
1985年に結成し、「聞いてないよォ」「つかみはOK!」「くるりんっぱ!」といった数多くのギャグで人気のダチョウ倶楽部。そのリーダーを務める肥後克広さんが、新刊『頼る力』(小学館新書)を上梓した。
遠慮なく後輩を頼るスタンス
内容は、人生をゆるく楽しく生きるため、困ったら、いつでも人に頼ってOK!というもの。人に頼ると聞くと、なんとなくマイナスなイメージもあるが、本書によるとどうやら違うのだという。著者である肥後さん本人に、彼にとっての「頼る力」について聞いてみた。
「頼るといっても、全面的に鵜呑みにしたりとか委ね続けるわけではありません。まず頼って試してみて、自分に適しているかどうかを見極めることも大切なんじゃないかなと」(肥後さん、以下同)
もともと理論づけて考える性格によるのでは、と続ける。
「三日坊主というか、すぐにやめちゃうところもあったからかも。例えば、身体にいいからと、朝に白湯をしばらく飲み続けても、自分に合わないなと思ったらすぐにやめちゃう(笑)」
また肥後さんは、「50歳になったら負けを認める、還暦で完全ギブアップ。どちらも一度認めると楽になる」とも言う。現在62歳の肥後さんと同世代の人の多くは、バブル景気を経験し、いまだに昭和的な「今の若い者は!」と思いがちなもの。でも肥後さんは若い人の声にこそ耳を傾けているという。
「『今の若いヤツは!』と息巻く人は、昔はカッコよかったのかもしれませんけど、今はカッコよくないですね。お笑い界も令和になって、コンプライアンスをはじめ、ルールが変わってきた。
僕も今の時代を生きていますけど、若い芸人さんにはかないませんから。遠慮なく後輩を頼りますね。だから、これまで炎上せずにやってこられているんです」
必死に集めたメンバーで結成
萩本欽一さん、ビートたけしさんら浅草出身の芸人に憧れて、お笑いの世界を目指し始めたという肥後さん。そして、渋谷道頓堀劇場の門を叩き、喜劇俳優の故・杉兵助さんに師事。そこで、コント赤信号に出会うことになる。
「当時は、(肥後さんの地元である)沖縄出身のお笑い芸人は誰もいなかったし、芸人として成功するなんて夢のまた夢。だから、お笑いの世界をちょっと体験できればいいくらいにしか考えていなかったですね」
そんな肥後さんに大きな転機が訪れる。コント赤信号のリーダー・渡辺正行さんから、自身が主催する『ラ・ママ新人コント大会』への参加をすすめられたのだ。この大会は、ウッチャンナンチャン、爆笑問題、バナナマンなどの芸人を輩出した、登竜門的なお笑いライブ。

先輩の渡辺さんの誘いに即、了承する肥後さん。しかし、ライブ直前になってもネタどころか、メンバーも決まっておらず、その状況を知った渡辺さんに激怒されてしまう。肥後さんは慌ててメンバーを集め、ネタを作った。それが、ダチョウ倶楽部の誕生である。
「ラ・ママに出たのは、渡辺さんに怒られたからだけです(笑)。でも、あそこに出なかったら、たぶん何年か後には沖縄に帰っていたでしょうねえ」
その後は、テレビでもコントを披露して活躍。さらに『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』『スーパージョッキー』(共に日本テレビ系)に出演し、リアクション芸人として人気を博するように。しかし、そこでも多くのお笑い先輩芸人への“頼る力”を発揮している。
「最初はリアクションを取るといっても、何をしていいのかまったくわかりませんでした。ありがたいことに、実は芸として緻密に組み立てられている“熱湯風呂”などのリアクションをたけし軍団さんたちに間近で見せてもらい、衝撃を受けました。
僕たちにはそれができない。だから、リアクション芸自体をコントとしてやることにしました。そこで生まれたのが『どうぞどうぞ』や『押すな押すな』だったんです」
純烈に頼って救われたと思う
この探求心こそ、ダチョウ倶楽部は“美しい負け方の追求ぶりが芸能界随一”といわれるゆえんかもしれない。1993年に流行語大賞を受賞した「聞いてないよォ」のギャグもリアクション芸から生まれたもの。そもそも「聞いてないよォ」は内輪ネタから始まったものだが、片岡鶴太郎さんのアドバイスによってやり続け、火がついたのだという。
ほかにも、ラサール石井さん、森本レオさん、故・笑福亭笑瓶さんらにも随所でアドバイスを受けていたという。
「自分から相談したことは一度もないんです。ただみなさんと雑談しているとき、相手の言葉と自分が悩んでいることの答えがつながるなあと勝手に解釈しているだけなんです。自分の気持ちはいったん置いておいて、先輩方が何げなく発した言葉に頼ったんですよ」
このようにして順調に活躍しているダチョウ倶楽部に、2022年5月11日、衝撃的な出来事が起きる。上島竜兵さんが亡くなったのだ。このニュースは日本中にショックを与えた。でも、その悲しみを乗り越えられた要因は、やはり「頼る力」だったと肥後さんは言う。
「あのときはまず、僕らが立ち直るよりも、日本中の方が悲しみのどん底にいる感じだったので、その方々を助けないといけないという感じでした」
肥後さんの追悼コメント《二人で、純烈のオーディションを受けます》に、純烈のリーダーである酒井一圭さんがXで《合格ですよ!》とすぐにリプライ。その後、一緒にイベントなどに出演するようになり、年末には紅白歌合戦でコラボ出演まで実現した。“竜兵会”の重鎮である有吉弘行さんも登場し、7人で猿岩石の『白い雲のように』を熱唱し、感動を呼んだ。

「(追悼コメントで)なんで純烈を書いたのかなあ。今考えると申し訳ないですよねえ。あれも、純烈に頼ったんですね(笑)。でも、紅白まで出られてうれしかった。純烈と一緒に紅白で歌って“くるりんっぱ!”できてよかったです。あれで上島の死に触れちゃいけない空気がなくなった気がしています」
完璧を目指さず、適当に頼る
最近は俳優としても活躍している肥後さん。出演作は、映画『風のマジム』(公開中)、『牙狼〈GARO〉TAIGA』(10月公開)と続く。
「撮影現場にいるときは邪魔をしないように、粛々と演じているという感じですね。芸人にありがちな、演技で爪痕を残そうとして傷痕を残してしまうようなことはないです(笑)」

自宅での肥後さんは家事を率先して行い、また家族にも家事の役割も決めずに“やりたい人がやればいい”という考えだという。
「完璧を目指さずにね、適当に頼る、というのも大切なんじゃないかな、と」
価値観の違いやSNSの炎上などを気にかける必要がある現代社会において、肥後さんは仕事でも家庭でも、どこか「肩の力を抜いて生きている」という。
「ゆるくというか、常に頑張っていくのは無理ですからね。やるときはやる、やらないときは何もやらないくらいでいいと思いますよ。オンオフが必要ですよねえ。また勝ち負けにこだわらないことも大事。自分が傷つかないために、時には負けることも必要ですから」
自分の弱さをさらけ出し、年下にも頼って学ぶ。その肥後さんの考えは、私たちも学ぶべきことかもしれない。そうすれば、どんな悩みも「くるりんっぱ!」と変えられるはずだ。
取材・文/樋口淳