまま生きていていいのか”と考えているんです。そんな性格だからか、中島さんのしんみりとした曲が刺さるんですよ」(鳥居みゆき、以下同)

特に好きな曲は『泣きたい夜に』だという。
「私って感情がまったく動かないんです。感情を動かすフリをしているというか。なので普段からぜんぜん泣けなくて、産声以外で泣いたことないって感じなんです。だけど『泣きたい夜に』という曲は泣けますね。よく部屋を真っ暗にして聴いています。真っ暗の中で《泣きたい夜に一人はいけない あたしのそばにおいで》って中島さんの声が聞こえると、私の止まりきった涙腺が刺激されて“自分って泣きたかったんだな”って再認識できるんです。中島さんの推し活をしながら自分の“涙活”もしてるんです」
中島の歌には、ふさぎ込みがちな鳥居の心をほぐす力があるようだ。
「『うらみ・ます』も好きです。フラレた女性が男を恨み続ける曲なのですが、私ってこれまでの人生で恋をしたことがないので、失恋ソングとかは共感できないけれど、私も人を恨み続けながら生きているので心に響くんです」
鳥居も取り入れる「やってみ・ます」
ところどころ仰々しい言葉を挟む鳥居だが、『うらみ・ます』という曲も《あんたのこと死ぬまで恨む》というフレーズを繰り返す情念の強い歌だ。
「歌詞中《やさしくされて唯うれしかった》と、爪でひっかいてドアにメッセージを書く場面があるんですが、文字数が多くて爪が折れちゃいそうですよね。
曲のタイトルの“中黒”も強調されているみたいなところが好きで、私も人からやりたくないお願いをされたときに“やってみ・ます”って返信したり、生活に取り入れています」
ほかにも、食事に誘ってくれた友人に対して悪態をつきながら“うどん”をすするという『蕎麦屋』などがおすすめの曲だと語る鳥居。
「王道ですが『ファイト!』も好きですね。子どものころは鼓舞するような応援歌に聞こえましたが、最近では“闘いなよ”って中島さんから優しく促されている曲のように思えてきました。私にとって中島さんの歌は暗闇を照らす光というよりは、暗闇の中にいる私の隣に座って寄り添って包んでくれるように感じるんです」

往年のリスナーが振り返るANN伝説
“失恋ソングの女王”とも称されるように“暗い”といったイメージがつきまとう中島だが、往年のファンAさんから言わせれば、それらは中島の一面に過ぎないという。
「私はニッポン放送の深夜ラジオ『オールナイトニッポン』でDJをしていた中島さんのトークでファンになりました。以前から歌手としての中島さんは知っていて“暗い曲を歌う人”という印象でしたが、ラジオの中島さんは明るくて豪快に笑う愉快なお姉さんといった感じでした。そのギャップに驚いて毎週ラジオを聴くようになったんです」
中島は1979年4月から1987年3月の約8年間、月曜の深夜1時から3時を担当。このころのオールナイトニッポンのパーソナリティーは、水曜日はタモリ、木曜日はビートたけしが務めるなど、当時の若者から熱狂的な支持を受けていた。
「思い出深いのは、中島さんとゲストの松山千春さん、松坂慶子さんの3人による、北海道の牧場を舞台にしたラジオドラマですかね。その回の中島さんは松山さんに惚れる三枚目の女性という役でした。爆笑しましたよ」(Aさん)
同じく中島のラジオの虜だったBさんも当時を振り返ってくれた。
「1981年に、ステージで歌っていた松田聖子さんが観客席から投げられた紙テープが目にあたってケガをするという騒動が報じられたのですが、中島さんはラジオでこの件に触れて“当たってもいい、痛くてもいい、私はカップ麺がほしい!”と熱弁したんです。よほどカップ麺が好きなのでしょうね。以降、中島さんのライブが終わると客席からステージにカップ麺が投げられるという文化ができました」
自ら収録音声を取り下げた出来事
リスナーとの一体感をつくっていた中島のDJぶりだが、広く支持されたのはそのエンターテインメント性だけではなかったようだ。
「番組の終盤とかに、シリアスな内容のハガキを読むのも定番でしたね。普段が楽しい放送だったから、おふざけなしの放送も印象深いです。
1985年8月12日の月曜日、お盆シーズンということで、中島さんはお休み。放送は事前に収録した中島さんの音声を流す予定だったのですが、この日の夕方に、群馬県の御巣鷹の尾根に日航機が墜落する事故が発生しました。後の放送で中島さんが語っていましたが“事前に収録しておいたとはいえ、こんな事故が起きた後、能天気な音声を流してはいけない”と思い、旅行先からニッポン放送に掛け合って、収録音声を取り下げたそうです。そのとき、被害者の方々とご家族を思って動く人なんだと思いました」(Bさん、以下同)
ラジオでハガキを読まれた一部のリスナーには、番組オリジナルグッズ「握手券」が贈呈されたという。
「私もハガキが選ばれて握手券を持っているんですが、まだ握手券を持っていないとき、北海道の空港で中島さんにお会いしたときにお願いしたら握手してもらえました。少し会話したら、私のハガキネームを認識してくれていましたし。ファン冥利に尽きます」

ディレクターが明かす“カリスマDJ”の舞台裏
歌だけでなくラジオでも存在感を発揮した中島。その舞台裏では何が行われていたのか。1985年から最終回までのディレクターを務めた入江たのし氏に話を聞いてみた。
「当時の私はニッポン放送に入ったばかりの新人でした。ディレクターという仕事は、番組で流す楽曲を選んだり、コーナーを存続させるかどうかの決断などいろいろありますが、一番はパーソナリティーに気持ちよく仕事をしてもらうことですから、構成作家さんと大量のハガキを選定するなど中島さんのサポートに力を入れていました」
生放送当日、中島は本番開始の1時間前にスタジオに到着し、一人で放送ブースに入って番組で読むハガキ選びに集中していたという。
「ブース内はガラス越しで外の部屋から見えるのですが、黙々と一人でハガキを選ぶ中島さんは鬼気迫るというか近寄りがたいオーラを放っていましたね。リスナーと真剣に向き合っていたんだと思います。それでも本番前に一度打ち合わせをしなくてはいけませんから、中島さんが面白いハガキを読んだりして、くすっと笑った瞬間とかにお声がけして、ハガキ選びを中断させていました。読まれなかったハガキも全部持ち帰っていましたね。自宅とかで目を通していたんだと思います」(入江氏、以下同)
最終回で1000人のリスナーが駆けつけた
人気番組だったが、1987年2月、中島サイドからの申し出により1か月後に終了することが決まってしまう。
「ラジオは毎週月曜日の深夜に生放送ですからね。ライブツアーなどの音楽活動と両立するのが難しくなってきたんだと思います」
最終回の当日、東京・有楽町にあるニッポン放送の前には深夜過ぎにもかかわらず、中島のリスナーが1000人以上集結。中島はリスナーたちに感謝のメッセージを述べ、局の玄関から出迎えのリムジンまで続くレッドカーペットを歩き、その場を後にして大団円を迎えたのだった。
「大勢のリスナーが集まりましたが、当日は混乱もなく。さすが中島さんのファンは礼儀正しかったですよ。後日、ラジオのスタッフが集まって打ち上げをしましたが、中島さんはしんみりとせず、自分の身の回りに起きたことなどを話したりと、いたって普通でした。その後も中島さんとお会いすることもありましたが、オールナイトニッポンは特別な経験でしたね」

謎多き歌姫の意外な一面と音楽へ思い
日本を代表する歌姫、若かりしころはどのように過ごしていたのか。
デビュー前の中島と一緒に音楽活動をして、現在は北海道札幌市で喫茶店「コーヒーハウス ミルク」のオーナーを務める前田重和さんに話を聞いてみた。
「1970年ごろですかね。当時の私は音楽仲間たちと札幌市内でアマチュアコンサートを定期的に開いて、そこで、藤女子大学のフォークソング同好会に所属していた中島さんと知り合いました。
当時の彼女は、もう一人の女の子と『壊れた蓄音機』というデュオを組んで、『五つの赤い風船』というフォークグループの曲をカバーしていました」
当時から中島の才能はアマチュアの域を超えていた。
「私と音楽仲間たちで開催したオリジナル楽曲限定のコンサートに中島さんも出たのですが、声は大きいし、歌も楽器もうまい。自身で作詞作曲した歌の完成度も高かったですね。普通、アマチュア歌手のオリジナルソングなんて盛り上がらないのですが、中島さんは観客からの反応も上々でした」(前田さん、以下同)
自分のことを語らない“聞き専”
その後、前田さんと中島は友人として交流するようになったという。
「一緒にごはんを食べるときは、いつもラーメン。たまに喫茶店でコーヒーを飲んだときとかは、将来のことや音楽についてなどいろいろ会話をしましたが、彼女って快活に話はするのですが、基本的に自分のことをあまり語らず聞き専なんです。こっちが話していると、彼女はこちらをよく観察しながら、落ち着かない様子で話を聞くんですよね。今思えば、歌詞のネタを探していたのかもしれませんが、当時は彼女と話していると心が見透かされるようでちょっと怖かったですよ(笑)」
そんな中島が自分の考えを話したこともあったようだ。
「いつだったか彼女が“私は30歳までに結婚相手を見つけたい。それ以上だと高齢出産になるから、子どもはつくらない”と言ったことがありましたね。今でこそ30歳を過ぎての出産は珍しくありませんが、彼女の父親が産婦人科のお医者さんでしたから、出産に人一倍気を使っていたのかもしれません」
前田さんは1974年に「ミルク」をオープン。中島も翌年の1975年にレコードデビューし、徐々に交流は減っていくが、1978年に「ミルク32」という、店名を引用した曲を発表している。

小規模の会場でしか歌わない中島
この歌は失恋した女性が喫茶店のマスターに愚痴をこぼすという内容だが─。
「中島さんはデビュー後も、お店に来てココアを注文したりしていましたが、彼女から恋愛相談を受けたことなんか一度もありません(笑)。
タイトルにある“32”はたぶん私の年齢なのでしょうが、曲が発表された当時の私は30歳ですしね。いろいろ創作がまじっているんです」
お互い別々の道を歩むことになったが、中島の音楽への姿勢は一貫しているように感じると、前田さんは言う。
「中島さんが開くコンサートって1万人以上とかの大規模なホールはほとんどなく、多くは3000人とか小規模の会場なんですよね。たぶん彼女は、音楽を通して観客と1対1のコミュニケーションを取りたいのでしょう。そんな観客に歌を届けたいっていう気持ちは、デビュー前に僕たちが開催したコンサートに出たときと変わっていないんだと思います。お互い年を取りましたし彼女もいつまで歌えるか心配ですが、たぶんまだ大丈夫かと。だって彼女、全然老化していないじゃないですか(笑)」
中島が進む旅は、まだまだ終わらない─。
中島みゆきの半生
●1952年
札幌市に生まれる
●1967年(15歳)
北海道帯広柏葉高校入学
●1972年(20歳)
全国フォーク音楽祭に北海道地区代表で出場し、優秀賞を受賞
●1975年(23歳)
ヤマハが主催する第9回ポピュラーソング・コンテストで入賞。『アザミ嬢のララバイ』でデビュー
●1979年(27歳)
ラジオ『中島みゆきのオールナイトニッポン』がスタート
●1981年(29歳)
『悪女』がオリコン1位に。ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に『世情』が使用されて話題に
●1983年(31歳)
『春なのに』で日本レコード大賞作曲賞を受賞。'89年に演劇とコンサートを融合した舞台『夜会』をスタート
●1998年(46歳)
両A面シングル『命の別名/糸』をリリース
●2000年(48歳)
『地上の星/ヘッドライト・テールライト』リリース。NHK『プロジェクトX』の主題歌に採用
●2002年(50歳)
第53回『NHK紅白歌合戦』に出場し、黒部ダムからの中継で『地上の星』を歌唱
●2009年(57歳)
紫綬褒章を受章
●2014年(62歳)
NHK朝ドラ『マッサン』の主題歌に『麦の唄』が採用。第65回『紅白』にも出場
●2022年(70歳)
中止になったライブのアルバム『2020ラスト・ツアー「結果オーライ」』をリリース
●2025年(73歳)
9月にデビュー50周年を迎える