「親でもないのに、こんなに怒ってくれる人をありがたいと感じていました。感謝、それしかないです」
11月13日、肺炎のため亡くなった仲代達矢さんの通夜に駆けつけた役所広司は、涙をこらえながらそう語った。
「役所さんはかつて、仲代さん主宰の、俳優を育成する養成所『無名塾』で演技を学んでいました。仲代さんは日本を代表する役者であると同時に、役所さんをはじめ、益岡徹さんや若村麻由美さんといった演技派俳優を見いだすなど、後進たちの育成にも貢献してきました」(舞台関係者)
昭和7年生まれの仲代さんは少年時代に戦争を経験。高校を卒業した後の1952年に役者を志して「劇団俳優座」の養成所に入所した。
「映画デビューは、1954年に公開された黒澤明監督の『七人の侍』。セリフなしの浪人役でしたが、大柄な体格と彫りの深い顔立ちで存在感を発揮。たちまち黒澤作品の常連となり、当時の大スターだった三船敏郎さんの後継者と評されるほどの役者になりました」(映画業界関係者、以下同)
その後も1959年に公開された『人間の條件』、1980年公開の『影武者』といった数々の名作映画に出演した仲代さん。それを支えていたのは妻の宮崎恭子さんだった。
「ふたりは俳優座の養成所で知り合い、1957年に結婚。宮崎さんは仲代さんより2歳年上で、将来を期待される女優として活躍していましたが、結婚を機に引退。仲代さんの才能に惚れ込み、彼のサポートに専念しました。1975年に無名塾を始めたのも宮崎さんの後押しがあって実現しました」
妻の骨壺を手元に置き続けた
ふたりで後進の演技指導にあたっていた無名塾は“演劇界の東大”と称されるほどの評判を得ていたが、1996年に宮崎さんは膵臓がんにより65歳で他界してしまう。
「ふたりはまったくケンカをしないおしどり夫婦でした。最愛の妻に先立たれたことで、一時は後を追うことを考えるほど憔悴した仲代さんでしたが、後のインタビューで、生前に“ふたりでつくった無名塾を続けてほしい”と言われた言葉に支えられて立ち直ったと語っていました」(前出・舞台関係者、以下同)
その後、年齢を重ねてもなお精力的に演じることに情熱を燃やし続けた仲代さん。亡くなる5か月前まで舞台で主演を務め上げた。
「奥さんの死を乗り越えた仲代さんでしたが、遺骨を墓に入れることだけは、なかなか踏み切れずにいました。“同時にお墓に入りたい”という思いから骨壺を手元に置き続けていたのです。亡くなって10年以上がたって決心がつき、富士山を望む霊園に奥さんの遺骨を埋葬しました」
ふたりの演技への思いは永遠に残り続ける─。
