
直木賞受賞作『ホテルローヤル』をはじめ、主に北海道を舞台に生々しくも情緒的な人間の姿を書き続けている桜木紫乃さん。最新作『情熱』は、人生の折り返し地点を過ぎた人々が生き惑う姿を描く、6編の短編が収められた連作集であり、小説30冊目の本でもある。
「私は今年で60歳を迎えたのですが、収録作は50代後半の3年間に書いたものです。偶然にも6編すべてが文芸誌の新年号に掲載された作品で、執筆したのは年末進行で慌ただしい時期でした。一冊にまとまったものを読んで“この短編を書いた年は自分の仕事に満足していたんだなぁ”と感じ、振り返りの多い本になりました」
直木賞作家、“文通世代”の思い
冒頭の一編『兎に角』は、仕事で40年ぶりの再会を果たしたカメラマンの男性とスタイリストの女性の物語だ。
「普段から洋服の相談をしているスタイリストさんと雑談をしているときに思いついた1本です。年の瀬も迫っている時期に書いた短編というのは、案外身近なところで題材を拾っているんですね」
小説内の二人には中高生のころ、文通を通して心の距離を縮めていた過去がある。
「私が10代のころというのは雑誌に文通コーナーがあり、住所や名前が載っていた時代でした。メールもLINEも便利なものですが、文通世代としては、そのスピード感についていけない部分もあるんですよね。考えていることや思っていることを手紙に書いて読み返し、丁寧にたたんで封筒に入れてポストに入れる。こうした心の手間暇をかけることって、案外大事なことだと思うんです」
同棲する70代のホスト・朗人と美容師の江里子の暮らしを描いた『ひも』は、収録作の中で一番、週女世代に刺さる作品かもしれない。朗人は江里子が脱ぎ捨てたショーツライナーつきのパンツを洗い、出勤する江里子に弁当を持たせ、仕事で疲れた江里子にアロママッサージを施す。
「朗人のような人がそばにいてくれたら、いい仕事ができるだろうなって思うこともあります。独居老人が増えている今、70代の朗人とバリバリ働く江里子の二人は、利害関係が一致した間柄としてきれいに円を描いているのではないかと思います」
大竹まことさんの言葉がヒントに
ちなみにこの作品は、大竹まことさんの言葉からヒントを得たという。
「私が尊敬している方のひとりです。ラジオのお仕事のあとにケーキをごちそうになっているとき、『次は何を書いたらいいでしょう?』と尋ねたところ、『そうだな、老人の恋だな』、『ヒモとかいいんじゃないか』と言われ、物語が立ち上がりました。大竹さんは日々、言葉を使ってお仕事をされているので、何げないひと言が心にすごく響くんです」
出世街道から外れた人事を告げられた50歳の裁判所職員・青田芙美が、小説家の妻を亡くした弁護士・竹下一人との交流を通して人生を見つめ直す『らっきょうとクロッカス』は、収録作の中で一番最初に書かれた作品だ。

「実は、担当編集者が『すばる』の編集長になりまして、ぜひ『すばる』で書きたいと思って、頼み込むような形で書かせてもらったのがこれでした。らっきょうの漬け方を友人に教わったり、裁判所勤務だった夫に裁判所の人事について聞いたりと、かなり気合を入れて書きました。収録作の中でこの作品だけ違う重さなので、単行本の担当者はどこに挟み込むかをずいぶん悩んだみたい」
季節の食材を大切にする芙美は、初夏になるとらっきょうを漬ける。そして、竹下の妻の遺作のタイトルは『クロッカス咲く』。ふたつの球根植物は、物語後半でひとつにつながる。
「クロッカスは雪解けの季節になると近所にたくさん咲く花で、見ると『春になったな』と思うんです。同時に『しぶといな』とも思っていました。この作品では、らっきょうのことは書き込むつもりでしたが、思いがけずクロッカスとの共時性が生まれました」
表題作でもある『情熱』の主人公は還暦目前の小説家・島村由多加で、その経歴は桜木さんを彷彿とさせる。「毎年ひとつでも何かに挑戦していないと、仕事がなくなるんです」という島村のセリフは、桜木さん自身の思いでもある。
「一冊ごとに何かしらの挑戦をしているつもりでいます。今でもおつきあいのある編集者というのは、それがたとえ失敗していたとしても、私が挑戦したことに気づいてくれた人たちだと思っています。だからお仕事のお声がけをいただけると、“私の挑戦に気づいてもらえたのかな”ってうれしくなるんです」
そう話す桜木さんに本作での挑戦を尋ねてみた。
「50代終わりの3年間は週刊誌連載を続けていまして、収録作はすべて連載の原稿と並行して書いたものなんです。筆の遅い私にとって、長編の執筆中に短編を書くというのは切り替えが難しいんです。でもちょっと無理をしてみようと。あの時期にふたつの短編を書くのはしんどかったですが、おかげで少し自信がつきました」
自分の心を「波立たせないこと」
60歳を迎えた今、桜木さんはラクな状態で小説に向き合えているという。
「フィクションを書くためには自分の心を波立たせないことが大切で、若いころはそのための努力が必要でした。齢を重ねてよかったのは、波立たない状態がスタンダードになってきたこと。おばちゃんのメンタルはけっこう強いみたいです」
最後に、桜木さんと同世代も多い週女読者に向けてコメントをいただいた。
「60歳前後になると、いろいろありつつ少しラクになってきている年代ではないかと思います。お互い、背伸びせず卑下もせず、自分と楽しくつきあっていきましょう」
最近の桜木さん
「53歳の誕生日からアルトサックスを習っています。7年たってもいまだに下手ですが。先日、先生と一緒にカラオケボックスに行き、好きな曲を歌うようにサックスを吹いたんです。歌詞の色っぽさもあって、中村雅俊さんの『恋人も濡れる街角』は腕が足りないところをカバーできて、“けっこういいかも”って思いました(笑)」
今週の推し本
『情熱』桜木紫乃 集英社 税込み1815円
話題の本棚

小説『一橋桐子(79)の相談日記』原田ひ香 徳間書店 税込み1925円
老朽化した猿山団地には、管理人がおらず、誰が住んでいるのか、何人住んでいるのかもわからない始末。そんな団地の管理人として白羽の矢が立ったのが、クドオ・ワークスの清掃部チーフとなった79歳の一橋桐子。名簿作りから始めてみると、次々と“住人の闇”が見えてきた。テレビドラマ『一橋桐子の犯罪日記』原作の待望の続編。平均年齢60歳“高齢化団地”の山積みの問題を一橋桐子は解決できるか!?

旅『中央アジア紀行 ぐるり5か国60日』白石あづさ 辰巳出版 税込み2200円
2か月間の中央アジア縦断の旅で切り取った「今」を、一冊に凝縮。シルクロードが織りなす歴史と、急速な変化を遂げる現代が交錯する中央アジア全5か国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス)。中央アジアの秘境から未来都市まで、その息をのむような美しさと人々のリアルな暮らしを、650枚を超えるカラー写真とともに、著者ならではの研ぎ澄まされた感性で映し出す。
取材・文/熊谷あづさ 写真/chihiro.