
ビートたけしや明石家さんまなど、現在の大御所たちとともにブラウン管の中で暴れまくっていた女芸人。姉御肌としても知られる彼女の、強さと優しさの源とはーー。
芸事はずっと続けてきた
再ブレイク。そんな言葉で数年前から脚光を浴びているのがタレント・山田邦子
だ。
'80年代から『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(共にフジテレビ系)など数多くのバラエティー番組で活躍し、“天下を取った唯一の女性芸人”と評される。
しばらくの間、テレビで見かける機会は減ったが、2022年に『M―1グランプリ』(テレビ朝日系)の審査員を務めたことから、再びテレビの世界で存在感を増していった。
「テレビに出ていなかっただけで、舞台に出たり、長唄をやったり、芸事はずっと続けてきたんですよ」
山田はそう話す。
『M―1グランプリ』での審査が話題になり、山田のこれまでの活躍を知らなかった若い世代の間でも知名度が急上昇した。
バラエティー番組に出演することも増えたが、どんな番組に出ても、視聴者を楽しませるトークと大御所ならではの安心感は健在だ。山田は65歳にして2年連続“前年比300%”の忙しさだという。
「もう年だし楽しい仕事だけやろうと思うんですけど、面白いオファーばかりだから全部受けちゃうんです」
デビューから45年、「一人でも多くの人を笑わせたい」という思いは変わらず、根っからのコメディアンとして君臨する山田。
これまでの芸能人生では、バッシング報道や乳がん、親族の借金返済といった逆境も経験したが、苦労をあまり語らないのは江戸っ子気質なのかもしれない。
ビートたけし、明石家さんまを筆頭に、シニア世代に突入した大御所芸人の一人として、山田はこれからどこへ向かっていくのか。
昭和から令和までの人生を振り返ってもらった。山田は1960年、東京の下町で生まれ、両親、兄、弟に囲まれて育った。小さいころからふざけて周りを笑わせるのが大好きだったという。
「小学校4年生ぐらいからギャグを作ったり、ものまねをしたり。下町だったから演芸場も多くて、芸人さんがその辺をうろうろしていたけど、学校で人気者だった自分も芸人さんたちと同じ立場なんだと勘違いしていました」
中学からは川村学園に進学したが、そこはお嬢様学校。車で登校するようなクラスメートに最初こそ戸惑ったものの、すぐに面白いキャラクターで学園の人気者になった。ファンクラブもできるほどの有名人だったという。
親友と漫才コンビ「のりこ・くにこ」を組み、短大に進んでからは近隣の早稲田大学寄席演芸研究会に入った。
相方がお笑いの道に進む気がなかった
「サークルにはテレビのお笑い番組でチャンピオンになる人がいっぱいいました。テレビで3分間のネタをやるアルバイトとか出演依頼が来る環境だったんです。相方ののりこちゃんはお笑いの道に進む気がなかったので、仕方なく私はピン芸人としてテレビに出るようになりました」

山田が最初にお茶の間をにぎわせたのは、テレビ番組荒らしの素人時代にバラエティー番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)の素人勝ち抜きコーナー。
バスガイドのネタを披露し、「右手をご覧ください。一番高いのが中指でございます」のギャグが大当たりした。
そのままチャンピオンになりたかったが、すでに出演が決まっていたTBS系連続ドラマ『野々村病院物語』の初日のロケとぶつかり、フジとTBSのプロデューサー同士が話し合い、泣く泣く勝ち抜きチャンピオンを断念。そのまま芸能界デビューとなった。
病院内の人間模様を描いたドラマでの山田の役柄は、おしゃべりな看護師。主演は宇津井健さんで、山岡久乃さん、夏目雅子さんといった錚々たるメンバーとの共演だった。
「当時、女性の初任給は手取り12万円。でもドラマは週4万円で、5週あると20万円になりました。『あっ、全然いいな、この就職』と思って、芸能界入りを即決したんです」
実はこのとき山田は西武グループの建設会社への就職が決まっていた。父が知り合いに頼んで、娘のために選んだ会社だった。当然、父は娘の芸能界入りに反対する。
「制服まで作ってもらいながら1日も出社することがなかったので、父は1年間口をきいてくれませんでした」
山田の決意は揺るがなかったが、迷惑をかけた会社へは1年後に謝罪に行ったという。
「不義理なことをしたのに『みんなで応援してるから』と言ってもらえて、45年がたった今でも仲よくさせてもらっています。出版記念会や誕生日会、結婚式など、イベントはすべて西武のプリンスホテル系列と決めています」
このころ、山田の才能をいち早く見抜いていたのが朋友の片岡鶴太郎だった。山田が素人としてテレビに出ているのを見て、自身も在籍する太田プロダクションへの所属を持ちかけた。
「邦ちゃんには道玄坂の喫茶店で初めて会いましたが、最初からただならぬ雰囲気でオーラを放っていましてね。この子は売れるなと確信し、逃したらダメだと思いました。年は5つ下だったので、妹が事務所に入ってくれたようなうれしさもありましたね」
鶴太郎は当時のことをそう語る。そして鶴太郎の読みどおり、このあと山田はロケットスタートでブレイクしていくことになる。
ドラマ『野々村病院物語』の撮影現場では、大御所俳優に囲まれて、さぞかし緊張したのではと思いきや、山田は物怖じすることなく周りに溶け込んだ。
美しかった“雅子お姉ちゃん”
先輩たちから可愛がられ、山岡久乃さんともよく食事に行ったという。中でも年が近かった夏目雅子さんは親しくしてくれた。

「当時、夏目さんはすでに売れっ子だったのに、電車で移動するのにビックリしました。そういう普通の感覚を大事にしていたんです。夏目さんの提案で宇津井健さんの自宅にアポなしで遊びに行って、食事をごちそうになったこともありました。
宇津井さんはすごく喜んでくれましたが、後でプロデューサーからめちゃくちゃ怒られて。そしたら夏目さんが『邦子に行こうと誘われました』なんて言う(笑)。舌をペロッと出して笑うもんだから、私も怒れなくなって。すごくおちゃめで、姉のような存在でしたね」
衣装に影響しない下着のつけ方やドーランの塗り方など、女優としての基本的なことも手取り足取り教えてもらった。夏目さんとの数ある思い出の中でも忘れられない出来事がある。
「生放送の番組で食事が出たので、口いっぱいに食べ物を詰め込んでいたところ、急なインタビューが始まったんです。飲み込むことも吐き出すこともできず困っていると、後ろから夏目さんが『ここに出しなさい』と両手をすくうように差し出してくれて。
私は後ろを向いて、夏目雅子さんの手に食べ物をパッと出し、何事もなかったようにインタビューに答えました。人気女優なのに平気でそんなことができる方でした」
その後、夏目さんは作家の伊集院静さんと結婚するが、幸せのさなか、白血病に倒れる。享年27。
「亡くなるとは思っていなかったのでびっくりして、あれは堪えました。結婚されたときの美しかった“雅子お姉ちゃん”の姿を今でも思い出します」
ドラマが終わると、今度はフジテレビ制作のお笑い番組『オレたちひょうきん族』からオファーがあった。
「休みの日に知り合いのスタッフに偶然会って、一緒にフジテレビに行くことになったんです。そこでもらっていなかった『笑ってる場合ですよ!』の尻切れトンボのままだった出演料を渡されて、そのままプロデューサーと近所のステーキ屋さんで食事をすることに。
そこで『(これまで特番だった)オレたちひょうきん族がレギュラー番組になるから出ない?』と誘われて。お金をもらって肉を食べちゃったもんだから断れなかった(笑)」
『オレたちひょうきん族』は、1981年から8年間放送され、最盛期は20%以上の視聴率を記録した伝説のバラエティー番組だ。
もう死んでもいいと思いました(笑)
ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、鶴太郎らがコントを繰り広げ、出演者はこの番組からスターの座へ駆け上がった。山田もその一人で、薬師丸ひろ子や松任谷由実のモノマネで大ブレイクを果たすことになった。
「今でこそみんな大スターですけど、そのころはまだ駆け出しで、どうしたら面白い番組が作れるかわかってなくて手探りでした。楽屋もみんな一緒で、ジーンズにスタッフから配られたトレーナーを着て、格好もダサかったですね」
鶴太郎はこのころの山田のことを、次のように話してくれた。
「あれだけの男所帯に紅一点で入ってきて、喜々として出演しているわけだから、やっぱり突出していましたよ。誰も寄せつけない才能で、その後どんどん番組を任されていきましたから」
山田の秀でた才能は誰もが認めるものだったが、当時はコンプライアンスがない時代。「バカ」「ブス」「早く嫁に行け」「なんで子どもを産まないんだ」といった言葉を、楽屋でも街中でも毎日何十回と言われてきたという。
「傷つくことはなかったけど、またかとがっかりする感じでした。私は言ってもいい独身女性の代表になってしまっていたのでしょうね。今は容姿をネタにはできないですし、芸人も昔に比べると高度なコントをやっていると思います。高尚すぎて私は爆笑できないこともあるけど、それが時代なんでしょう」
当時、女性は25歳で「売れ残りのクリスマスケーキ」と言われる時代だ。結婚願望はなかったのだろうか。
「祖母は『23歳ぐらいが娘として一番キレイなとき。周りの男の人がみんなお嫁さんになってと言ってくるから、一番いい人を選びなさい』と言ってました。でも23歳になっても誰からもプロポーズされず、あれ? おばあちゃんの言ったことは嘘だったんだと(笑)。
小さいころ、結婚しない近所のお姉さんを不思議だなと思ってたけど、自分はそっちのグループだったんだと悟りました」

一方、当時はトップアイドルとの交流も多く、華やかな芸能界を楽しんできた。
「松田聖子ちゃんとコントをやったり、松本伊代ちゃんが家に遊びに来たり。ファンだった西城秀樹さんの自宅におじゃました際は、秀樹さんが弾き語りをしてくださったことも。ヒデキの大ファンだったから、もう死んでもいいと思いました(笑)。
ジュリー(沢田研二)も大好きで、私のアルバム制作時にはレコーディングにも付き合ってくださって。私はジュリーと結婚するんだと勝手に思ってました(笑)」
時代劇に出演することが決まり、「かつらをかぶりやすいように」といきなり髪をそりあげたこともある。ちょうど、たけしのフライデー襲撃事件があり、山田がたけしの代わりに司会を務めたことから、本人の代わりに頭を丸めたととらえる人もいたという。
作家で僧侶だった瀬戸内寂聴さんからも連絡があり、「悩みがあったらすぐいらっしゃい」と心配してくれた。
「それがご縁で寂聴さんのマネをするようになって、亡くなる前までずっと仲良くさせていただきました」
ギリギリで生きてましたね
1989年、山田は『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)などの冠番組を持ち、女性芸人として無双の状態になっていく。一時期は毎週14番組、隔週で17番組を収録していたという。
「あまりに忙しくて、寝る時間もなくて、警察に『死にたい』と匿名の電話相談をしたこともありました。すると担当の方が親身になって話を聞いてくださり、われに返って思いとどまることができました。ギリギリで生きてましたね」
そんな売れっ子だった山田だが、1995年ごろから逆風が吹き始めた。週刊誌のバッシング報道や恋愛スキャンダルなどでワイドショーをにぎわし、次第に番組も消滅していったのだ。
「最初はショックでしたが、デビュー以来、走り続けてきたこともあり、ペースダウンして自分を見つめ直そうと気持ちを切り替えました。舞台の仕事や習い事など、今までできなかったことを始めたんです。落ち込んでもすぐに立ち直って、楽しいことだけを考えるのは性格なんでしょうね」
このときに長唄を習い始めたが、60歳のときには名取・杵屋勝之邦を襲名するまでになった。
「歌が全然上手にならないので、どうしたものかと思い、長唄の教室に通い始めたんです。トップクラスの先生のところで習い、歌舞伎座に出演するまでになりました。長唄を習ったことで、三味線も弾けるようになり、茶道や着付けも身につきました。
私はお笑いでは師匠がいませんでしたが、長唄で師匠ができて、芸の世界に入れたのはうれしかったですね」

40歳のときには9歳年上の番組制作会社社長と結婚した。
「笑うところが同じだった相手です。人間として結婚を一度は経験するべきかなと思って。結婚式は忘れないように元日にしました。披露宴の台本は自分で書いて、お約束でウエディングケーキに顔を突っ込みました」
突っ走っていた時代から少し落ち着いて人生を歩むようになっていた山田だったが、2007年に乳がんが見つかる。テレビ番組『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』(テレビ朝日系)で、乳がんの自己検診をする回があり、収録に参加していて違和感に気づいたのだ。
「自分で触ったときにゴツッとした感触のものがあって、骨にくっついた感じで動かないんです。イヤな感じがしてすぐに病院に行ったらやっぱりがんでした。2度の温存手術と28回の放射線治療、5年間のホルモン療注で寛解に至りました。もう18年もたちましたね」
乳がんに罹患してからは人生観が変わったという。
「それまでは、やりたいことをやって、いつ死んでもいいと思ってました。暴飲暴食、ストレスマックスで生活も乱れていました。でも生き残ってみると『まだまだ死なないぞ』という気持ちに。おせち料理はあと何回食べられるのか、お花見は何回できるだろう、温泉旅行には何回行けるだろうと日常が大切になりましたね」
検診の大切さをこれからも伝えます
乳がん罹患後は、がんに関わる啓発活動に積極的に参加するようになった。
「がんを公表してから、いろんなところで『私もがんです。一緒に頑張りましょう』と声をかけられるようになりました。がんになるまではわからなかったけれど、こんなに大勢の仲間が頑張っていたんだと気づきました。
それまで集団での活動が苦手だったんですが、がん撲滅を目指す『スター混声合唱団』の団長を務めるまでに。がんになってから友達も増えて、あの名俳優の倍賞千恵子さんもがん仲間として仲良くさせてもらっています。コロナ禍で病院に行くのが遅れ、亡くなってしまった友達もいます。生かされた私は検診の大切さをこれからも伝えていきます」
プライベートでは、面倒見のいい山田を慕う芸能人は多い。ジャンルも世代も異なる演歌歌手の山内惠介もその一人だ。
「邦子さんとの出会いがなければ僕の歌手人生も変わっていたはず。めちゃくちゃ頼りになる姉ですね」と山内は話す。
2人の出会いは、山内がデビュー10周年を迎えたときだ。当時、山田が司会を務めていたNHKのラジオ番組『日曜バラエティー』に山内が出演。子どものころからテレビで山田を見ていたが、「この人とは気が合いそう」という直感があったという。
「番組の後、『飲みに連れていってください』と思い切って言ったところ、邦子さんは快く応じてくれました。人に対する思いや共感することが似ていて、僕の直感は当たっていたんです」
その日を境に山田との交流は深まっていく。焼き肉やお寿司など食事をごちそうしてくれ、誕生日も祝ってもらうようになった。自宅に招かれ、山田と夫から手料理を振る舞ってもらうこともあった。

山田は山内のステージにも足を運び、インタビューでは「推し」として名前を挙げてくれている。ラジオ番組で自分の曲を流してくれるなど、山田の応援が心の支えになっていったという。
「『孤独を感じたときはまず湯船で温まりなさい』と、日常を大事にしている邦子さんならではのアドバイスをもらいました。これまですごく支えてもらったからこそ、今度は自分が邦子さんを少しでもサポートできるような存在になりたいですね」
一方、長い付き合いの鶴太郎は、一緒に飲みに行っても踏み込まない関係を維持してきた。
「山田邦子の世界が確立していましたから、そこに私は立ち入ってはいけないという感じでした。ひょうきん族でコンビを組んで、事務所も一緒で、一番やりやすいパートナーでしたけど、プライベートな部分は知らないまま。それは今も同じですね」
多忙な日々をこなせるのは筋トレのおかげ
山田の再ブレイクを鶴太郎はどのように見ているのだろうか。
「やっぱり邦ちゃんの親分肌の部分はみんなを惹きつける魅力なんじゃないでしょうか。後輩を飲みに連れていって豪快におごるような一面があるから、若手にも慕われるのでしょう。うちの息子が経営する店もよく利用していただいていて、親子でお世話になっています」
再ブレイクといわれる中、テレビ、ラジオ、舞台と活躍を続け、2024年はコメディアンや俳優などが所属する「日本喜劇人協会」の会長にも就任した。65歳の現在も多忙なスケジュールをこなせるのは、筋トレのおかげだと山田は話す。
「年齢とともに筋肉が減ってきていて、このままじゃまずいと思ったんです。コメディアンなので、舞台には走って出ていかないといけないし、ズッコケもちゃんとしなくちゃいけない。
デジタルな時代、頭脳だけで稼げる方がいっぱいいるのに、芸人は現場に行かなければならないアナログな仕事です。だから週1回、トレーナーさんに自宅へ来てもらって指導を受け、普段も朝起きたときや寝る前、階段の上り下りなど、気がついたときに筋トレを心がけています。やれば筋肉は必ずつくので、続けることですね」
最近は70歳の女性マッサージ師のところに月3~4回通って、コンディションを整えている。
「アントニオ猪木さんも担当されていた、業界に詳しい方。ステージに駆け上がったり、一般の人と動く筋肉が違うことを理解してくれています。舞台で足腰の調子が悪くなったとき、『ガードルで横から締めなさい』ってガードルをくださったのですが、本当に足腰の痛みがなくなりました。あと10年は続けると先生がおっしゃっているので、私も先生がいる限り、舞台に立てると思っています」

5年ほど前からは電車も積極的に利用し、日常生活でも歩くことを心がけている。
「山田邦子だと気づかれないよう、こそっと乗っています。都内だと車より電車のほうが早く着きますし、時間が読めるんです。駅で階段を使うので運動にもなる。電車に乗りやすいようリュックサックも何個か買いました」
食事面では好き嫌いが多いことが知られている山田。
「乳がんになってから暴飲暴食を改めましたが、栄養士の資格を持っているのに、普段は好きなものしか食べない(笑)。ただ、時々、大嫌いなものばかり食べて、バランスを取るようにしています。旬のものを食べることも意識していますね」
スイカ好きとしても有名だが、赤いところは食べないという。
「身の部分はおいしいですけど糖分をとりすぎてしまうので、皆さんに赤いところを振る舞って、私は白いところと種を食べています。スイカは冬でも食べていて、スイカのおかげで元気でいられると信じています」
生き生きしている人の話を聞くのが励みに
なかなか極端な食生活だが、お酒は休肝日をつくり、食事をしつこいぐらい噛んで咀嚼。お米は外食時のみと自分なりのルールで健康をキープしてきた。体調は、若いときは寝れば回復していたが、現在は、いいと聞いたものを最大限活用しているという。
「湿布薬も塗り薬も使いますし、入浴剤もいろいろと試しています。何が効いているかわからないけど、いろんな努力をしていると思うことで、お守りみたいな効果もあるのだと思います」
一方、心のメンテナンスとなっているのは、学生時代の同窓会だ。
「これまでみんな忙しかったんですけど、子育ても終わって、お孫さんも大きくなって、自由に動けるようになったから同窓会が多いんです。同い年なのにみんな違う世界に生きているのが面白いんですよ。顔を合わせるとあっという間に学生時代にワープして楽しいです。
グループに元気な人がいるとみんな元気になる。元気は伝染すると思うから、生き生きしている人の話を聞くのが励みになるんです」
時代とともに笑いは変わっていき、スベって落ち込むこともある。
「ウケなくてがっかりしたり、失敗したなと思うことはあります。そんなときはとにかく寝て、明日も落ち込んでたらその続きを考えることにしています。でもだいたい次の日には、落ち込んでいたことを忘れています。忙しくて考える暇がないことにも救われてきました。調子よく忘れることで前向きに生きていけるんですよ」
“一人でも多くの人を笑わせたい”。時代が変わってもその思いを持ち続けてきたことで、再ブレイクがやってきたのだろう。
「65歳になった今も毎日ふざけています。明日、どれだけふざけられるだろうってことしか考えてないです。でも45年もやってこられたのは、マネージャーや先輩やスタッフに恵まれたからですよ。そうじゃなかったら“ただの変な人”という扱いで、きちんと評価はされなかったと思います」

10年後の2035年は75歳。プロ野球・千葉ロッテマリーンズファンの山田は、2035年ごろに完成予定の新球場での優勝を楽しみにしている。
「西岡剛さんから『10年後は僕が監督になって優勝しているからビールかけに呼びますんで』と言われました。75歳でビールかけができるといいけど(笑)」
女性芸人の草分けとして、どんな75歳のお笑いを見せてくれるのか。10年後、面白いシニアのお手本を山田が示してくれることを楽しみにしている。
取材・文/垣内 栄(かきうち・さかえ) IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、 '02年よりフリーライター、編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画、編集、取材、執筆を担当している。