参議院議員・鈴木宗男(撮影/山田智絵)

 参議院選挙投票日の7月20日、札幌にある鈴木宗男事務所は重い空気に包まれていた。自民党から比例代表で立候補した鈴木は、開票から約8時間後の21日午前4時半に記者会見を開き、こう語った。

「もう選挙には出ません。この発言は一つのけじめ。いわゆる終止符」

 敗色濃厚。当選は厳しいとした上で、時折、悔し涙をのぞかせながら、あふれる思いを伝えた。

鈴木宗男の政治家人生

 鈴木宗男の政治家人生は、天国と地獄を往来する。

 1983年、無所属ながら初当選を果たすと、雑草精神で出世街道を歩んできた。しかし、2002年、斡旋収賄、受託収賄などの容疑で逮捕、起訴される。鈴木は「やましいことは一つもない」と、起訴事実を全面的に否認し、検察側の主張と対立したため、衆議院議員としては戦後最長となる437日にわたる勾留を経験する。

 保釈後には、ステージ3の胃がんが見つかり、胃の3分の2を摘出。生死をさまよった。'05年9月には、刑事被告人の身でありながら衆議院選挙に臨み、新党「大地」を旗揚げすると、約43万票を集めて当選。疑惑に関係なく、鈴木を支持する声が大きいことを示した。

 だが、しばらくして最高裁で上告が棄却。実刑が確定すると議員バッジを失い、刑務所へ収監されることになる。5年間の公民権停止となり、政治家生命はついえたかに思われた。それでも、'19年7月の参議院選挙に、日本維新の会の比例区で出馬すると、再び当選。約9年ぶりに国政に帰ってきた。

 いよいよここまでか─。しかし、会見からおよそ4時間半後の21日9時半過ぎ、再び事務所が慌ただしくなる。開票結果の詳細がわかるにつれ、状況が好転。自民党が獲得した比例12議席のうち、最後の12番目に滑り込んだのだ。悔し涙から一転、うれし涙を浮かべながら鈴木は言った。

「天から『おまえにはまだやり残した仕事がある』と導きがあったような気持ち。選挙結果は与党にとって厳しいものだが、堂々と働く立場を得たので、しっかり政策を実行していきたい」

 23年前、日本のマスコミは彼を「悪」だと叩き、あることないこと非難した。当時を知る者からすれば、鈴木が自民党議員として国政に戻ってくる姿を、誰が想像しただろう。

「参議院は“良識の府”であり、本来は学者を筆頭に、その道を極めた専門家が集う場所なんです。そういう意味では、42年間政治に携わってきた私の経験を生かせる。今の政治に活を入れる」(鈴木、以下同)

 転んでもただでは起きない。鈴木宗男、その政治家人生の最終章が幕を開ける。

冬は−30℃になる極寒の地に生まれ育った

北海道足寄で農家の次男として生まれた

 鈴木は1948年(昭和23年)、北海道中川郡西足寄村、現在の北海道足寄町で生まれた。

 実家は農家だった。

「私は、足寄の北側にある大誉地という場所で生まれ育った。昭和36年まで電気がなく、ランプ生活でした。冬はマイナス30℃になる極寒の地。火を焚いて暖かくしても、眠るときは部屋の温度は0℃を下回り、寝息で布団の襟が凍る。その凍った襟が目に当たって、目を覚ますんですね」

 米はないから、イモや豆、麦が主食だった。たまに食卓に並ぶ、カツオの缶詰が一番のごちそうだったという。いたずらっぽく笑って、こう振り返る。

「437日の勾留生活を耐えられたのは、この経験があったから。『子どものころに比べたら白いご飯が出るし、3食も食べられる。贅沢じゃないか』と。人生、何が役に立つかわかりません」

北海道足寄で農家の次男として生まれた

 高校生のとき、修学旅行で訪れた東京の姿に目を丸くした。いや、打ちひしがれた。

「同じ日本なのかと思った。足寄は、道が舗装されていないから雨が降ると泥だらけになる。私は中学1年生のときに、『将来は政治家になりたい』と作文に書いていたくらい、政治家に憧れがあった。大都会を目の当たりにして、この格差を埋めることができるとしたら政治の力しかないと強く思った」

 高校卒業後、隣町の炭坑の事務職として就職が決まっていたが、政治家の道を諦めきれなかった。「大学に進学したい」。そう父に打ち明けると、家で一番良い馬だった青毛を1頭売り、入学金を工面してくれた。

「拓殖大学への入学が決まったものの、東京には親戚も知人もいません。大学に提出する書類に必要な東京での身元引受人がいない。困っていると、足寄で獣医をしていた横田文治さんという方が、『中川に頼んでやる』と言うわけです」

 中川とは、“北海のヒグマ”と呼ばれ、道民から絶大な支持を集めた故・中川一郎のこと。

 農林水産大臣などを歴任し、自民党総裁選にも出馬した大物政治家である。

「横田さんは、中川先生の高校の先輩だった。中川先生に会うために、議員会館を訪れたときの感動は、今でも忘れられない。私は田舎者だから、エレベーターが怖くて、階段で先生の部屋まで行った(笑)。憧れの国会議員が、私の身元引受人になってくれていることが信じられなかった」

 帰り際、中川から「これからもたまには遊びにこい」と声をかけられた。

「私もばか正直だから、その言葉を真に受けて、月に1~2回、先生に会いに行くようになりました。すると、先生は『何か食べていけ』と言う。先生はいつもラーメンとかっぱ巻き。ですから、私も決まってラーメンを食べたなぁ。当時、先生はまだ1年生議員だったから、私みたいな学生を相手にする時間があったんです」

 記憶の中に中川が登場するとき、鈴木は敬愛の眼差しをもって振り返る。今も、まぶたの裏に中川一郎がいることが伝わってくる。翌年、鈴木の父が脳溢血で亡くなった際も、「困ったことがあったらなんでも相談しに来なさい」と、中川は鈴木を気遣ったという。

 足しげく議員会館に通ううちに、いつしか鈴木は雑務を手伝うようになっていた。大学卒業後、銀行への就職が決まっていたが、中川から「オレの秘書になれ」と言われ、腹を決めた。

「堅い仕事をしてほしかった母からは反対されましたが、私は夢の扉が開いたと思った」

 カバン持ちから始まり、選挙資金や票集め、陳情の受け付け、時には中川の代わりに演説もやった。「秘書として13年間、青春のすべてを捧げた」。そう言って、鈴木は目を細める。

 だが、人生の師と仰ぐ中川が自死したことで、意図しない形で歯車が動き出す。鈴木の政治家人生は、“汚名”からのスタートだった。

「恩師の死の原因」だと指をさされたことも

冬はマイナス30度になり、食べ物もなかなか手に入らなかったが、北の大地で育った日々が今の鈴木宗男の不屈の魂をつくり上げたといえる

 '83年1月9日、札幌パークホテルの一室で、中川の遺体が見つかった。後日、「その原因は鈴木宗男にある」と中川の夫人が指摘するや、鈴木はヒールとしてマスコミに扱われるようになる。

 前年、自民党総裁選で敗北した中川は精神的に疲弊し、睡眠薬を服用するようになっていた。心身共に追いつめられていた。

「私ほど先生に尽くしてきた人間はいない。365日休まずに仕えてきた。13年間で休んだのは、女房と新婚旅行に出かけた3日間だけです。奥様からそのような汚名を着せられて、心底悲しかった」

1980年9月、中川一郎の秘書時代

 中川が亡くなったことで、次の衆議院選は、長男である中川昭一と、第1秘書として地元から大きな支持を集めていた鈴木が対決することは明らかだった。

 政界のご意見番とも呼ばれた、元自民党政調会長・亀井静香は、著書『永田町動物園』(講談社)の中で、鈴木についてこう記している。

《秘書時代の頑張りを見てきた俺は、宗男が後継として出馬するのは当然だと思っていた。しかし、“弔い合戦”において、自民党は昭一を公認した。
(中略)毀誉褒貶あるのが宗男という男だ。しかし、中川一郎先生に尽くした男だということは間違いない。滅私奉公とはあのことだ。宗男を持ち上げているわけではないが、あれほどの師弟関係を俺は他に知らない》

 バッシングに晒され、さらには自民党の公認もない。鈴木は出馬を躊躇した。

 ためらう背中を押したのが、今も鈴木を支え続ける典子夫人だった。

「女房も中川先生のもとで秘書として働いていた。明るい人ですから、中川先生も気に入っていて、私たちを指さして、『おまえたち一緒になれ』と言う。もちろん、女房は嫌がってましたよ(笑)。

 でも、先生は半年たっても、1年たっても、『一緒になれ』と言う。先生に尽くす姿を評価してくれたのか、彼女が結婚すると言ってくれました。政治家になれるかどうかもわからない人間によくついてきてくれたと思います」

 “恩師殺し”と罵られ、意気消沈する鈴木に、典子夫人はこう檄を飛ばした。

「一生、中川先生を死に追いやった男と呼ばれ続けますよ。勝ち負けじゃないんです。あなたは政治家になりたくて、中川先生の秘書になったのではないですか」

 鈴木は、無所属ながら出馬を決意する。1票でも多く獲得するために、北海道5区の隅々まで回った。当時の北海道5区の面積は、九州とほぼ同じ大きさ、日本の面積の9・5%を占める広大なエリアである。

 ほかの議員は1周しかしないところを2周した。これでもかというほど声を枯らした。結果、定員5人の中、4位で当選を勝ち取った。

 地獄から天国。子どものころの夢を、ついに叶えた。

情報操作で「疑惑の総合商社」だと言われて

1980年8月、足寄駅前での演説

「中川先生から教わったことは、“人には親切にすること”“困っている人の相談に乗ること”……たくさんあります。“頑張れば頑張った分、あるいは努力した分、必ず自分に返ってくる”とも言われました」

 亡き師匠の言葉を胸に、愚直に汗をかいた。あらためて自民党に入党すると、叩き上げながら'97年には、第2次橋本改造内閣にて初入閣(北海道・沖縄開発庁長官)。その後官房副長官、その2年後には小渕内閣で自由民主党総務局長(現在の選挙対策委員長、自民党四役)にまで上り詰めた。

「中川先生からは、『信念を持って堂々と筋を通しなさい』とも教えられた。政治家にとって最も大事なことの一つだと、私は思っている。しかし、信念を貫いたがゆえに、非難の的にされるとは、夢にも思っていなかった」

 小渕恵三から森喜朗へと首相が代わると、'01年に再び政権交代が起きた。小泉純一郎がその座を射止めると、鈴木に対する風向きが変わり始める。

最初の選挙のもよう。

「小泉さんは、地方を切り捨て、『強いものが善である』という新自由主義を掲げていた。私は、都会と地方、強い者と弱い者のバランスや公平性が重要だと抵抗した」

 当時の小泉純一郎の人気はすさまじいものがあった。発足時の支持率は、毎日新聞の世論調査では歴代最高の85%である。

 この人気にあやかって、小泉政権は外務大臣に、同じく国民人気の高い田中眞紀子を登用。同氏は、外務省を「伏魔殿」と呼ぶなど、外務官僚と激しく対立した。

「そこで外務省に担ぎ出されたのが私です。私も彼女の北方領土問題を含めた外交に対する認識、言動の浅はかさに閉口していたので、今まで築いてきた諸外国との関係性が揺らぐと思った。だから、私は彼女を厳しく追及した」

 ところが、田中は田中で、アフガニスタン復興支援会議へのNGO不参加の背景には、「鈴木が外務省に圧力をかけていた」と応戦。2人の対決は激化し、小泉は“喧嘩両成敗”と称し、田中を更迭、鈴木を衆院議院運営委員長から辞任させた。

「国民人気の高かった田中眞紀子さんを更迭に追いやった男として、私はお茶の間の悪代官になっていた(苦笑)。加えて、外務省の内部を知りすぎた男でもあった。お役御免ということで、追放しようというわけです」

 これを機に、外務省や北海道開発局などを舞台に、数々の利権絡みの疑惑─“鈴木宗男事件”へと発展していく。中でも、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」不正入札疑惑は、世間の注目を集め、マスコミは「友好の家」を「ムネオハウス」と命名するなど、面白おかしくはやし立てた。

 鈴木宗男の悪口を書けば、ワイドショーは視聴率を、週刊誌は部数を伸ばすことができたからだ。

 鈴木は、「受け取った金銭や献金は正規の政治活動資金であり、決して違法なものではない」と徹底抗戦した。しかし、2002年、逮捕、起訴される。

「政治資金として届け出をしていた400万円の受領が、検察によって“斡旋収賄罪”とみなされ、私は逮捕された。繰り返しますが、正規の手続きを踏んだクリーンなお金です」

 鈴木に対して、「あなたは疑惑の総合商社だ!」と言い放った辻元清美は、後年、国会でこう答弁している。

「私が指摘した点は裁判で出ておらず、確証がなかった点は認めざるを得ない。そのような言葉遣いをしたことを今では反省している」─。

 “鈴木宗男事件”とは、いったい何だったのか。鈴木は「冤罪」「国策捜査」だと主張する。関連する書籍は多数存在し、読者自身が真実を見極めればいいと思う。ただ言えることは、鈴木は勾留され、その後、刑務所へ収監されたということである。

「父親としては評価することはできない」

参議院議員・鈴木宗男(撮影/山田智絵)

「テレビをつけても、新聞をめくっても、街を歩いていても周りの人が『鈴木宗男って……』と話し、日本中が『鈴木宗男は悪』と信じ切っていたあの時間を覚えている人がいかほどいるでしょうか。

 私は、家族は、事務所や後援会は忘れることはありません。あの当時の空気感や鈴木宗男に向けられた視線が忘れ去られることに、悔しさすら感じます」

 鈴木宗男の長女である衆議院議員の鈴木貴子はこう振り返る。

「検察によるリーク情報を一方的に垂れ流してきたメディアが今、『貴子さんも、あの当時はさぞ大変だったでしょう。どんな気持ちで過ごしていましたか』と平気で聞いてくる残酷さ。

 誰よりもそのおぞましさを経験してきた鈴木宗男ですが、いつ何時も、そのメディアに一挙手一投足をここまで注目させ続けてきていることが、あっぱれです」(貴子)

初当選。左隣は妻の典子さん

 27歳のとき、貴子は初当選を果たす。自身が国会議員になる以前から、父である鈴木の遊説を手伝うなど、その背中を見てきた。刑事被告人時代、地元北海道・留萌の漁港で遊説していると、「根性を直してこい!」と老人から罵倒されたことがあった。その矛先は、鈴木ではなく、貴子に向かうものだった。

「私が教えたわけではないのに、貴子はその老人に対して、『わかりました。ありがとうございます』と深々と一礼していました。家族の存在なくして、今の私はありません。勾留されていたときも、娘は留学先のカナダから毎日FAXを事務所に送ってくれました」

涙をぬぐいながら振り返る

 ティッシュペーパーで涙をぬぐいながら、鈴木が当時を振り返る。一連の容疑は、検察庁の特別捜査部(通称「特捜部」)が捜査する特捜事件だった。凶悪事件の犯人ですら家族と面会ができる。だが、鈴木にはその権利がなかった。

「貴子が夏休みで帰国していることを知っていた検察は、『娘さんに会いたくないですか?』と誘惑してきた。娘に会いたい気持ちを逆手に取って、『罪を認めます』と言わせたいわけです。ですが、弁護士経由で妻から『罠だから耐えなさい』とのメッセージを受け、踏みとどまった。負けてたまるか─。その気持ちだけでした」

 罪を認めれば、釈放され、執行猶予がつく形で決着しただろう。だが、鈴木は手打ちを拒んだ。最後まで戦うと決めた。その結果、栃木県にある刑務所(喜連川社会復帰促進センター)で1年間の服役生活を送ることになる。

 政治家として自らの信念を曲げない。それは、家庭を顧みない生涯政治家であり続けることを意味する。貴子にとって、“父”としての鈴木宗男はどんな存在なのか?

「家族としては父親・鈴木宗男を諦めるしかありません。何度殺されても、そして生き返っても、鈴木宗男は政治家・鈴木宗男でしか生まれ変わることはできません。これまでも、これからも家庭人、父親・鈴木宗男として生まれ変わることはできない」

 2児の母でもある貴子は、孤独・孤立対策の議論をリードし、内閣官房に孤独・孤立対策担当室を設置した。家庭人の視点を持ちながら政策を実行する姿は、父を反面教師にしているからこそでもある。鈴木は、保釈後に胃がんが発覚した際、手術ではなく、直近に控える衆議院選挙への出馬を優先しようとしていた。それを止めたのが貴子だった。自身の命すら顧みず、鈴木は今も昔も政治の道を突き進む。

「鈴木宗男を核に一致団結した家族? 仲の良い親子? 否定するものではありませんが、『生まれ変わってもこの家族で』とは、私たち家族は誰も思っていないと思います。本人はどうかわかりませんが……。

 母は自らの選択をきっと何百回、何千回と悔やんだのではないでしょうか(笑)。母の苦労は言葉にできません。そして、きっと水を向ければ山のように愚痴は出てこようとも、最後は『でも、鈴木宗男は間違いなく誇れる仕事をしてきた』と言うのではと思います。その言葉を、“家族を顧みることのない免罪符”として、唯我独尊で生きる鈴木宗男を父親として評価することはありません」(貴子)

 ただ、23年ぶりに自民党議員として国政に復帰した父親に期するものはあるという。

「選挙中、鈴木宗男の演説を見た青年局の仲間が、『魂が震えた』『これが政治家の演説か』と感嘆していました。今、自民党に欠けているものは、そうした“政治家の気概”なのだと思います。何歳になろうが常に全力、手を、気を抜くことを知らぬ、『これぞ叩き上げ』という鈴木宗男の熱量は、スマートではあるもののどこか物足りなさが残る若手政治家にとって、いい刺激になってくれると」(貴子)

 そして、こう付言する。

「言葉が足りない、もしくは本意や本心を伝えるためにも必要な前提がおろそかになっていて誤解を生んでいることはもったいない。何よりも、その指摘に対して『わかる人はわかる』と意に介さない姿勢に、“限界”を感じます。定年の特例で公認され、議席を得て、自民党に議員として復帰したのなら、“生涯政治家”の前に、“生涯学習”の姿も見せてほしい」(貴子)

 血は水よりも濃い─。

ファーストネームで呼ばれる政治家

北は稚内から南は波照間島まで、2万139キロというとんでもない遊説ぶりに「影武者がいるのでは?」と話題になった

 2万139キロ。今回の参議院選挙期間中に、鈴木が遊説した総距離である。わずか17日間で北は稚内から南は波照間島まで、地球の半周分に相当する距離を踏破した。

 後期高齢者にもかかわらず、代名詞である選挙カーから身を乗り出す“箱乗り”は健在。昼食は、ほとんどコンビニの菓子パンで済ませた。そのバイタリティーから、一部では影武者説まで浮上したほどだった。

「毎日牛乳を飲んでいる人間より、毎日牛乳配達をしている人間のほうが強いんです(笑)」

 健康の秘訣を問うと、農家出身、叩き上げの鈴木らしい答えが返ってくる。

「高齢の政治家には、政界から引退してほしい」という声もあるだろう。だが取材中、ひっきりなしに鈴木のガラケーは鳴り、短い電話一つをとっても、「この前の〇〇、助かりました」と具体的なエピソードを交えながら謝意を、ねぎらいの言葉を、紡いでいた。

 鈴木は、組織や団体割り当てが一切ない中で選挙戦を戦った。獲得した約13万票は、その回答である。

 北海道帯広市に生まれた筆者は、気がつくとこう切り出していた。

「宗男先生が造った北海道の高速道路。20年前、私の母親は、『こんな無駄なもんはいらん』と話していたのですが、今回、宗男先生に取材する旨を伝えると、『札幌まで2時間半で行けるようになって、大好きなファイターズの応援に行きやすくなった。お礼を言っておいて』と言われました」

 照れくさそうに、「そう言っていただけるのはありがたい」と鈴木は笑った。

「『鈴木の造った高速道路は車より熊の渡る数が多い』なんて、当時の石原伸晃規制改革担当大臣から言われましたが、'16年8月、北海道に4つの台風がきた際、帯広、釧路、根室、網走管内に通じる国道、JRは不通になり、唯一使えたのはこの高速道路だけでした」

 “鈴木宗男事件”の中で、公共事業=利益誘導といわれ、バッシングを受けた。だが、この道路のおかげで北海道の利便性は格段に向上した。高校生のときに誓った、「都市と地方の格差をなくしたい」という思いを、非難を浴びながら形にしてきたのが、鈴木宗男という政治家なのだ。

2019年8月に衆議院議員となった貴子と親子で登院

 参議院議員として任期は6年。言葉に熱を込める。

「まずは、長年取り組んできた北方領土問題を前進させること。元島民の平均年齢は90歳です。島民の想いを叶えるためにも、北方領土と向き合っていかないといけません。

 そして、若い政治家を育てていきたい。今の自民党は、1000万円、2000万円といったお金の届け出をしていない裏金議員が候補者として選挙に出ている。届け出をした400万円で政治活動を奪われた私からすれば、自民党はどうしてしまったんだと。若い議員に、政治家とはどういう存在なのかを伝えていくことも、私の使命だと思っています」

 先の選挙は、「奇跡の当選」と呼ばれた。だが、悪名、汚名を着せられ、政治家として「終わった」と思われた男が、道を歩くといまだに「ムネオだ!」とファーストネームで呼ばれる。そのこと自体、奇跡だろう。60年前の少年の志は、いっこうに枯れることはなく、今なお政治の大地に、決して倒れることのない根を張っている。6年間でどんな花を咲かせるのか─。鈴木宗男の信念は揺らがない。

<取材・文/我妻弘崇>

あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(共に星海社新書)がある。