
70歳からYouTubeの世界に飛び込んだ水彩画家の柴崎春通さん。優しい笑顔と聞き入ってしまう声に多くの視聴者が集まり、今や大人気ユーチューバーだ。そんな柴崎さんはどんな人生を歩んできたのか? 公務員ではなく、画家の道を目指して上京、9・11のアメリカ同時多発テロに遭遇したり、6度の心臓手術に大腸がんも経験。どんなときも絵を描くことをやめなかった柴崎さんが伝えたいこととは―。
仕方なく、自己流で描いてました
「ようこそいらっしゃい、遠かったでしょう?」
YouTubeで視聴者に語りかけるのと同じ、優しい笑顔で取材スタッフを出迎えてくれた“おじいちゃん先生”こと、画家の柴崎春通先生。
自宅兼アトリエは、桜や栗などの木々、田畑に囲まれ、豊かな緑が目にまぶしいほど。柴崎先生が描く風景画そのままの、心がほっと落ち着くような自然が広がっている。
「僕はここで、農家の長男として生まれ育ったんです。子どものころはこのあたりで一番のガキ大将でね(笑)」
昭和22年生まれの団塊世代で、8月に78歳の誕生日を迎えたばかり。当時通っていた小学校は1学年につき6~7クラスもあり、周りには子どもがあふれていたという。
「でも僕は昔から、仲間とつるむよりも一人で黙々と行動するほうが性に合っていて。だからスポーツでも個人競技の柔道に夢中になって、中学では県大会で準優勝もしたんです。当時人気だった柔道漫画『イガグリくん』の影響もあったね」
幼少期から絵を描くことも大好きで、小学校から高校まで、体育と図工の成績は5。柴崎先生が描き損じた絵を、自分が描いたことにしてそのまま提出する同級生もいた。
「小学生のころはヨーロッパの印象派の絵を本で見て、こういうのを描いてみたいなぁと憧れていました。中学生になってから、姉に頼んで東京で油絵のセットを買ってきてもらったけど、油絵って難しいでしょ? 使い方がわからないんですよ。田舎だから、教えてくれる人も見つからない。仕方なく、自己流で描いてました」
中学卒業後は、柔道の強豪校である地元の高校に進学。だが柔道部には入らず、休部状態だった美術部の部長になり、本格的に絵を始めた。
「中学の柔道部の先生が怒っちゃって。でもね、僕はもう目いっぱいやり尽くした気持ちだったんです。毎日練習して、誰にも負けない自信はあったけど、もうこれ以上自分は伸びないという予感があった。だから新しいことをしようと。意外とあっさりしてて、決断が早いんだよね(笑)」
美術部の顧問は、のちに『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)で活躍することとなる、渡邉包夫先生だった。日本画が専門で、生徒には何も教えない、変わった先生だったという。
70を過ぎてYouTubeに挑戦できた理由
「部活でも、終わりのほうに顔を出して、部員の作品をさっと見てから『みんな柴崎みたいに描け~』と言って終わり。ユニークな先生でしたよ」

高校卒業後は、姉と同じように県庁に勤めるつもりで公務員試験に合格。だが卒業が近づくにつれ、言いようのない気持ちが押し寄せてきた。
「俺はこの田舎でずっと働いて、土日は農業をするのかな、って思ったら、無性に東京で勉強したくなってね。一人息子だし、農家を手伝うのが当たり前の時代だったから親にもなかなか言い出せなかったんだけど」
そのまま卒業を迎え、5月になっても、せっかく採用された県庁にも行かず家にいる息子を、父親は一切とがめなかった。
「思い切って、東京に行きたいと打ち明けたんです。そうしたらすぐに、だったら行ったほうがいい、と認めてくれて。小さいころから父は、僕にたっぷり愛情を注いでくれました。勉強ができたのに貧しくて都会に出られなかった若いころの思いを、僕に託してくれたんだと思います」
アルバイトをしながら、杉並区にある阿佐ヶ谷美術専門学校で学ぶことに。翌年春に、和光大学に開設されたばかりの人文学部芸術学科に入学した。
「世間は学生運動真っただ中。同級生は次々と留置所に入れられました。僕もずいぶん活動に誘われたけど、なんせ団体行動が好きじゃない(笑)。だから僕は、ひたすら絵ばかり描いてました」
卒業後は恩師のすすめで、「講談社フェーマススクールズ」で添削指導をする講師のアシスタントに採用された。このスクールは'60年代に講談社の野間省一社長がアメリカから導入した美術の教育システムの一環で、講師は一流ぞろい。厳しい指導で知られ、通信課程ながら本格的に美術の道を目指す受講者が全国から集った。
「アメリカから責任者が来て、日本の講師陣に容赦なくダメ出しするんです。僕はただのアシスタントですから、ほかの先生の仕事を見て勉強するしかありませんでした」
芸大出身や、高名な美術団体に所属する講師陣が並み居るなか、下働きの苦しい日々が続く。しかしあるとき任された仕事が評価され、講師に昇格することができた。肩書でなく実力で勝負すべく、どんな絵でも早く確実に描けるよう努力を続け、実績を上げた。
「僕は子どものころから自由でいたいタイプだったから、美術の世界にはびこる“しがらみ”なんかは大嫌いでね。古い風習に惑わされず、目の前のことに全力で挑んで、チャンスをつかんできました。日本ではじっと我慢することを美徳とする文化があるけど、そういうのはあまり好きじゃない。若いころになんでもがむしゃらにやってきたからこそ、僕は70を過ぎても楽しくYouTubeに挑戦できたと思うんです」
会社員のような安定はないが、自由度の高い仕事は自分に向いていたという。仕事を調整しながら40代でバックパッカーデビューし、旅をしながら世界40か国で絵を描いた。
「50歳で初めて、アメリカ留学にも行きました。ところがニューヨークに到着した翌日に、あの9・11のアメリカ同時多発テロが起きたんです」
アクションを起こさないと物事は始まらない
テロ現場は、滞在中のアパートから徒歩で行ける距離。殉職した警察官や消防士らの家族も多く住んでおり、葬儀の絶えない日々が続いた。

「留学期間は3か月しかありませんから、そんな状況でも僕は路上で絵を描き続けました。そうするとどこからか僕の存在を知った人々が、亡くなった警察署長の絵を描いてほしいと頼みに来たんです。これがきっかけで出会いが生まれ、現地では殉職警察官遺児のためのチャリティー展を開くことができました」
この活動により、アメリカ政府から文化推進者賞とニューヨーク市警察栄誉賞を受賞。翌年には現地で個展も開いた。
「ニューヨークでは、道端で絵を描いていたら知らない人がどんどん話しかけてくる。アクションを起こさないと物事は始まらない! それを、身をもって体験しましたね」
年齢を重ねても、持ち前のチャレンジ精神で新しいことに取り組み続けてきた柴崎先生だが、実は6度の心臓手術を経験している。初めて異変を感じたのは60歳を過ぎてからだった。
「運転中に突然胸が苦しくなり、このときばかりは死ぬかもしれないと思いました。車中でしばらく休んでなんとか帰宅し、翌日に病院に行ったら、すぐに入院する必要がある、と。数日後に仕事でタイに行く予定があったんだけど、先生にダメだと言われて。でも行っちゃった(笑)」
帰国後まもなく、入院して手術をすることとなった。
「当時、アメリカから入ってきたばかりという最新治療を試すことになってね。カエルで実験しているから大丈夫と言われたんだけど、俺はカエルじゃないよ、って(笑)。全身麻酔ではなく覚醒した状態で、先生や、製薬会社の人の会話が聞こえてくる中、7時間の大手術でした」
その数年後には大腸がんを患い、このときも手術を受けたというが、「何年前だったかな? もう忘れちゃったよ」と豪快に笑い飛ばす。
「僕だって、そのときはさすがに落ち込みました。でもね、絵を描き始めると、病気のほうに向いていた気持ちが絵のほうに向くんです。だから気分が全然違ってくるんだよね。病室でも、そろそろ手術室に行きますよと声をかけられるまでずっと描いてましたから」
手術や入院を繰り返していた時期も、絵を描くことだけはやめなかった。病状が落ち着いてからは個展も再開したが、ふと「最近、ずっと同じことばかりしているな」とくすぶった気持ちが湧いてきた。
「そんなときに息子が、YouTubeだったら世界中の人に絵を見てもらえるよ、と言ったんです。新しいことにすぐ乗っちゃうタイプだから(笑)、よしやろう! って」
70歳にして初めての試み。自分なりに調べてカメラや照明をそろえたが、撮影したものを確認すると何も映っていない……などの失敗もあった。
1年半で登録者数10万人を達成
「でも、めげずに続けていくとだんだんできるようになるんです。講談社フェーマススクールズのときに、カメラに向かって話しながら指導していたこともあったから、そのときの経験も役に立ちましたね」

ゆるやかながら、チャンネル登録者数は確実に増えていった。
「1000人、1万人、と増え、5万人になったときに、昔の東京スタジアムが満員になるぐらいの人数だなぁとイメージできました。10万人を達成するまでは、1年半ほどでしたね」
その後、アメリカのニュース専門局「CNN」などで紹介されたことで海外の視聴者に認知され、一気に登録者数が増えていった。
「登録者数が100万人を超えると“金の盾”がもらえると知ったとき、それまで自分は絶対に生きていないだろうと思ったんですよ」
普通の鉛筆や、100円ショップの絵の具、引き出しの奥にしまったままの古びたクレヨンなど、身近な画材を使って誰もが絵を楽しめる動画がバズり、いまや登録者数は200万人を超えた。
柴崎先生が描く作品そのものだけでなく、優しい笑顔やおしゃべりに癒される人も多い。
「自分自身も病気を経て、身近な人が亡くなる年齢となり、体力任せに無我夢中で仕事をしていたときのようには動けません。でもYouTubeでは、みなさんにいかに楽しんでもらえるかを考えつつも、実は僕がいちばん楽しくやらせてもらってるんですよ」
そして先生は、読者に向けてこう語る。
「いつからでも、どんな状況からでも新しい一歩は踏み出せます。僕自身、70歳でYouTubeを始め、世界中の人とつながることができました。だからこそ、みなさんにも“まずはやってみる”を合言葉に、年齢や環境にとらわれず、心が動いたらぜひ挑戦してみてほしい。絵も人生も、楽しむことがいちばん大切だと思っています」
取材・文/植木淳子
しばさき・はるみち 水彩画家。“おじいちゃん先生”の愛称で親しまれる。70歳から始めたYouTubeチャンネル「Watercolor by Shibasaki」はチャネル登録者数200万人超えと大人気。