今年、秋篠宮ご一家と沖縄の豆記者の懇談に初めて参加した佳子さま(2025年7月30日)

《飛行機から見て、まず海がきれいだという第一印象を持ちました。沖縄がたどって来た道はけわしいものだった。皆でこれを理解していくことが大事です。

 沖縄に関心を持ったのは、豆記者が刺激になった。沖縄を訪れて感じたことは、県民が平和国家、文化国家を強く、厳しく求めている、ということです》(文春文庫『新天皇家の自画像』より)

上皇ご夫妻による沖縄県訪問

1972年、沖縄の豆記者たちと交流する上皇ご夫妻(当時、皇太子ご夫妻)

 今から半世紀前、戦後30年の節目の1975年7月、秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまの祖父母にあたる上皇ご夫妻(当時、皇太子ご夫妻)が、沖縄国際海洋博覧会の開会式に出席するため、初めて沖縄県を訪問した。

 糸満市にあるひめゆりの塔で、壕に潜んでいた過激派の男がご夫妻に火炎瓶を投げつける事件が起きたが、同年8月26日、東宮御所で行われた記者会見で上皇さまは冒頭のように答えている。

 また同年12月、42歳の誕生日を前にした記者会見で上皇さまは、「沖縄海洋博の入場者数が、予想されたほどに伸びていませんが」と尋ねられ、次のように語っている。

《成功、不成功は海洋博を見に来た人に(海洋博や沖縄が)どのように映ったかということでしょう。復帰前に(本土で)育った人は沖縄に対する認識が不足で、私などもそうでした。沖縄への関心を持ったのは、毎夏(本土を)訪れる豆記者の存在が大きかった》

《沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していくことが大事です。避けてはいけない。(しかし、現実は)琉球処分の時代から戦後の復帰まで、私たちはあまり学んできたとはいえない。海洋博が沖縄を学ぶことの導火線になればと思います。これからも機会があれば何回でも行きたい》(『新天皇家の自画像』より)

 先の大戦末期、1945年3月から6月にかけて、沖縄に侵攻したアメリカ軍と旧日本軍との間で国内で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われた。この沖縄戦で、一般住民や軍人らの犠牲者は約20万人(推計)にも上るとされる。

 1960年代初めから、本土と沖縄の小中学生が相互訪問する「豆記者」の派遣制度が始まったが、前述した会見でわかるように、沖縄からの「豆記者」たちとの出会いと交流が、上皇さまが沖縄に深い関心を寄せるきっかけとなったようである。

 その「豆記者」たちが今年7月30日、東京・元赤坂の赤坂東邸を訪れている。秋篠宮ご夫妻や佳子さま、長男で筑波大学1年生の悠仁さまは、沖縄の小中学生35人と面会し、懇談した。

 沖縄から派遣された小中学生たちは東京都内で「豆記者」として記者の仕事を体験し、首相官邸では石破茂首相とも面談している。宮内庁によると、ご一家は約30分間、彼らから取材活動や東京滞在中の様子、沖縄の自然や文化などを聞いたという。

 このように、沖縄の人たちがたどってきた長く険しい道のりに、深く思いを寄せる上皇さまやご家族と「豆記者」たちとの交流は続いており、平成では現在の天皇、皇后両陛下に、令和になってからは、秋篠宮ご夫妻に引き継がれている。

 今回、悠仁さまは2回目の参加だったが、佳子さまは初めて参加した。今年が戦後80年の節目であることが大きく影響しているように思う。

「戦後80年の節目となる本年、被爆地広島を幹事県として、このたびの大会が行われ、ここに集う人々が、共に過去を振り返り、未来に向けて平和への思いを新たにする機会を得ることは、非常に意義深いことと思います」

原爆死没者慰霊碑に供花し、拝礼

広島市で、平和の大切さを広める活動をする甲斐なつきさんと懇談する秋篠宮ご夫妻(2025年7月23日)

 全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の総合開会式に出席するため、7月23日から1泊2日の日程で、広島県を訪れていた秋篠宮ご夫妻は23日、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に供花し、拝礼した。

 また、ご夫妻は広島平和記念資料館で、高校生平和大使を務める被爆4世の甲斐なつきさんらと懇談した。昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したが、甲斐さんはノルウェーの首都オスロで行われたノーベル平和賞の授賞式に出席し、現地で同世代の高校生と平和を考える授業も行っている。

 甲斐さんはノルウェーで原爆の悲惨さを訴えた経験などを説明した際、秋篠宮さまから、「最初はどういう反応がありましたか」と質問されたという。

 翌24日、ご夫妻は広島市の県立総合体育館で行われたインターハイの総合開会式に出席し、秋篠宮さまは前述したように挨拶している。

 以前、この連載で紹介したように、広島訪問の2週間ほど前の7月11日、秋篠宮ご一家の4人は、東京都写真美術館を訪れ、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を見学していた。

《この展示では、昭和20(1945)年8月6日、広島に原爆が投下された直後に市民や報道機関のカメラマン、写真家が葛藤しながら記録した写真約160点と映像2点が公開されています。

 両殿下、内親王殿下並びに親王殿下は、初めに、本展を企画した中国新聞社の担当者から、原爆投下直後に爆心地から2・2kmの御幸橋西詰めで撮影された写真の説明を受けられました。その後、きのこ雲や被爆した街や市民の様子、困難を極めた救護活動の様子、そして被爆後も懸命に生き抜こうとする市民の姿などの写真や映像の説明を受けられながら、つぶさにご覧になりました》

 このように、宮内庁のホームページでは企画展を見学したご一家の様子を公表している。報道によると、秋篠宮さまは、「かなり爆風が強かったんですね」「やはり核はなくならないといけないのですね」という思いを口にし、悠仁さまは「写真や映像が持つ情報の多さや力を感じました」との感想を述べたという。

 さらに、企画展のカタログは次のように説明している。

《(略)原爆は、島病院の上空約600メートルでさく裂した。直後に発生した火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表は3000度から4000度、爆風は秒速約280メートルに達したとみられている。そこに生身の人間がいた。何が起こったのかも分からぬまま瞬時に焼かれた。爆心地から2キロ以内の建物ほぼ全てが破壊し、焼き尽くされていた(略)》

 このような、非人道的な核兵器の廃絶を求める声は世界中で高まっている。核兵器がなくなる日まで、この思いは、佳子さまたち若い世代へ、さらに次世代へとしっかり継承されなくてはならない。今年は佳子さまにとって、戦争と平和について思いをめぐらす夏になったようだ。