歌手・横山剣(撮影/近藤陽介)

 手に入れたばかりの真っ赤なフォード・ムスタングGTに身を沈めるとイグニッションキーをひねり、静かにアクセルを踏み込んだ。

 棕櫚の葉の間を飛行機がゆっくりと横切ってゆく。

 進駐軍によって「アベニューD」と呼ばれた横浜・本牧通りには、かつて米軍専用ガソリン・スタンド、ビル・チカリング劇場、PX、ボウリング場が立ち並び、金網フェンスの向こう側は、アメリカンなハウスが立ち並んでいた。

 やがて夜の帳が降りると、VFW(在日米軍軍人専用クラブ)、ベニス(イタリアンレストラン)、IG(イタリアン・ガーデン)といった老舗のナイトスポットが目を覚まし、深海の発光体のような、淡く儚げな光を放ち、幻影のように浮かび上がる。

横須賀に向かって車を走らせる横山剣

 ─本牧には、磁場を狂わせる何かが潜んでいる。

 本牧に暮らす横山剣(65)はその日、国道16号線を横須賀に向かって車を走らせていた。

 連続する最後のトンネルを抜けると、左手に横須賀の軍港が広がる。この景色が好きだ。

 腹に響くV8エンジンの奏でるサウンドがなんとも心地よい。その音に誘われ突然、メロディーと歌詞が降ってきた。

トンネル抜ければ

海が見えるから

そのままドン突きの

三笠公園で

 一気にサビまでまるで一筆書きのように歌詞とメロディーが湧き上がった。

 これぞ神のみぞ知る僥倖。

 この曲が希代の脚本家・宮藤官九郎の目に留まり、2005年に放送された大ヒットドラマ『タイガー&ドラゴン』のオープニングを飾る。当時、横山剣45歳。

 ここから東洋一のサウンドマシン、クレイジーケンバンド(CKB)の快進撃は始まった。

横山剣の父

横山剣、11歳。このときすでに作曲を始め、作曲家になるという夢を持っていた

 剣がこの世に生を享けたのは、1960(昭和35)年7月7日。

 当時の名前は、田寺正佳。

 実父・正虎は、テレビでタイトルテロップなどを書く美術の仕事をしていた。独立後、橋幸夫の『霧氷』や演歌歌手の販促グッズをはじめ手広くビジネスを展開。韓国・ソウルの明洞で現地法人の会社をつくり、潰したかと思えば、今度はパリで水墨画の個展を開き、その流れでソニア・リキエルと交流を持ち、乃木坂にブティックをオープン。

「ロス、ラスベガス、グランドキャニオン、ハワイを巡った小6の旅行は、タネオヤジとの最高の思い出。最高にハッピー!!」

 ほかにも麻布十番に別の会社を始めたりする、バイタリティーの塊のような仕事人だった。

「その一方でお酒が飲めないのに“夜の帝王”と呼ばれた遊び人。オーダーメイドの派手なシルクスーツを着て、もみあげを生やし、ボリサリーノ・ハットをワルっぽく斜めにかぶる姿は、子ども心にも惚れ惚れするほどキマっていた。

 歌がうまくてね。セミプロのバンドを従えて歌う姿を何度か見たな。

 芳山人という画号で水彩画の個展も開いていた。まず自分が働いて稼いだお金で自分の絵のパトロンになる。この発想は、オレとまったく一緒。DNAのなせるわざだね」

 実父のDNAを色濃く受け継いだ剣。だが幼少期のイタズラぶりは目を覆うばかりのひどさだった。

「本牧という土地柄、いろんな国籍、事情を抱えた子どもがいた。保育園の中でも手に負えない問題児だったオレは、ある日、お仕置きで母さんに裏のドブ川に連れて行かれ、木に逆さ吊りにされたこともあった」

 イタズラが過ぎたのか小学校に上がったころ、身体がだるくなり腎炎で入院。自律神経失調症も発症。症状は深刻だった。

「週に一度、タネオヤジ(実父)と母さんが交互にオレの大好きな舶来のミニカーを買って、見舞いに来てくれるのが唯一の楽しみだった」

 1か月以上も入院は続いた。面会時間の終わりを告げるチャイムが鳴ると、小児科病棟の窓に差し込む夕日がベッドのシーツをオレンジ色に染める。

 別の病室から母親との別れを嫌がる幼い子どもの悲痛な泣き声が聞こえる。

─オレだって泣きたいよ。

 剣は、生まれて初めて孤独を味わった。退院したものの、さらなる悲劇が襲う。突然、母が蒸発。親戚の家を転々とする生活を味わった。

 父方の伯父夫婦が住む茨城県水戸市に預けられたこともある。

「横浜から遠く離れた茨城だよ。田んぼのカエルの鳴き声を聞きながら、どんどん気が遠くなって涙が出た。なんでオレだけひとりぼっちなんだよってね」

 こうした思い出、感情の起伏のすべてがメロディーになってあふれ出る。今となっては貴重な体験となった。

奇行や、やりたいことをし放題の幼少期

剣を抱く母・豊美さん。学校時代にたびたび呼び出された子ども時代を振り返ってくれた

 両親の離婚が成立。実父の慰謝料で伯父の家に2階を増築させてもらい、剣は母と暮らすようになった。そして、柴犬のコロがやってきた。

「タネオヤジがオレを寂しくさせないようにペットショップに連れて行って買ってくれたんだ。オレはコロのおかげで強くなれたんじゃないかな。アニマルセラピーって、あれ嘘じゃないよ」

 子どものころから好奇心旺盛だった剣は、小学校3、4年になるとひとりで電車やバスに乗ってどこへでも出かけていった。

「写真を撮るのが大好きで、コダックの小型カメラを持って外車や美人、羽田で飛行機を撮りまくった。晴海のモーターショー、富士スピードウェイのレースにも毎年行っていた。ひどいときなんて、もう離婚して家にいないタネオヤジの名前を語って、ハイヤーをツケで乗り回したこともあったな。あとで母さんにメチャクチャ怒られたけどね」

 学校での奇行もエスカレートする一方だった。

「オチンチンを出して学校から家まで帰ったり、道路にひっくり返って奇声を発する。農家の耕運機で勝手にドライブ。もうやりたい放題だった」

 そのたびに母親の豊美は、学校に呼び出された。当時を、こう振り返る。

「周りに教育ママが多くて、ひとりっ子なのになんでちゃんと教育しないのかと口うるさく言われ、まいりました。でも他所様を傷つけたわけではないのだから、私はあまり気にしていませんでした」

 母ひとり、子ひとりの寂しさゆえの奇行だったのか。

 しかし、そうとばかりは言えなかった。なぜなら、

「ファッションに敏感だったオレは、セオリーにがんじがらめになった型どおりのスタイルが嫌いで、アイビーを崩したジャジーな黒人っぽい着こなしに憧れた。その好みにぴったりハマったのが、VANの子ども向け、VAN miniやVAN Boys。ところがVANは高い。母さんが就職先を探していると知って、VANを扱っている渋谷西武の子ども服売り場に履歴書を送れと命令したんだ。

 もっと短いスカートをはけ、もっと大きなサングラスをかけろと、オレはそのころ、母さんのすべてをプロデュースしていたからね」

 このころ、剣の中に母を守ろうとする“おとこ気”のようなものが生まれていたのかもしれない。

MCの“原点”と“あの人”との出会い

初めてバンドを組んで歌い出した15歳。スイッチが入るというキャッツアイをかけてのステージ

 独自のMCで人気を集めているクレイジーケンバンド。その原点は、小学5年生のときに出合った中古レコードの実演販売にある。

「世話になってる後ろめたさもあって、放課後まっすぐ伯父さんの家に帰るのが嫌でね。同級生の植木屋でバイトを始めたんだ。そうしたら、そのすぐそばに焼き鳥屋と並んで中古レコードの屋台が出ててね、そこの親父とすぐ仲良くなった」

 屋台に中古レコードを並べただけでは、誰も見向きもしない。店主の口上も辛気くさくてまったくウケない。そこで店主に代わって剣がレコードをかけながら、エコーをギンギンにきかせてマイクパフォーマンスを披露した。

「奥さんは美人だね!! 女性は半額!! 美人はタダ!!」

 まるで『男はつらいよ』の寅さんみたいな口上でテキ屋風に実演販売をする。

「その場のノリで替え歌や替えメロ、即興オリジナル曲を歌ったり。やりたい放題でね。ほとんどジャマイカンなノリでワイルドにレコードを売っていた。人前でお金をもらって歌ったのは、これが最初の体験だったな」

 しかもバイト代のほかに段ボール箱いっぱいのレコードをもらった。このレコードの山から剣は、さまざまな作曲法を学んでいった。

 そんな剣に衝撃的な出会いが訪れた。デビュー前のロックバンド「キャロル」である。

「キャロルを初めて見たのは、小学校6年のとき。いとこに誘われ、神田共立講堂へ行ったんだ。パンフレットにも書かれてない、飛び入りのバンドのひとつがキャロルだった」

 パッツンパッツンの革のツナギを着て、頭はポマードを塗りたくったリーゼント。柳屋の強烈なポマードの匂いが客席までプンプン臭ってきた。

「川崎から来たキャロルです。今日はちょっとあがってます」

 龍のような顔の長身の男がそう語る。でも緊張しているようには見えなかった。

「しなやかで挑発的な身のこなしがセクシー。その人こそ、永ちゃん(矢沢永吉)だった。横浜のライブハウスでセミプロ時代を送っていたから、どことなく横浜の香りがする。でも、この境遇から這い上がってやるぞみたいなパワーに満ちあふれていたな」

 デビューシングル『ルイジアンナ』がリリースされると、剣は早速レコード店で手に入れた。

「クレジットを見たら作詞・ジョニー大倉、作曲・矢沢永吉。この2人の手によるオリジナル曲であることにまず驚いた。

 メロディーもいいし、コード進行もサイコー。演奏もズバ抜けてうまかった。歌詞は甘い天使のような可愛いラブソングなのに、その背景に浮かぶのは日本のデトロイト、京浜工業地帯の恨みに濡れたドス黒い情景だった」

 あれから半世紀以上。好きすぎて、剣はいまだに矢沢に会えないでいる。

恥ずかしかったバンド初参加とサングラス

コワモテだけど、話すと優しい。人間的な魅力あふれるクレイジー・ケン(撮影/近藤陽介)

 中学進学を機に、母・豊美は再婚。剣は横山姓になった。

 チャリンコ暴走族「毒瓦斯」を結成してアタマを張った。

 同時に、通っていた大正中学の不良グループだけで構成されたロックンロールバンド「ライナーズ」にも参加。剣はボーカルを担当することになった。

「ドラムじゃなくてボーカルかよ。まいったなぁ」

 と思ったがノリで引き受けることにした。

 最初のライブは、住んでいた集合住宅の集会所。

「恥ずかしくてずっと下を向いて、キャロルの『ファンキー・モンキー・ベイビー』を歌ってひんしゅくを買った。なんとかしなきゃと思って、横須賀のミワ商会っていう雑貨屋に行って、今でもかけているキャッツアイを手に入れた。これさえあれば、恥ずかしげもなく歌えるようになった。それ以来、サングラスがなきゃスイッチが入んなくなっちゃったよ(笑)」

 そんなある日、横浜野外音楽堂で行われたロックイベント「ラスト・サマー・フェスティバル」に「毒瓦斯」のメンバーと、おそろいの真っ赤なスイングトップに“競馬ポマード”をたっぷり塗りたくって出かけた。

 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドをはじめ、当時人気のグループが出る中、剣の心をわしづかみにしたのが「パワーハウス・ブルース・バンド」である。

「真正の不良ロッカーだけが放つヤバさ、横浜ならではの垢抜けたワルっぽさが魅力の鬼すごいバンドだった」

 とりわけ余計なMCなどなく、客に媚びることもなく、ただクールに、かつ熱く、ひたすら英語のブルースロックだけを歌い続けるリードボーカルに、
─イイネ!

 剣のセンサーが反応した。

 その人こそ「東京の内田裕也、ハマのCHIBOW」と呼ばれた竹村栄司である。

 このとき、目指すべき音楽のスタイルが剣にはおぼろげながら見えたのかもしれない。

「中学を卒業したらビートルズを手がけたフィル・スペクターや筒美京平のような作曲家になろう」

 そんな思いから、剣は東京・中野にある堀越高校に進学する。

「堀越には芸能コースがある。俺は歌手ではないが自称・作曲家の卵。堀越に通う作曲家の卵。それもいいかもしれない」

 ところがどこの事務所にも属さない剣が芸能コースに入れるわけもなく、一念発起して大学進学コースに合格する。ところが見ると聞くでは大違いだった。

「バイクもバイトも禁止。髪形やカバン、靴まで指定以外のものはダメ。周囲の反対を押し切って入った学校だけど、結局続かなくて1年半で退学する羽目になってしまった」

 とにかく、まずやってみる。それが剣のスタイル。切羽詰まった人間が本能的に発揮する「火事場の馬鹿力」を頼りに人生を切り開いていく。

「Don't Think Feel(考えるな、感じろ)」

 '70年代、一世を風靡したカンフースター、ブルース・リーのこの名言こそ、数奇な人生を歩んできたクレイジー・ケンこと横山剣には、やはりふさわしい。

小学生時代から独学で身につけた作曲術

 頭の中で勝手にメロディーが鳴り始めたのは、小学校低学年のころだった。

 譜面の読み書きができないから、テープレコーダーにアカペラで録音していた。小学5年のころから、小学校の音楽室や体育館、あるいは団地の集会場にあったピアノやオルガンを自己流に弾きながら簡単な伴奏をつけた。しかし、頭の中で鳴っている和音はもっと複雑で難解だった。

 中学3年のとき、学習塾で一緒に勉強していたピアノが弾けて譜面も書けるグラマーでセクシーな女の子に採譜してもらった。それを聴いた音楽教師に、

「コレ、本当におまえが作ったのか?」

 と、疑いの目でにらまれた。

 これこそ剣にとって最高の褒め言葉ではないか。剣は堀越高校をやめると、本牧のガソリンスタンド「奥村石油」で働きながら、ひとり暮らしを始めた。相棒は作曲用に買ったヤマハのエレクトーン。

「夜8時過ぎに奥村石油から部屋に戻り、エレクトーンの電源をオンにしたらもう朝まで、ヘタすりゃ気を失うまで終わらない。16歳のヘタウマYOUNG SOULが、鍵盤の上でポップコーンのようにはじけた。この時期、クレイジー鍵盤として、孤独を感じる暇もないくらいたくさん曲を作ることができたよ」

 翌年、約1年間世話になった「奥村石油」を退社して、剣は単身ロサンゼルスに渡る。

「アメリカ国籍を持った友達がお父さんの仕事を手伝うためにロスに渡っていた。古着好きだったオレは、その友達から電話をもらって古着の買い付けにロスに向かったんだ」

 フリーマーケット、救世軍のバザール、ウエス(ぼろ切れ)の倉庫など古着のあるところを回り、本牧の部屋はロスから送られた段ボール箱だらけ。これを元手に原宿を中心に古着の行商を始めた。

「土日や祭日は、代々木公園のホコ天や神宮前の古着屋を回り、古着を売った。そのかいあって、気がつけばオレの銀行口座には100万円もの大金が貯まっていた」

 その資金を元に、剣は原宿・神宮前に事務所兼住まいのアパートを借り、東京に進出。ひょんなことから、デビューのきっかけをつかむことになる。

クールスR.C.のボーカルからCKB結成へ

'78年「CHOPPER」の店員となり、クールスR.C.のローディーに。そして'81年にボーカルに抜擢され脚光を浴びる。その栄光も長くは続かなかった

「古着の販路を広げようと、たまたま立ち寄った店がクールスR.C.のリーダー・佐藤秀光さんの店『CHOPPER』だった。偶然にも堀越時代の同級生が店長の後輩だったこともあって、オレはクールスR.C.関係者と急接近することができた」

 当時、剣は17歳。

「CHOPPER」のバイト店員から始め、「クールスR.C.」のボーヤ(ローディー)として採用されると、ファンクラブの責任者を経て、いつしか新生「クールスR.C.」のツインボーカルに抜擢された。

 しかも剣が手がけたオリジナル曲『シンデレラ・リバティ』がデビュー曲に決まる。まさに絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーの始まりだった。

「ハーフのような顔立ちとルックスは、新生クールスR.C.のボーカルにふさわしかった。しかも歌に説得力があった。ロックだけでなく演歌や昭和歌謡。なんでも歌いこなせる。打ち上げのカラオケで歌ってみせた、コブシをきかせたぴんからトリオの『女のみち』は絶品だったね」

 こう語るのは、当時クールスR.C.のベーシストで、後にCKBを剣の右腕として支えるトニー萩野(萩野知明)。

 横山剣、21歳。前途洋々。

 酒とバラの日々が待ち構えているかに見えた。しかし、アルバムを5枚、シングルを3枚発表したころ、

「レコード会社から、もう一度昔のクールスに戻れと言われ、オレの居場所はなくなった。存在そのものが否定された気分になって'84年2月のライブを最後に、ファンに別れも告げずに脱退。東横線に乗ってひとりで横浜に帰った日のことは、今でも覚えているよ」

 その後も「ダックテイルズ」「ZAZOU(ザズー)」「CK'S」を経て、'97年に「クレイジーケンバンド」を結成するまでの13年間、剣は雌伏の時を過ごす。

 しかし頭に響き渡る「SOUL電波」、脳内メロディーが鳴りやむことはなかった。

「ある日、家に遊びに行ったら、風呂に入ってる途中で何かメロディーを思いついたのか、ずぶ濡れの全裸でキーボードのある部屋に飛び込み、録音する姿を見たことがありました。あの鬼気迫る姿は忘れられません」

 と話すのは古くからの友達でCKBのメンバー、スモーキー・テツニこと高林辰男。

彼独自のフレーズ“イイネ!”は彼の伯父の口癖から出てきたという

 そして、'97年。剣はついに「クレイジーケンバンド」を結成する。

「クールスR.C.」をはじめ、数々のバンドで爪痕を残してきた剣。しかし自分の意思でバンドを結成したのはCKBが初めてのこと。そのやり方は、ユニークで型破りなものだった。

「メジャーデビューは考えず、あくまで自主制作にこだわる。そんなやり方を選んだんだ」

 その結果、ファーストアルバム『PUNCH!PUNCH!PUNCH!』は原盤権を死守したまま、委託販売。当初、3000枚しか売れなかったが、レコーディングなどでかかった費用を差し引いても、儲けを出すことができた。

 実父であるタネオヤジ譲りのやり方が、功を奏したともいえる。

 当初、本牧を拠点に活動するつもりだったが、その時点でIGもVFWも解体されることが決まっていた。そこで横浜・長者町にある「FRIDAY」を根城に、あちこちでライブ活動を展開していった。

 当時37歳。結婚して家族もできた。昼間の仕事と二刀流。さすがに、焦りを感じていた。

 しかし思わぬところでブレイクのきっかけをつかむ。

「昭和歌謡の匂いのするブルージーでファンキーな規格外のCKBの音楽は、'99年にリリースされたリミックスアナログ盤『ヨコワケハンサムワールド』あたりからクラブシーンでも注目を集めます」(萩野)

港で輸出貨物の検査官をしながら、作曲活動、バンド活動を精力的にこなす

 そして迎えた'02年。CKB初のCMソング、J―PHONE『クリスマスなんて大嫌い!! なんちゃって』がスマッシュヒット。

 長者町「FRIDAY」のころから、ライブに来ていた宮藤官九郎が、自身のドラマのオープニング曲に『タイガー&ドラゴン』をプッシュしたことで、不動の人気を得ることになる。実はこの楽曲には誕生秘話がある。

「剣さんはこの曲を、セルジュ・ゲンズブール風のフレンチ歌謡風に仕上げるつもりだった。

 ただ当時、港で検査官の仕事をしていてレコーディング中に爆睡。寝ている間に東映チックなドスのきいた純和風に仕上がっていたんだ(笑)。

 もしフレンチ歌謡に仕上がっていたら、あのドラマに採用されることもなかっただろうね」(萩野)

 デビューから28年。今年の9月3日に25枚目のアルバム『華麗』をリリースしたCKB。

「できたてホヤホヤの『LOVE』から40年前にサビを作った熟成蔵出しの『ディープ・ブルー・ナイト』まで、ご機嫌なアルバムに仕上がったよ。

 永ちゃん、ユーミン、山下達郎さん、桑田佳祐さん。先輩レジェンドもまだまだ元気。オレも『脳内メロディー』が鳴りやむまで突っ走るぜ」

<取材・文/島 右近>

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。