ヨシダソース生みの親・経営者、吉田潤喜さん(撮影/近藤陽介)

 無一文状態でアメリカに渡った後に年商約250億円の企業のトップとなり、『ニューズウィーク日本版』では「世界が尊敬する日本人100」の一人に選ばれ、日本で外務大臣賞を受賞。アメリカでは“イチローの次に有名な日本人”と呼ばれたことも。

 こうした経歴だけを見れば、私たちとは違う世界線を生きる一流の経営者という印象であろう。

「ヨシダソース」の創業者・吉田潤喜さん

右目を失明していることや在日であることでいじめを経験した(撮影/近藤陽介)

 実は先の経歴は、カウボーイハットをかぶった満面の笑みの写真がパッケージに印刷されている「ヨシダソース」の創業者であり、18社の企業で構成される「ヨシダグループ」の会長・吉田潤喜さん(75)のもの。 

 取材開始直後、吉田さんは何やら慌てた様子でカウボーイハットを取り出すと、「これをかぶらないと、なんだかパンツをはき忘れたような気分になっちゃって」と豪快に笑った。目の前にいる吉田さんは、「ヨシダソース」のパッケージ写真から伝わってくる“おもろいおっちゃん”のイメージそのものだった。

 消費者もきっと、パッケージの吉田さんに同じような親近感を抱き、商品に手を伸ばしているに違いない。

 実際、コストコでおなじみの「ヨシダソース」は、焼き肉はもちろん、煮物や炒め物などの味つけにも使える万能調味料として、効率的においしい食事を作りたい人たちを中心に注目を集めている。

 アメリカンドリームを叶えた選ばれし人間でもある吉田さんだが、今日までに至る道は平坦ではなかった。

商売を営む母の背中を見て育つ

アメリカではしばらくの間、空手の先生をして生計を立てた

 吉田さんは1949年、在日コリアン1世の両親のもと、京都で7人兄弟の末っ子として生まれた。

「僕の家は京都駅の八条口からすぐのところにある、東寺道という商店街にありました。1階がお店で2階が家で、おふくろは焼き肉屋とか、お好み焼き屋とか、喫茶店とか洋服屋とか、いくつも商売を替えていた。写真家の父は芸術家肌で、お金が入るとすぐにフィルム代に使ってしまって、まぁ、貧乏だったねぇ」

 吉田さんは、子どものころから商売を営む母親の姿を間近で見て育った。

「コロコロと商売を替えるおふくろに、『なぁなぁ、損してるから商売替えるん?』って聞いたことがあったんです。おふくろは『アホ! もっと儲かるつもりで替えるんや!』と答えた。つまり、守りに入るのではなく、成長のためにリスクをとるということ。小学校3年までしか学校に通ってないというのに、すごい発想力やと思います。そうしたおふくろの姿を見て育ってきたから、僕はリスクを恐れずに思い切った決断ができる。おふくろの生きざまは僕のメンターになっているんです」

 吉田さんの両親はクリスチャンで、自身も幼少期から聖書に親しんでいる。今でも鮮明に覚えているのは、イエス・キリストが水をワインに変える話だという。

「小学校3年生のころやったと思います。おふくろに水をワインに変える方法を尋ねたところ、『イエスさんは、そういう奇跡を起こすんやで』と言われてね。その答えに納得できず、『水をワインに変える方法を知ってたら、ワインをタダで造って金儲けできるやん』と言った。

 そしたら、『おまえはアホか!』と怒られたけど、なんで怒られたのかわからんかった。当時、おふくろは焼き肉屋で苦労してたから、水がワインに変われば、少しはラクができると思ったんやけどなぁ(笑)」

右目の視力を失ったことでいじめにあう

アメリカではしばらくの間、空手の先生をして生計を立てた

 楽しそうに思い出を語る吉田さんだが、実は4歳のとき、家庭内での事故がきっかけで右目の視力を失っている。

「『やーい、片目』『この片目のチョーセンが』って、右目が見えないことや在日であることが原因でいじめられたし、差別もされた。バカにされないようになるには強くなるしかないと思って、中学で空手を始めたんです」

 ケンカに明け暮れる日々を送り、京都でも有名な「ごんたくれ(乱暴者)」となった。そんな吉田さんの未来を誰よりも憂えていたのが、母親だった。

「部活を通じて暴力団の息子と交流があったし、おふくろは『このまま日本にいたらヤクザになる』って思ったんやろうね。おふくろが工面してくれた500ドルを持ってアメリカに渡ることにしたんです。1969年、19歳のときやった」

 中学3年生のときに東京オリンピックが開催され、吉田さんはアメリカの強さに心を奪われた。強いものに憧れていた吉田さんにとって、アメリカは理想の国だった。

「僕はおふくろに『男やったら、おまえを泣かせたやつのところに行ってまた勝負してこい!』『男のくせにメソメソするんやない!』と言われて育ちました。中でも、日本を出るときにおふくろに言われた『どうせやるんやったら、大きいことをせえ』『世間体なんか気にせず、好きなことをせえや』という言葉は、今でも耳に響いてます」

母のソースが「ヨシダソース」の原点

カウボーイハットが吉田さんのトレードマーク

 渡米後の吉田さんは、中古で買った車に寝泊まりしながらアルバイトで生活費を稼いだ。その後、安いアパートに移り、ビザを取得するためにコミュニティースクールカレッジに通い始めた。

 ここで役に立ったのが、強くなりたい一心で習得した空手だった。黒帯有段者の腕を買われ、コミュニティーカレッジスクールで空手の授業の助手を始めたのだ。その傍ら空手トーナメントに出場して賞金を稼ぎ、自分の道場を開いた。最愛の妻・リンダさんに出会ったのはそれから間もなくのことだった。

妻のリンダさんとパーティーにて

「僕は日本でもアメリカでも、女の子にめちゃくちゃフラれてた。フラれて落ち込んでもすぐに立ち直って新しい出会いを探し、見つけたのがリンダやねん。笑顔に一目惚れして出会って2週間でプロポーズした。恋愛も仕事もみんな同じで、何かを始めるには瞬発力が大切。10秒の決断なんや」

 結婚後、空手道場の生徒は順調に増えていたが、1981年になると不況のあおりを受けて生徒が激減。生徒からもらったクリスマスプレゼントのお返しを買うことができないほど困窮していた。

「そこで思いついたのが、おふくろが焼き肉屋で作っていた手作りソース。8時間かけてしょうゆとみりんを煮込んだソースを瓶に詰め、クリスマスプレゼントのお返しとして渡したところ、好評でね。『お金を払ってでも買いたい』という生徒さんたちの声を聞いて、これは商売になると思ったんです」

実演販売をする吉田さん

 吉田さんはリンダさんとともに手作りソースを作り始めた。これが「ヨシダソース」の原点だ。その後、販路拡大のため「ヨシダフーズ」を設立したが、「ヨシダソース」はなかなか売れない。

 そこで、起爆剤として考案したのが着物姿にカウボーイハットという奇抜なスタイルでの販売だった。

「アホみたいな格好で店頭販売をするたびに、お客さんにゲラゲラ笑われて恥ずかしかった。でも、『ヨシダソース』は売れた。今でも同じことをしているけど、もう誰も僕を笑ったりせん。僕は初心を忘れないために、42年間こうしてカウボーイハットをかぶり続けているんです」

 カウボーイハット姿の実演販売をきっかけに、吉田さんは1983年、創業したばかりの会員制スーパー、コストコと取引を始めた。経営は順調で、憧れだったベンツを手に入れた。

「あのころのアメリカでは調子がいい経営者はベンツやったし、やっぱり乗りたいと思うやん? ベンツ買ったら、『よう頑張ったなぁ』って褒めてくれてもええやん? でも、おふくろは僕に電話をよこして『おまえ、調子に乗ってんちゃうんやろうな』って言ったんです。受話器越しに聞いたその言葉は、いまだに耳に残ってる。

 振り返ってみると、調子に乗った経営者はみんな会社をつぶしてる。見栄を張ってると、会社も人間関係もどこかで破綻するもんなんや」

 ちなみに現在の愛車はプリウスで、どこへ行くにも自ら運転をしているそうだ。「運転手はいないんですか?」と驚く取材スタッフに、吉田さんは「運転手なんていらん!」と断言した。

「運転手つきの車なんて、サラリーマン社長のアホが乗ってるだけやねん。僕の大の友人のフィリップ・ナイトはナイキの創業者で、ジム・シネガルはコストコの創業者やけど、彼らは自分で車を運転して会社に来る。そんな姿を見ていたら、運転手なんてつけられないでしょう。日本人っていうのはほんまに、見栄を張りよんねんなぁ」

寄り添ってくれた妻のおかげで今がある

1974年、妻のリンダさんと結婚後初めての日本で京都に

 ヨシダソースはこれまでに4度も経営危機に陥っている。どんなときもそばにいたのが妻のリンダさんだった。

「事業の資金繰りがうまくいかなくなって、やけ酒をあおって会社にある酒という酒を全部飲み、それでも飲み足りなくてみりんまで飲んで悪酔いして(苦笑)。酔っ払って家に帰った僕を、リンダは『家を売って安いアパートに引っ越しましょ』と励まして、ウイスキーのボトルを差し出してくれた。

 何度会社が傾きそうになってもケロッとしていて、何も言わずにそばにいてくれた。あれほど心強いサポートはなかった。リンダは本当に自分にとってエネルギーであり、本当に天使でもあった」

 崖っぷちから何度も這い上がってきた吉田さんだが、一度だけピストルを手に自死を覚悟したことがあるという。

「ピストルをこめかみに当てるうちに、『なんでわしが死ななあかんねん!』、アホらしーなってしらけてしまってね。自死をしそうになったことはリンダには黙ってたけど、ずっと後になって僕の本をきっかけに知ったみたいで、『あんた、バカじゃないの?』と呆れられてん(笑)」

「ありがとう」を言葉にし、いつまでもラブラブな吉田さん夫妻

 吉田さんはほかにも、リンダさんにドン引きされたエピソードがあるそうだ。

「オレゴン州の知事が空手道場の生徒だった縁で州の最高経済顧問をしていて、一緒にパナソニックとか島津製作所とか京セラに視察に行ったことがあってね。どの会社にも創業時の白黒写真が飾ってあるのを見て、“この人たちは、創業当時から将来成功すると信じて写真を撮るだけの余裕があったんやなぁ”と思ってね。

 うちの会社は僕が瓶にソースを詰めて、リンダが手作業でラベルを貼って、毎日ソース作りに追われてたから、当時の写真があらへんねん。だからあるとき、リンダに『白黒で昔のフェイク写真を撮ろう』って提案したら、『アホか!』と怒られました。『そんなに頭がハゲてるのに、今さら何言ってんの、すぐバレる』って(笑)

 吉田さんが話すエピソードからは、明るく働き者で地に足がついた暮らしを送る妻の姿が浮かび上がる。

「リンダは宝石が好きで、アクセサリーをいっぱい持ってる。でも、ほとんどがニセ物やねん。『ニセ物ばっかりじゃなくて本物も買ったら?』ってすすめたら、彼女は『ハニー、私がつければみんな本物になるのよ』って言った。リンダがこういう人だったおかげで、ブランド品も一切なしで、僕はここまで来れたんです」

お子さんの幼少期にクリスマスカード用に撮った家族写真

 愛妻家の吉田さんに夫婦円満の秘訣を教えてもらった。

「僕とリンダはコーヒーを手渡すときでも、お互いに『ありがとう』って言うねん。電話を切る前には『アイラブユー』やし、寝る前にも『アイラブユー』。結婚してるから愛してるのは当たり前だと思ってても、言葉にしてなんぼやねん」

 愛情あふれる家庭での吉田さんの様子を、後継者の19歳になる孫のキアナン・ヨシダさんに教えてもらった。

「祖父は料理を作るのが好きで、家族みんなが祖父の家に集まると手料理を振る舞ってくれるんです。一番好きな料理はお好み焼きで、みんなで食べるひとときがすごく楽しいんです」

恩返しをすることが仕事の原動力

お子さんの幼少期にクリスマスカード用に撮った家族写真

 取材中、吉田さんが何度も口にした言葉のひとつが「恩返し」。この言葉の出発点は、結婚1年目の1974年、長女のクリスティーナさんの誕生までさかのぼる。

 生後4日もたたないクリスティーナさんの体調が思わしくなく、病院を受診したところ、命の危険があることが判明したのだ。

 幸いなことに、シアトル子ども病院に入院して治療を受け、クリスティーナさんは快方に向かった。

 安堵する吉田さんの頭に浮かんだのが治療費のことだった。国民皆保険制度がないアメリカでは、日本円で数百万円という大金が請求される可能性があったのだ。

「でも、病院から請求されたのはたったの250ドルで日本円で数万円。こんなに安いはずはないと思って確認したところ、『困ったときはお互いさま。こうしたときのために、私たちはチャリティーでお金を集めているんです。それよりも娘さんが助かってよかったですね』と言われて涙が出た。“チクショー、今に見とれ! いつか金を儲けて絶対、恩返しをしたる!”と決めたんです」

 事業が軌道に乗って間もなく、吉田さんはシアトル子ども病院と姉妹関係にあるポートランドのドウエンベッカー子ども病院の理事を務めるようになり、2019年には20年間住んだ東京ドームよりも広い、敷地面積2万5000坪の自宅をランドル子ども病院に寄付した。ポートランド市内にある同病院は、難病の子どもや保険に加入していない不法移民の子どもを積極的に受け入れているそうだ。

「でも、まだまだ恩返しが足らんねん。僕の商売の原動力は、お世話になった人たちに恩返しをしたいという気持ち。『今に見とれ! 絶対、恩返しをしたる』って今でも思ってるんです」

 その思いと同じくらいの熱量で、吉田さんに恩返しをしたいと思っている人もいる。その一人が食品メーカーに勤務する兼田佑子さんだ。

「以前、『ヨシダソース』を使った商品を企画した際、吉田会長とオンラインでお話をさせていただいたことがあるんです。緊張する私に、吉田会長はフレンドリーに接してくださいました」

 その商品は発売されたものの、とある理由で多くの在庫を抱えることになってしまった。悩み落ち込む兼田さんに救いの手を差し伸べたのが吉田さんだった。

「アメリカから電話をくださり、『俺は4回も破産しかけた男や』『ピンチはチャンスやで』と励ましてくださったんです。次の日、出社したところ、某スーパーから在庫の商品を取り扱いたいという話が来ていました。会長がそのスーパーの社長さんに連絡をしてくださったんです。おかげで在庫をきれいに売り切ることができました。それ以来、会長には一生をかけて恩返しをしていこうと思っているんです」

「金儲け」よりも「人儲け」を大事にする吉田さんの笑顔は人の心を動かすパワーを持つ(撮影/近藤陽介)

 恩返しの機会はほどなくやってきた。現在ファミリーマートで販売されている「ヨシダソース」とのコラボ商品には、吉田さんの顔写真が使われている。兼田さんは、顔写真入りのパッケージを後押しした立役者だ。

「そのコラボ商品に弊社も関わることを知ったんです。私はまったく違う部署なのですが、商品開発に関わらせてもらい、『パッケージに会長の顔写真を入れたほうが、絶対売れます!』と主張しました。私は吉田会長の人となりや人生を日本中に広めていきたいと思っているんです」

 吉田さんいわく、ファミリーマートとのコラボ商品は好評を博しているそうだ。

「不思議なもので、金を追いかけても逃げられるけど、『恩返ししたる!』って人を追いかけると、金が入ってくるねん。僕は金儲けよりも人儲けがしたい。だからもう、お金なんかいらんねん」

 そうきっぱりと言い切った後に、ヒソヒソ声で「まぁ、お金がいらんというのは建前なんやけどね」と舌を出して付け加え、いたずらっ子のような顔をした。世界に知られる経営者に対して失礼かもしれないが、吉田さんには「かわいい」「おちゃめ」といった形容詞がよく似合う。

 その人柄について、吉田さんのファンである接遇コンサルタントの黒島慈子さんは、次のように語る。

「吉田会長と一緒にコストコで店頭販売を経験させていただく機会があったんです。アメリカ人のお客様は自分から会長に話しかけておしゃべりをしたり、記念写真を撮ったりしているのですが、日本人のお客様は少し離れたところから様子を見ていました。

 会長はその方たちに自ら『こっちに来いや』と声をかけて、試食をすすめたりお話をしていました。皆さんと和やかに交流する姿を目の当たりにして、会長がおっしゃっている『金儲けよりも人儲けや』という言葉の意味をあらためて理解しました」

 公私にわたる吉田さんの姿を知っている一人が、ヨシダグループ副会長のヘースー・ソリスさん。現在は吉田さんの右腕として組織を支えるソリスさんだが、出会いは30年ほど前にさかのぼるという。

「彼とは家族ぐるみの付き合いで、一緒に育ってきたような感覚があります。知り合ったころの私はまだ若く、彼は面白い人で、まじめな人でもあるという印象でした。2017年から一緒に仕事をするようになり、非常に情熱的に仕事に取り組む人だと感じています」

人との出会いが健康の秘訣

ファミリーマートとのコラボ商品には吉田さんの顔がプリントされている(撮影/近藤陽介)

 会社の後継者がいないこともあり、吉田さんは2000年に「ヨシダソース」の米国内の販売権をライバルのハインツ社に売却した(国外での販売権は保持)。だが、2024年に販売権を買い戻している。その理由は、孫のキアナンさんが後継者に名乗りを上げたからだ。

「孫に『将来、ヨシダグループに入ってもいいですか?』と言われ、その日の午後に元副社長でもある顧問弁護士に販売権を買い戻すようにと連絡したんです」

 実はハインツ社に販売権を売却してから、「ヨシダソース」は販売網も販売数も70%縮小していたという。

「コストコにもウォールマートにも置かれなくなってブランド価値が落ち、二束三文の状態やった。アメリカでは食品のブランドがつぶれたら、それを立て直すのに30倍の資金が必要なんです。それでも買い戻し、コストコの元最高副社長のジョン・マッケインに連絡したら、一瞬にしてアメリカのコストコ全店での販売が決まりました」

 その後、友人の働きでウォールマートへの販路も戻り、現在は以前の売り上げに戻りつつあるそうだ。

「彼らとは若いころから仕事を通して付き合いがあるから、僕は信用されてんねん。だから困ったときに助けてもらえている。自分ではどうしようもならなくなったとき、力になってくれる人間がどれだけいるかで、人生は開けていくんや、人生まさにブーメランでっせ!」

 吉田さんの後継者となるキアナンさんは、現在、南カリフォルニア大学(USC)で行動経済学を学んでいる。

「祖父は一代で今の会社を築きました。僕は子どものころから祖父の仕事ぶりを見ていましたし、祖父が築いてきたものを引き継ぎ、この先も伝えていきたいです」

 現在、日本語を勉強中で、来春には東京都内の大学に留学予定だというキアナンさん。好きな日本語は、ヨシダグループのモットーでもある「OMOIYARI(思いやり)」だそう。

「ビジネスでも普段の生活でも、“思いやり”が何よりも大切だということを祖父から教わってきました。祖父から学びたいことは、まだまだたくさんあります」

 キアナンさんという後継者ができた今、この先の展望はどのようなものなのか。

「『ヨシダソース』はかけるだけでもおいしいし、煮込んでもおいしい。肉料理にも魚料理にも使えるから、料理のバリエーションが多い日本でもっと広めていきたい。孫のためにも経営の足元をしっかり固めてあげたいんです」

 吉田さん個人としては、次のような夢があると語ってくれた。

「『パッチギ!』っていう映画があるでしょ? 当時の僕はあれくらい悪くて不良やった。ケンカばっかりしてたけど、なんでケンカをするかというと負けたときの恐ろしさが怖いから。戦争も同じで、負けたり殺されたりするのが怖いから戦ってる。人間ってそんなもんだと思うんです。

 そういう自分の弱さを認めると、ものすごいエネルギーが湧いてくる。だから僕は、若者に僕の生き方を通して人生学を教えたい。一般的な若者にはもちろん、少年院の慰問にも行きたいと思ってます」

 最後に、75歳の今も第一線で活躍する元気の秘訣を尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。

「人との出会いにウキウキするんです。それが僕の一番の健康法やなぁ。人にも仕事にもワクワクして、いつも何かに恋してる。だけど、僕にはリンダがおるからね。惚れたらあかんで(笑)」

来年4月、広島で5000人を集めて「人生金儲けやない人儲けやで!」講演会開催も予定

<取材・文/熊谷あづさ>

くまがい・あづさ ライター。1971年宮城県気仙沼市生まれ。埼玉大学卒業後、会社員を経てライターに転身。週刊誌や月刊誌、健康誌を中心に著者インタビュー、人物インタビュー、書評、医療・健康情報などの取材・執筆を手がける。著書に『ニャン生訓』(集英社インターナショナル)。