中島京子さん 写真/新潮社

 直木賞受賞作『小さいおうち』をはじめ、家族や社会、歴史など多様なテーマの作品を発表し続けている中島京子さん。最新作『水は動かず芹の中』は、河童の視点で豊臣秀吉の朝鮮出兵の歴史を描いた長編小説だ。

この小説は河童がいないと書けなかった

数年ほど前、仕事で鹿児島に行ったことがあったんです。そこの博物館で見た年表に、秀吉の朝鮮出兵のことが載っていました。薩摩藩主である島津家が、明(当時の中国の王朝)と手を結んで秀吉と戦う計画があったという趣旨のことが書かれていて驚きました。私が想像しているより、当時でも外国がずっと近い存在だったんです

 本作の中で大きな存在感を放つのが、“銀非の器”と呼ばれる焼き物の茶碗だ。

秀吉の朝鮮出兵後、朝鮮半島から連れてこられた陶工が日本の焼き物の基礎のほとんどを築いています。実はそれ以前にも陶工が来日していて、唐津焼の日本初の登り窯は朝鮮半島から来た陶工によってつくられたといわれているんです。唐津の焼き物に関する話も興味深く、朝鮮出兵の時代のことを書いてみたいと思うようになりました

 物語は、スランプに陥った女性の小説家が唐津に旅をするところから始まる。

冒頭の部分は私の実体験に重なります。朝鮮出兵の時代のことを書きたいと思いつつも、武将が誰と手を組んでどのような戦いをしたのか、ということにあまり興味を持てなくて……。“戦国時代のことを書くのは失敗だったかもしれない”という気持ちが長いこと続いていて、なかなか書けずにいたんです

 締め切りが迫る中、唐津への取材旅行を機に突破口が見えてきたという。

唐津には河童の伝説があるんです。思い切って河童の視点で朝鮮出兵を書き始めたところ、河童と朝鮮人の陶工と器の話がうまくつながり、物語が転がり始めました。この小説は河童がいないと書けなかったように思います

 本作は、唐津へ旅行した小説家が地元の窯元の夫婦から聞いた、河童が伝えたとされる『水神夜話』によって構成されている。

 秀吉の朝鮮出兵を知った河童たちは、多くの仲間たちが巻き添えになることを危惧して阻止しようとする。だが、正直者で非力な河童には、人間に太刀打ちできるほどの知恵も武力もない。

 河童たちは水中を移動する、周囲の色に擬態するといった特性を生かして武将らの計画を聞き、味方になりそうな人間にその話を伝えていった。

調べれば調べるほど悲惨な歴史であることがわかった

 そのうちの一人が秀吉と親しい間柄の千利休で、接点を持った河童は利休から名前を授けられた。

中島京子さん 写真/新潮社

“利休”の字を逆にすると“休利(きゅうり)”になることに気づいたときはうれしかったです。利休が河童に“きゅうり”と名づける場面は、自分でも好きなシーンのひとつです

 河童たちは徳川家康、島津義久、豊臣秀吉など武将らに接近し、時に親しみ、時に敵対していく。

「京都の伏見にある黄桜という日本酒の会社に河童資料館があって、全国の河童の目撃情報を記した地図があるんです。その中には江戸時代のころの目撃情報もあります。今と昔では社会背景も違いますから、当時の人は河童に会ってもそう驚かなかったかもしれないですし、中には仲良くしていた人もいたかもしれません。河童も『水神夜話』もすべて創作なのですが、河童は本当にいるんじゃないかなぁと思っているんです

 教科書などでは「文禄の役」「慶長の役」と記されている秀吉の朝鮮出兵は、16世紀最大の国際戦争だといわれている。戦争には残酷な出来事がつきものだが、本作からは血生臭さはあまり感じられない。

当時のことを調べれば調べるほど悲惨な歴史であることがわかり、小説にはできないのではないかと思ったこともありました。河童が見聞きしたことを描くことで生々しさが薄れ、河童に助けられて書いた小説なんです

 物語の随所から、中島さんの河童への愛情が伝わってくる。例えば、「るるんぶつるんぶ」という表現だ。作中では「河童の踊り、もしくは『ぶらぶらする』という意味である」と記されている。

河童について調べる中で、草野心平さんの『河童と蛙』という詩に行き当たったんです。この詩の中で河童の踊りの描写が『るるんぶつるんぶ』と表現されていました。かわいい言葉だなぁと思い、使わせていただいたんです

 物語の後半には、小説家が河童の子孫とおぼしき男性に次のような言葉をぶつけられる場面がある。

タイトルは芥川龍之介が詠んだ俳句から引用

─《河童は生まれて来るかどうかを選ぶようになったんだ。こんな世の中に、誰が生まれて来たいもんかね。それでもう、河童はいないんだよ。生まれてこないからね》─

河童を描くにあたり、芥川龍之介の『河童』をかなり参考にしていまして、河童が生まれるかどうかを選ぶというのは『河童』で書かれていることです。本書に登場する河童たちは、これまで人間がやらかしてきたことに怒っているんじゃないかなぁという思いが私の中にあるんです

 タイトル『水は動かず芹の中』には、河童に関するあるイメージが込められている。

芥川龍之介が詠んだ『薄曇る 水動かずよ 芹の中』という俳句からタイトルを引用しました。私の中には河童が芹を食べているイメージがあったんです。調べてみると“芹を摘む”という言葉には徒労という意味があり、河童が一生懸命に戦を止めようとする物語にも通じると思い、タイトルを決めました。物語には大河ドラマなどでおなじみの武将なども登場します。歴史好きの方にも、ファンタジーが好きな方にも楽しんでいただけたらうれしいです

最近の中島さん

家の庭に、祖母の時代に植えられた柿の木があるんです。自慢したいほどおいしい甘柿なのですが、鳥との奪い合いが続いていて……。人間には柿が青いうちに採って追熟させるという知恵がありますから、高枝切りばさみを買ってきたんです。これで、届かなかった柿も収穫できますし、もう鳥には負けません(笑)

中島京子著『水は動かず芹の中』(新潮社)

取材・文/熊谷あづさ

中島京子(なかじま・きょうこ)/1964年、東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』で小説家デビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞、2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞、柴田錬三郎賞など受賞歴多数。他の著書に『長いお別れ』、『やさしい猫』などがある。