国際的な「きこえない・きこえにくい人のためのオリンピック」として開催されているデフリンピック。記念すべき100周年大会となった「東京2025デフリンピック」が11月26日に閉会した。日本選手団は金16、銀12、銅23の計51個のメダルを獲得。金メダルの数もメダル総数も史上最多となる活躍だった。
中でも、開催前から注目を集めていた男子陸上の山田真樹選手は、400メートルで日本人第1号となる金メダルを獲得すると、200メートルで銀メダル、4×400メートルリレーで金メダルと、1人で3つのメダルを勝ち取る大活躍だった。
そんな山田選手が、閉会式翌日の27日、『週刊女性』の単独インタビューに答えてくれた。
競技スタートの合図で苦労も
「今回のデフリンピックはデフスポーツだけではなく、聞こえない人たちが抱える問題や日常を知ってもらえるチャンスでした。そのぶん、プレッシャーも大きかったですが、僕は本番に強いんです!」
そう手話を通じて語ってくれた山田選手。昔から特別足が速かったわけではなかった。
「身体を動かすことは好きでしたが、運動会とかでもトップになったことはなくて、中学校も最初は卓球部でした。1年生のときに東日本大震災を経験して、イギリス人の母と一緒に渡英したんです。でも、日本に帰りたくって、1か月後に母と帰ってきたら急に足が速くなっていたんです! 行きは母と2人でしたが、帰りは3人だったんですよ。誰だと思います? 僕の後ろに陸上の神様がついてきてくれてたんです(笑)。信じるか信じないかは、あなた次第!」
真偽はさておき、高校へと進学すると、その才能は一気に開花する。
「最初は、ろう学校の大会に出場していました。すぐにメダルも取れて、タイムも一般の選手と競えるくらいであることがわかりました。高いレベルで戦うために、2年生からはインターハイ出場に向けて練習を始めたんです」
しかし、トラック競技のスタートの合図はピストル。山田選手は補聴器を使えば何とか音を聞くことができたものの、雨の日はそれが叶わない。ピストルの硝煙や光を見るために、どうしてもスターターを見る必要がある。
「400メートル競技はスタートですべてが決まるわけではありません。でも、みんなが下を見てスタートを切る中、自分だけ横を見なくてはいけない。正しいスタートができなくて、少なからずロスが出てしまうんです」
国境を越えた絆
それでも一般の選手とともに研鑽を積み、大学時代には苦労が報われることに。
'17年にトルコで行われたデフリンピックに出場すると、200メートルで金、400メートルで銀、400メートルリレーでも金と大活躍。
さらに山田選手を勇気づけたのが、当時初めてデフリンピックで採用されたスタートランプの存在だった。スターティングブロックの前に設置したランプが「赤」から「黄色」へ、最後に「緑」に変わることで、選手にスタートの合図を送る。実は、このランプの開発にも山田選手は大きく関わっている。
「ランプを開発したのは、僕の高校の陸上部顧問だった竹見昌久さんです。スタートの音が聞こえなくて走り出すことができずに泣いて帰ってくる選手を見て、何とかしたいと考えてくれたんです。音を目に見える光にしてくれて、僕も開発に携わるようになりました。自分にとってスタートランプはただの光ではない。“希望の光”なんです」
そんな山田選手を失意の底につき落としたのが、'22年のブラジル大会だった。新型コロナウイルスの影響で大会途中に日本選手団の棄権が決まり、帰国することに。
「棄権が決まったのは200メートルの予選を走る直前のことでした。先に行われた100メートルの決勝でメダルを逃してしまい、気持ちを切り替えていたところで帰国が決まったんです。メダルを取るか取らないかは今後の人生にも影響することです。ライバルが走っているとき、僕は宿舎のベッドの上で、ずっと天井を眺めていました」
失意に暮れた山田選手を救ったのは、'17年のトルコでのデフリンピックで200メートル2位のウクライナ選手だった。
「トルコ大会をきっかけに仲よくなって、終わってからもインスタグラムでやりとりをしていました。それからロシアとウクライナが戦争になり、ウクライナの選手たちがブラジル大会に行けるよう僕はクラウドファンディングを始め、ブラジルで再会し、励ましの言葉を伝えました。そんな彼から“諦めないでよ。また一緒に走ろうね”と動画をいただいたんです。ついこの間までは、励ます立場にいたのに今度は逆に励まされる立場になりました。海を越え絆が深まった瞬間でした。国境を越えて、耳が聞こえない者同士が仲を深めることができるすごい場所なんです」
妻からの手紙
そして迎えた東京大会だが、山田選手の調子は今までにないほど最悪なものだった。
「7月に子どもが生まれ、引っ越しもして、環境も大きく変わりました。熱が出て、治ったと思ったら、またぶり返したり。“なんで体調管理くらいできないんだ!”と自分でも嫌になるくらいでした。デフリンピックが始まる直前には、400メートルを棄権することも本気で考えていました」
山田選手を救ったのは、中学生時代の同級生である妻からの6枚の手紙。その言葉が彼の心を軽くしたという。
《アスリートとして活動するには「楽しい」という気持ちだけじゃなくて、責任も必要だよね。中高大の頃と比べてものすごくしっかりしてきて、人間としても社会人としても男としても一回り二回り皮がむけたなと惚れ惚れします。でも、私は楽しさ多め責任少し的な気持ちで走って欲しいなと思うのです。どんなタイムでも、そんな結果でも、真樹が真樹らしく走れたらそれで私は幸せです》(原文ママ)
結果、メダル3つ獲得という素晴らしい成績で大会を終えた山田選手。実は彼にはもう一つ大きな夢がある。それは表現者の道だ。'22年には、フジテレビ系で放送された連続ドラマ『silent』に出演したことも。
「実は俳優としても活動しているんです。ろう者をテーマにした作品はこれまでたくさんありますが、いずれも健常者の俳優が演じてきました。ろう者の中には、それに違和感を覚える人もいます。そういう役柄を演じていきたい。それに、ろう者をテーマにした作品でなくても、普通の作品の中にろう者の役があってもいいと思うんです。僕を使ってもらうことで、作品の中に自然とろう者が溶け込んでいく。そういう世界を自分がつくっていきたいんです」
聴覚障害のことをもっと知ってもらおうと、彼は発信を続けていく─。
