シンガー・ソングライター白井貴子(撮影/近藤陽介)

 白井貴子と聞いて思い浮かぶのは、ヒット曲『Chance!』と、代名詞である「ロックの女王」「学園祭の女王」だろう。1981年のデビュー時、まだ日本人で女性がロックをやるなんて憚られる時代に女性ロックシンガーとしての地位を確立して、時代を切り開いた。

 現在ではミュージシャンにとどまらず、生まれ育った神奈川県の「かながわ環境大使」としてさまざまな環境保護イベントに携わるほか、日本全国の自然や伝統工芸などを守る人々と触れ合い、小学校の校歌を作詞、作曲するなど、人と自然に寄り添う活動を続けている。来年、デビュー45周年を迎えるにあたって「白井貴子&THE CRAZY BOYS 45周年に向かってカウントダウン」と掲げたライブを横浜と大阪で控えている。今なお多方面で活躍している、そのバックボーンを追ってみた。

アイドル的な雰囲気を求められて

10歳ぐらいのころ、明治神宮で母、弟と記念撮影

「私は神奈川県藤沢市生まれで、父も母も歌が大好きでした。学生時代の父は普通の大学生でしたが、声がいいからアナウンサーのテストを受けてみろと先生に言われて、NHKのアナウンサー試験を受けたら最終面接あたりまで進んだそうです。母はずっと昭和気質の頑固な父に尽くし、家事すべてをきちんとこなして家族に尽くした人でした」

 音楽に目覚めたのは、ビートルズとの出合いだ。

「小学生のころ、当時大学生の叔父・叔母と共に暮らす大家族で、叔父はビートルズの大ファン。いつも家にビートルズが流れていました。夏には江の島の海の家でアルバイトしていたので、よく私も遊びに行きましたが、ちょうどサンオイルブームで江の島の海は一面ギトギト。『なんで大人はこんなことするの?』と。私の環境マインドの原点かもしれません」

 幼少期からピアノを習い、学生時代もバンド活動をしていた。プロを夢見た十代だったと思いきや、まったくそんな気はなかったという。

小学生のときは女子サッカー部に所属

「ピアノを習っていたのは、父が昔気質の性格だから。男はスポーツ、女はピアノという単純な理由でした。だから昔はピアノの練習が大嫌いでしたね。普通に会社員として働くよりは、お花屋さんか、ピアノ教室の先生とか音楽に関わる仕事がしたいという感じでした」

 北山修のヒット曲やショーケン(萩原健一)、ジュリー(沢田研二)などのグループサウンズは大好きだったが、当時の流行だったアイドルには無関心だった。

「京都に引っ越した中学、高校時代は、一気にデヴィッド・ボウイやT―REXのグラムロックに夢中になりました。日本のバンドのコンサートにも行きましたが、サディスティック・ミカ・バンドとキャロルの対バンは衝撃でした。

 その後、ヨーコ・オノさんが日本に来ると知り、少しでもジョン・レノンに近い人に会いたいという思いから、友人と『ワンステップ・フェスティバル』を見に郡山へ遠征。盛り上がってはっちゃけた姿が『女子高生もノリノリ』みたいな見出しで週刊誌に掲載されて、地元で知られてしまった(笑)。'74年だからまだ15歳!」

 そんなロック少女の白井は'81年に当時のCBSソニーからメジャーデビューを果たした。しかし当時は松田聖子がブレイクしてアイドル全盛期を迎えていて、ルックスの良い白井も、ソロ歌手としてポップでキャッチーな雰囲気を求められた。竹内まりやもデビューから続くアイドル的活動に悩んだ末、'81年に活動停止した。そんな時代だった。白井のデビュー時のキャッチコピーは、“世界一キュートなシンガーソングライター”だった。

「日本の音楽に疎い私がなぜ、ソニーの大プロデューサー、酒井政利さんの部署からデビューすることになったのかは謎ですが、ちょうど山口百恵さんが引退された直後で『同じ部署、同い年なのにこの違いはすごい』と感じたことが懐かしいです。

 基本的にフォークソングが苦手で。ボブ・ディランですら、なんであんなベチャッとした歌い方をするのと思いました」

デビュー後3年間はヒットに恵まれず

大学のジャズ研に加わり、慶應大学三田学祭のステージにて。「モッキンバード」というバンドで初めてボーカルを経験

 白井がデビューに向けて所属したのは、フォーク系アーティストの名門である「ヤングジャパングループ」という事務所。アリス、海援隊、バンバン、岸田智史(現・敏志)などが在籍。白井は佐野元春とともにロック色の強い新勢力として成功し、渡辺美里、岡村靖幸、KAN、谷村有美、森高千里などが育った。

 事務所は子会社のツーバン・メイハウス(現・アップフロントグループ)を立ち上げ、シャ乱Qやモーニング娘。で、一世を風靡した。しかし、白井が在籍したときは事務所がまだフォーク寄りであり、女性アーティストを育てるノウハウもなかった。

「1浪してしまい大学受験する際、100万円くらい必要だったので、八百屋さんでアルバイトをしました。そこのオーナーの奥様が当時人気絶頂のアリスの大ファンで、一日中アリスをラジカセで流しているんですよ。私が大根を洗っているときにずっと、大ヒットした『チャンピオン』の“ライラライラライ”ってフレーズが店内に響いていて、もうやめてー!って気持ちでした(笑)。

 その後、デビューにあたって事務所に挨拶に来なさいと呼ばれ、「白井貴子と申します。みなさまよろしくお願いします」とお辞儀をして顔を上げたら、そこにはアリスの谷村新司さんが(笑)。驚きましたが、人懐こい笑顔で迎えてくれました」

 手をたたいて笑いながら話す、屈託のない表情。「ロックの女王」でありながら、ナチュラルな魅力を持つところが、新しい時代のクイーンとして時代に刺さったのだろう。また、この親しみやすさは'99年から26年もの間、お茶の間に浸透してきた「花王ビオレu」のあけみママの声優としての活躍とも重なる。

 事務所には海援隊も所属していて、武田鉄矢のラジオでアシスタントパーソナリティーを務めるようになった。武田がいつも坂本龍馬の話をするので、きちんと理解できるようにしておかないと、と白井は龍馬について学ぶうちに、自分自身がその生き方に心酔するようになった。

 そして白井は、'80年にレコードデビューした事務所の先輩である佐野元春のコーラスを経て、翌年にデビューしたが、事務所は男所帯で白井は女性第1号。

「スタイリストの方はいますか?」と聞いたら「そんな予算はない! ジーパンとTシャツでええやないか」と返されたという。

「今から思えば女性アーティストの売り方の経験がない事務所でした。とにかくシングルヒットを飛ばす一念でしたが、2年たっても鳴かず飛ばず。仕方なしに衣装も母に縫ってもらいました。いちばん安く、思いどおりの衣装ができると思ったからです」

「学園祭の女王」から「ロックの女王」へ

'85年に結成した「白井貴子&THECRAZYBOYS」

 '84年、9枚目のシングル『Chance!』がシチズン時計のCMソングに起用され、オリコン最高12位、約10万枚のヒットに。

「私は何がなんでも売れたいというよりも自分の手で明るくて元気でキュートなポップロックを作りたいと思っていました。世界中でヒットした『上を向いて歩こう』みたいなシンプルで誰もが歌える希望となる音楽を自分の手で作りたい!と」

『Chance!』は、まさにチャンス。作っているときからこれはいけるな、と手応えを感じたという。

「わかりやすいシンプルな曲を作りたいと思っていたので、日本語として通用する英語を探したんです。そこでチャンスという言葉が浮かびました。誰もが使う言葉で、英語なんだけど日本語にもなっている。私にとっても、探していたチャンスでもあると。坂本九さんと同じように、人に勇気とか元気とかを与えて、上を向かせる曲にしたいという思いも込めて、やっぱりチャンスがいいなと」

 この曲のヒットによって、大学の学園祭に最も出演した「学園祭の女王」と呼ばれ、いつしか「ロックの女王」へと成長していった。そして念願だった自身のバンドである「白井貴子&THE CRAZY BOYS」が徐々に形になり、『Chance!』を含む5枚目のアルバム『Flower Power』からバンド名義で発売することに。

 このアルバムを引っ提げたツアー用のパンフレットやグッズ、ポスターなどは、人気イラストレーターの安齋肇によるもの。以来、親交を深めている。

「お転婆なお嬢様がロックにハマっちゃって困ってるんだけど、なんとかならない?

 サイコーにイカした事務所でしたよ、男だらけのロックの猛者を集めたような。それが初めて女性アーティストを扱うことになって、猛者たちは戸惑ったみたい。白井さんはいかにも素敵なお嬢様って雰囲気だし、ロックのイメージになかったタイプだから。

 だから彼女は頑張ったんですよね、大変だったと思います。ロックのカテゴライズってアタマ固いから。白井さんのロックがポップで支持されたのは、事務所も、スタッフも、ファンも、彼女をアーティストとして尊敬していたし、何より彼女が頑固だったからじゃないでしょうか。

 いまやビートルズがスタンダードになったように、いま多様化しているこの音楽世界の中で、白井貴子というスタンダードを築いてほしいと願ってます。それができる人だから」(安齋)

 当時は人気アーティストによるラジオ番組が人気で、白井は深夜番組の王者である『オールナイトニッポン』の第2部を任された。

「ラジオも毎週3時間の生放送で大変でしたが、楽しかったですね。自分がティーンエイジャーのころ、大好きで夢中になった曲を全国のリスナーに聴いてもらえるのがうれしかった。ラジオを通じて洋楽が好きになったって、いまだに言われます」

『白井貴子のオールナイトニッポン』は、毎週火曜日午前3時からオンエア。桑田佳祐の第一部に続いて、第二部を担当していた。'85年、桑田の放送が大幅に時間延長して、白井の番組開始時間に食い込んでしまった。そのとき、桑田がそのまま白井の番組に出演。即興でビートルズナンバーを2人で弾き語りして大きな話題となった。

 鈴鹿サーキットで毎年開催されているオートバイレースの「鈴鹿8時間耐久ロードレース」に出場していた、島田紳助氏率いる「チーム・シンスケ」に感銘を受け、'86年に発売した『NEXT GATE』で『ザ・ベストテン』の名物コーナー「今週のスポットライト」で番組初出演。『夜のヒットスタジオ』にも出演し、日本武道館公演を経て、'86年8月には西武球場(現・ベルーナドーム)で単独ライブを実現させた。

豪雨の中、夜通し行われた野外ライブ

'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った

 '87年8月、広島サンプラザホールで山本コウタロー、南こうせつを中心とした「広島ピースコンサート〜平和がいいに決まってる」にはバンドブーム後の'90年代も日本にいる限り参加し、最終的には女性で最多出演。安全地帯、尾崎豊、RED WARRIORS、HOUND DOG、久保田利伸らと出演。このイベントでは、'93年に「PEACE BIRDS ALL―STARS」名義で泉谷しげる、大友康平、中村あゆみ、南こうせつらとテーマ曲『青空の下のHEAVEN』をリリースしている。

 さらに同年同月22〜23日には、熊本県阿蘇郡久木野村(現・南阿蘇村)で7万人を動員しながらも、集中豪雨に見舞われた12時間イベント「BEAT CHILD」にも出演。

「オールナイトニッポンの本番日、楽屋で選曲作業をしていたときでした。いきなりデビューしたての尾崎豊くんが『白井貴子に会わせろ!』とノックもせずに入ってきたんです。あまりにも突然で驚いてしまい、帰ってもらいましたが、そのすぐ後に熊本のイベントで再会したんです。お互い微笑み合っただけで会話はありませんでした。もっとゆっくり話すことができたらよかったなと思います」

 その熊本でのイベント「BEAT CHILD」は豪雨の中を朝まで12時間行われ、今では伝説として語り継がれ、2020年には封印されていたフィルムが劇場限定公開された。

 18時開演、20時ごろの岡村靖幸のステージの途中で激しい土砂降りに。次の出番を待つ白井は、約1時間半の中断を余儀なくされる。結果、3万人収容予定だった阿蘇山麓の高原に約7万人が集まったものの、真夜中に下山するのは危険で収容させる宿もない、と警察がイベントを朝まで続行させるように指示。白井はまったく視界のない状態で、モニターもバンドメンバーもテントに避難する中、演奏をすることに。

 豪雨のステージで全身ずぶ濡れの白井が転びながらシャウトしている姿を、バックステージで全出演者が食い入るように見ている。

 当時、特に過激なパフォーマンスと荒々しい客席の盛り上がりが話題だったTHE STREET SLIDERSの蘭丸ですら、何が起こっているんだという、まるで宇宙人や天変地異に遭遇したかのように目を見開いて硬直して見ていた姿が、劇場スクリーンに映し出されていた。

「あのとき、バックステージもドタバタで、出演者もスタッフも騒然としていました。結局、警察の要請で再開することになって、いざステージに上がろうとしたら関西出身の事務所の社長が、『お客さんがずぶ濡れなんだから、貴子もバケツで水をかぶって全身ずぶ濡れになれ!』と檄を飛ばすんです。

 もうとっくに私も豪雨でボロボロでしたが、思わず『ハイ!』と返事をして水のたまったバケツを持ち上げて頭からかぶろうとしたら、重くてうまくいかなくて転んじゃった(笑)」

 白井のステージによってその後に続くHOUND DOG、BOOWY、尾崎豊、渡辺美里、佐野元春らが発奮し、イベントは伝説化された。このステージパフォーマンスによって、白井はロックの女王としてさらに注目を集めた。

 しかし、人気が出るのに比例して、ラジオの深夜放送を2本、年に3枚ほどのシングル発売、毎年のアルバム発売、年間200本の全国ツアーというサイクルに、だんだん疲弊していった。

移住先のロンドンで新たな光が

'80年代、「ロックの女王」として音楽シーンを彩った

 そして30歳が近づいて将来を考えた結果、海外で挑戦したいという気持ちも重なり、いったん活動停止して、'88年にレコード会社と事務所の契約を終えてロンドンへ移住。

 共に移住したTHE CRAZY BOYSのギタリストである本田清巳は、このままだと白井は倒れて死んでしまうのではないかと危惧したほど心身ともに疲弊していたと語った。男女雇用機会均等法が制定されたのは、'85年。それまで女性には厳しい時代の中、白井は戦ってきた。

「日本である程度やれることはやりきったと思ったので、一度しかない一生を思うと、海外に出てみたかったのと、特に当時はまだまだ日本の女子の社会的状況は30歳になったらこのままどうするの?的な追い詰められる空気感があった時代でした。でも私は30歳を過ぎても自分の音楽を追求したかったので、大好きなアーティストがたくさん生まれたブリティッシュロックの地で暮らしてみよう、とイギリスへ移住しました」

ロンドンに移住時、古道具店で珍しいアンプを見つけて

 一念発起して渡英した白井に、言葉の壁が立ちふさがる。

「現地で音楽面から生活面まですべてサポートしてくださった、加藤ヒロシさんという方がいまして。彼は奥様と一緒に戦争孤児のエミーという少女を養子に迎えていたんですね。ある日、まだ3歳のエミーがテレビを見て笑っていたんです。

 でも、毎日必死に英語の勉強をしているのに私にはその英語がわからなかった。結局、30歳を過ぎてから英語を勉強しても、3歳がわかるものすらわからないんだと打ちのめされて、英語の習得は諦めました

 さらに、海外マーケットへの挑戦ということも、世話になったソニーのディレクターに相談をしたら、今の海外セクションは松田聖子の海外進出プロジェクト一色のため対応できないという回答が。しかし、そんな状況でも差し込む光を見つけた。

「英語学校に通っていた日本人女性の多くが、日本の会社では、ある程度の年齢になるといわゆる肩たたきをされ、お払い箱となって居場所がないというのです。私と同じ悩みを持ち、新しい環境や武器を求めてこうして海外にやってきた女性たちを見て、応援する気持ちが生まれました。

 音楽面でも、もっと日本人の心に残るものを作りたい、坂本九さんや北山修さんのような、愛される曲を歌いたい、と思うようになりました」

 この思いは'16年に北山と共作した『涙河』へと発展していくが、その前に、'90年に帰国した彼女の目に飛び込んできたのは、バブル狂乱で浮かれまくる日本の姿。誰もが派手に遊び回り、大量消費する時代。環境保護どころか、環境破壊の限りを尽くしていた。

お蔵入りにしたデモテープ

'25年7月、長野県で行った自然体験イベント「PEACEMANCAMP」in小谷村2で参加者のファンたちと

「イギリスは400年前の産業革命で環境を大破壊してしまった経緯から、今では環境意識がとても高い国だと感じました。私が渡英したときはチェルノブイリ原子力発電所の事故直後だったこともあり、ロンドンでそんなことを歌った曲も生まれて、コツコツとデモテープを作りましたが、『今、この曲を日本で出しても焼け石に水だ』と思い、お蔵入りにしました」

 '93年に白井は、陰日なたで長年支えてきてくれた本田と結婚。同年、横浜市立倉田小学校の校歌を依頼され、『大好き 倉田小』を作詞、作曲。以降、全国の学校や自治体などから楽曲制作依頼が届くようになった。

'93年、ギタリストの本田清巳と鶴岡八幡宮で挙式

 2000年代に入ってからも、南伊豆に9900平方メートルもの広大な森を購入し、「マーガレットグラウンド」と名づけ、「PEACEMAN CAMP」などさまざまな自然体験イベントを行っている。

 '11年、東日本大震災の被災地で復興支援に。現地で「心を励ます歌が欲しい」という声に応え、翌年に『陸前高田 松の花音頭』を制作。その被災地で、豊中市社会福祉協議会の勝部麗子さんと出会う。

長年のバンドメンバーでもある夫の本田と。’22年、南伊豆の「マーガレットグラウンド」で

「勝部さんが『8050問題』に取り組まれていて、50代のひきこもりの人が150万人も日本にいることを知りました。50代といえば、私のファンの皆さんの年齢のど真ん中。そこで音楽を通じて一緒に取り組めないかと思い、ご連絡したのが始まりでした」

 勝部さんが常勤している大阪府豊中市は、白井の祖母の実家があり、母の故郷である。そこには服部緑地 日本民家集落博物館がある。

「お母様の介護と自身の音楽活動の間で悩まれていました。そこでお母様が幼いころから遊び親しんだ故郷の地で、それも博物館の茅葺き屋根の民家で歌ったら素敵じゃないかとイベントの提案をしました」(勝部さん)

 '80年代の全盛期にあらゆるステージ衣装を縫ってくれていつも応援して支えてくれた白井の母、光子さんは10数年間、リウマチの痛みに苦しみ、パーキンソン病と診断された。そこから白井が藤沢の実家に戻って同居し、在宅介護の生活を送ったのち、'22年5月に息を引き取った。

「2階で楽曲制作中に母の苦しむ声が聞こえ、下におりて身体をさすりながら制作中の歌を歌って聴かせ、痛みが少しでも和らぐようにと願いました」  

 このときに制作していた曲は、『Mama』というタイトルで'19年に開催された還暦ライブで両親出席のもと、お披露目された後、'23年にデジタル配信された。

 その年、豊中市服部緑地 日本民家集落博物館 日向椎葉の民家において、「『ありがとうMama』母の日スペシャルイベント」が初開催され、現在も続いている。

母への思い出を綴り、展示会も開催

約10年間、藤沢市にある実家で母・光子さんの在宅介護を続けた

「介護の様子をSNSに連日書いてみたら、同じく親の介護を経験した全国の人からの感想や励まし、もっと親を大事にしないといけないと思ったという声などが届き、孤独な戦いだと思っていた自分を勇気づけてくれました」

 母との思い出や介護の日々は、初の著書として'23年に『ありがとうMama』という本になった。

 さらに、'19年6月に京都佛立ミュージアムにて「母 TSUNAGU 未来展」を開催。

「日本中を駆けずり回り、ロックの女王と呼ばれるまでの過酷な状況を支え、ステージ衣装を縫ってくれた母の針箱とミシン。その母を育て、やはり家族全員の着物を縫った大阪の祖母・千代が残した針箱。その引き出しの中に大切にしまわれていた、たくさんの糸巻きに小さく母の名前や、私の名前が書かれていました。

 それを発見したとき、いつも針仕事をしていた祖母や母の姿が思い出され、何も針仕事のできない私が、これを捨ててしまったら、これまでの何千年、何万年という人間の長きにわたる手仕事をすべて捨てることになる。人間は日々進化しているようで、むしろ退化しているのかもしれない。こうした『手仕事の偉大さ』を伝えるために個展開催を思いつき、展示会を開催しました」

'24年に開催した「母TSUNAGU未来展2〜RockQueenの宝物」会場入り口には思い出の品々が

 同ミュージアム館長であり、京都にある長松寺の住職、長松清潤さんも、白井との出会いは東日本大震災の被災地支援。ロックの女王が被災地で埃まみれで被災した人々を励ます姿に感動した。

「支援活動のみならず、ずっと前から環境保護活動や地方創生活動に取り組み、さらに看護や介護など家族が抱えるたくさんの課題に真剣に取り組んでおられました。持続不可能な世界の中で貴子さんの提案する『希望』に感動するようになりました。貴子さんのメッセージは仏陀の『生きとし生けるものが幸せでありますように』という教えと重なります」(長松館長)

 白井は'24年から毎年1月にKT Zepp YOKOHAMAで大規模ライブを開催している。毎年このライブ会場では、全国で知り合った環境保護や伝統工芸などの個人や団体に出展してもらい、SDG'sキャンペーンを展開している。

 さらに、「日本は海外よりも何でも30年遅れている」と痛切に感じている白井は、ようやく環境問題と向き合うようになった今の日本ならリリースする価値があるとみて、ロンドンレコーディングでお蔵入りさせた曲たちをまとめたアルバム『NOAH』を準備中。アルバムタイトルに込めた思いを語るときの目が印象的だった。

京都佛立ミュージアムの長松清潤館長と、テレビ番組の収録

 デビュー時のディレクターが沖縄出身で、ひめゆり学徒隊だった母親と沖縄で会ったエピソードを語ったとき。また、「広島ピースコンサート」についてのさらなる言及。

 海外の平和や環境に対する取り組みと日本の意識の差を話すときの顔つきは、キャリアを重ねた自分がこれから何をすべきか、何ができるのか、まだやれていないことは何か─そう自身に問う目だった。

 取材当日はくしくも広島と長崎の原爆投下の日に挟まれた日。終戦80年で多くのメディアや団体が平和について語っていた。45周年に向けて「未来へ咲かそう!フラワーパワー」を合言葉にライブ活動を展開する白井は、2027年に横浜市で開催される国際園芸博覧会(GREEN×EXPO2027)の応援団長にも就任した。

 今後も目が離せない。

《Information》
●2025年11月16日(日)大阪・松下IMPホール
白井貴子&THE CRAZY BOYS
『「NEXT GATE 2025 OSAKA〜’85大阪城西の丸庭園 再現ライブ!〜」

●2026年1月24日(土)横浜・KT Zepp Yokohama
白井貴子&THE CRAZY BOYS
『RASPBERRY KICK 再現ライブ!&SDGsカーニバル』

2016年発売のロングラン・アルバム『涙河』が8月25日から配信中

<取材・文/山本 航>

やまもと・わたる ライター(音楽、映画、企業広告を中心にファッション、グルメ、政治経済、地方行政、福祉、教育、人権、国際問題など多岐にわたる)、音楽・映画プロデューサー、作詞家(日本作詞家協会新人賞・優秀作品賞受賞)、俳優、ハワイアンアーティストなど多方面で活動。