
女探偵・村野ミロが、20年ぶりに戻ってきた。60歳になって、最愛の息子を守るための闘いが今ここにスタート。
ハルオは沖縄の医大生。早朝の国道を、自転車をこいでアルバイト先のゴルフ場に向かっている。勉強もバイトもそつなくこなす好青年のハルオの生活から物語は始まる。
編集者に“主人公は若く”など、いろんなことを言われました
ハルオは、赤ん坊のときに母・ミロに連れられて沖縄に来た。ミロは、バーのマネージャーをしながらハルオを育てている。それまでどこで何をしていたかも、父のことも明かさず、友人との交流も禁止し、母子は“繭の中で息を潜めるように”生きてきた。しかし、ハルオも20歳。繭は破れようとしている。
ミロは何から逃げているのか。ハルオの父親は誰か。秘密は徐々に明らかになり、ふたりは過去に遡るおぞましい世界に巻き込まれていく。母は、どのように息子を守るのか。桐野夏生さんの最新作『ダークネス』は、圧倒的迫力で、読者をグイグイ引っ張っていく。
32年前、クールな女探偵ミロ誕生。女性ハードボイルドの先駆けになる。
村野ミロが登場したのは、1993年の『顔に降りかかる雨』。このときミロは32歳。義父の残した新宿の事務所に住み、大金と共に消えた親友の足取りを追う。果敢に闇に挑むミロに、ついに日本にもカッコいい女探偵が現れたと感じた人も多いだろう。
翌1994年の『天使に見捨てられた夜』でミロは、失踪したAV女優の捜索を依頼される。業界の暗部に踏み込むが、卑劣な罠が待ち構えていた。桐野さんは、当時を振り返ってこう話す。
「そのころのハードボイルドは男性の世界。それに逆らって、女性が都会でひとりで、探偵みたいな仕事をしたらどうだろうという思いから書いた話なんです。編集者に“主人公は若く”“男と寝るな”など、いろんなことを言われました。男性読者のために女性の主人公はきれいじゃないといけない、そのセオリーが嫌でしたね」
そこで探偵ミロを離れ、1997年『OUT』を執筆。弁当工場で働く主婦が夫を殺し、3人の仲間と死体を解体するという衝撃的な作品だ。『OUT』は、国際的なエドガー賞の候補になり、映画・ドラマ化もされた。
1999年に直木賞を受賞した『柔らかな頬』は、情事の最中に幼い娘が消え、罪悪感に苛まれながら娘を捜すストーリー。当初ミロシリーズとして書かれたが、ミロをはずして全面書き直した。いずれも、女性の心理をヒリヒリするほど描き、多くのファンを獲得する。
一方で、ミロを待ち望む声も大きく、2000年には、少女時代のミロを含む短編集『ローズガーデン』を上梓。
「このあたりからミステリーの枠に飽きてきたりして。次作『ダーク』は、もうミロシリーズはやめるつもりで、ミロの世界を破滅させようとめちゃくちゃに書いたんです」
《40歳になったら死のうと思っている。現在38歳と2ヶ月だから、あと2年足らずだ》から始まる『ダーク』は、2002年に出版され、クールなミロを期待していた読者を唖然とさせた。
子どもができることは、弱みにもなるんですね
ミロは情念に突き動かされ、追っ手と死闘を繰り広げる。息つく間もないセックス&バイオレンスの破壊力は強烈だ。
「読み直して、驚きました。自分が作り上げた世界をここまで壊していたとは」

書いた本人もあきれたように言う。桐野さんの作品は、常に社会や常識と対峙し、読み手に強烈なパンチをくらわす。それは同時に、批判にさらされることでもある。
「セックスシーンを書くと、知人から“そういうこと考えている人、気持ち悪い”って言われ、傷ついたこともあります。いろんな人から散々言われ、批判され、荒野に裸で立っているような感じで、つらかったです。作家とは、そういう仕事なんですね。今はもう全然平気だけど」
ちょっとハスキーな声で話す姿がカッコいい。
「不思議なもので、覚悟を決めて突き抜けると受け入れてもらえるんです。『ダーク』は面白かったってよく言われて、ありがたかったです」
『ダーク』で壊し切ったはずの世界だが、焼け跡から草が芽生えるように、生まれてきたものがあったそう。
「ミロは、子どもを産む選択をしたので、母親になったミロを考えてみたかったし、子どもはどうなっているのかなとも思いました。20年たったら、書いてみようかと思ったんです」
20年後、ミロは『ダークネス』に母親になって現れる。
「ミロはちょっとマイルドになっていますが、それも生きていく中での変化のひとつ」だと桐野さんは言う。
子どもが気がかりで、離れていくのが不安な母親としての逡巡も描かれ、共感を覚える読者もいるだろう。
「子どもができることは、弱みにもなるんですね」
沖縄に来て以来、ミロとハルオはひっそりと暮らしていた。しかし、ミロと敵対していた人たちは、20年間諦めてはいなかった。盲目の久恵、同性愛者の友部、在日台湾人の鄭などがミロを捜し出そうとする。
女性は孤独で、自由に生きるのが一番いい
「彼らは『ダーク』で、ミロという人物をつくっていった人間なので、登場せざるを得なかったんです」
ミロを守るために殺人を犯し、刑務所に入ったジンホも、魅力的な男として再登場する。ハルオは、ミロと共に宿敵から逃げながら出自を知り、失意のどん底に落ちる。そして、あえて自分のルーツにつながる悪の中に飛び込んでいく。
シリーズの一貫したテーマは、ひとりで生きる女性。
「男の人と暮らしていても、最後はひとり。私の母もそうだし、寡婦になった友人もいます。女性は孤独で、自由に生きるのが一番いい。ひとりの女性として生きていく覚悟を持ちたい」
愛するジンホと息子の間で揺れていたミロはどんな結論を出すのか。ハルオはどんな闘いをし、ミロは息子を救うことができるのか。
手に汗握る展開に、驚きのラスト。『ダークネス』で繰り広げられる桐野ワールドに、最後まで目が離せない。
「バレエを習っています。といっても“美容バレエ”という体操みたいなもの。娘が子どものときのバレエ教室に付き添ったのが始まりで、もう30年以上続いています。週に3日。忙しいと週1になることもあります。そこで友達になった方と普通におしゃべりするのが楽しい。そういうこと考えているんだと、話を聞いています」
取材・文/藤栩典子
桐野夏生(きりの・なつお) 1951年生まれ。1993年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞。1998年『OUT』で日本推理作家協会賞。1999年『柔らかな頬』で直木賞。2008年『東京島』で谷崎潤一郎賞。2010年『ナニカアル』で島清賞、読売文学賞。2023年『燕は戻ってこない』で毎日芸術賞、吉川英治文学賞。2015年には紫綬褒章を受章。日本ペンクラブ第18代会長を務める。