デビュー45周年を迎えたアーティスト、EPO(65)の快進撃が止まらない。
1980年3月21日、シングル/アルバム『DOWN TOWN』でデビュー。今年10月1日には資生堂のCM曲『う、ふ、ふ、ふ、』や『Gift~あなたはマドンナ~』のセルフカバーを含むポップなEPO満載のアルバム『EPOFUL』をリリースした。
シティ・ポップブームで世界中から注目が
「もし私がEPOファンだったら、こんなEPOを聴きたい! それが『EPOFUL』のコンセプトです。歌に出てくるモチーフは私の実体験ばかり。愛の痛みをポップスにして歌うことで過去の悲しみを昇華できたように思います。
歌詞を書きながら当時の自分の本当の気持ちに気づかされることもあって。自分自身の心の変容がアルバムになった感じです」
こう今作について話すEPO。9月に東京と大阪で行われた『EPO ベスト・ヒット・ライヴ45th Anniversary PARTY!!』にはアルバムの発売を待ちわびる熱狂的なファンが会場に詰めかけた。ここでEPOは『う、ふ、ふ、ふ、』をはじめ、『DOWN TOWN』『土曜の夜はパラダイス』など往年のヒットソングを披露。
こうした楽曲は、シティ・ポップブームも追い風となって今、世界中から注目を集めている。そんな中、満員のファンを前にしてEPOが思わず「ごめんね」と言って涙をこぼすひと幕もあった。
「活動の拠点をロンドンに移したり、10年の年月をかけ熟成させたアルバム『AQUA NOME』をリリースしたり。これまでの選択を後悔していません。でも私は自分が自分でいることに精いっぱいの時代が長くて……。私の音楽を待っていてくれた人たちがこんなにたくさんいてくれて、そんな尊い仕事をしていた自分に気がつきませんでした。
それでも、そんな未熟な私のことをみなさんが待っていてくださった。なのでファンでいてくれたみなさんに、心から謝りたくなったんです。みんなの気持ちを想像してあげられなくて本当にごめんなさい、と」
実はEPOには、ポップなEPOを封印し、コマーシャリズムと距離を置いていた時代がある。デビュー曲『DOWN TOWN』が人気番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)のエンディングテーマに抜擢され、瞬く間にスターダムへと駆け上がった。デビューしてわずか3年の間にEPOはアルバム5枚、シングル曲5曲をリリースしている。
「次から次へとCMに起用されるシングル曲を作るプレッシャーはかなりありました」
それでもEPOの場合は、15分もあれば曲ができてしまうという特技があった。
「私の場合は曲のアイデアが浮かぶと、とにかく近くにある紙に五線譜を引いてメモ。そのまま放っておいて曲がふくらむのを待つんです。言ってみれば、犬が土に埋めた宝物を掘り出す感覚に近いかもしれない」
そう言っておかしそうに笑う。しかしいくら音楽の神様に愛されているEPOでも、スタジオと自宅を往復するだけの、味気ない毎日が続くとさすがに精神的にも追い詰められていった。
そんなとき、資生堂の春のキャンペーンCMの話が舞い込んできた。そこで生まれたのが皮肉にもEPOにとって最大のヒット曲となった『う、ふ、ふ、ふ、』である。
イギリスのレコード会社から世界デビュー
「当時はあの曲の元気さについていくのが精いっぱいで歌うことを楽しめませんでした」
そんな彼女に転機が訪れたのは'88年のこと。イギリスの「ヴァージンレコード」から世界デビューのチャンスが訪れる。
「28歳のとき、今後の方向性に悩んでいた私に、元気なEPOもいいけど君の声にはもう少し違うアプローチが似合うよと言われ、深い味わいのあるミディアムテンポの曲やバラードを何曲も作り、歌いました。
アルバム『FIRE&SNOW』、シングル2曲をリリースしただけで終わってしまったけど、イギリスで過ごした2年間は、私にとってとても貴重な経験になりました」
今まで海外に目を向ける暇などなかったEPOにとって、この2年間に見たり聞いたりしたものが、その後の糧となり、新たなスタートを切るきっかけになった。
'91年、イギリスから帰国したEPOはレコード会社を移籍すると、よりオリジナリティーにあふれたEPOワールドへの挑戦を始める。'92年、ブラジル音楽に造詣の深い日本人アコースティックバンド「Choro Club」とコラボして作ったアルバムが、EPOにとって大きな転機となる。
「アルバム『WICA』は、生き方と歌が離れないようにしよう。そう心に決めて作りました。ブラジル音楽はもともと好きだったのですが、『Choro Club』との出会いが、この後の音楽活動を大きく変えるきっかけになりました」
そして'09年。EPOワールドの一つの到達点といわれる傑作『AQUA NOME』が生まれる。
「目を閉じると周りを海に囲まれた島の上を飛ぶ絵が浮かんで、元からその島にあった歌を思い出すように、蛇口をひねるように1日に何曲も曲が降りてきました」
この曲をEPOは42歳を迎える年に初めてライブで披露。10年の時をかけ熟成させてアルバムとして発表した。このアルバムを完成させるとEPOにもある心境の変化が訪れる。
「自分の本当にやりたい音楽をやるようになったら、今までつらくて歌えなかったポップな曲が歌えるようになった」
しかしこの心境にたどり着くまでには、さまざまな葛藤があった。EPOは幼いころから、人には言えないトラウマを抱えていたのである。
「精神疾患のある母の異常行動に日々苦しめられたり、信頼していた音楽出版社の印税の横領、事務所からのギャラの未払いなど、金銭トラブルに見舞われ続けました。その経験から人間不信に苦しみ、かねて興味を持っていた退行催眠によるカウンセリングを本格的に受けました」
がんじがらめに縛られていたトラウマから、心を解き放ちたい。そう思っていた矢先、EPOは'03年に上演された宮崎あおい主演のミュージカル『星の王子さま』で夫となる俳優の宮川雅彦氏と共演。運命の出会いが訪れた。
夫との出会いと母との絶縁
「私は母の影響で、常に幸せになることに制限をかけていました。でも彼と出会ったことで、母との関わりを完全に絶つことに罪悪感を持つことをやめました」
その1年後、長年いさかいを続けてきた母と義絶。宮川氏と2人で生きていく覚悟を決めた。本格的に心理学とプロの補完医療の施術師の資格を取るために、夫となった宮川氏と共にアメリカに4年間留学。2人で全米催眠療法協会認定催眠療法士や、全米NLP協会認定NLPマスター・プラクティショナーなどの資格を取得。
やがてEPOは夫と神奈川県葉山町でカウンセリングスタジオ『MUSIC&DRAMA』を始めた。
「自分もとてもつらかったので、さまざまな問題を抱え生きている人たちの“心の旅”の手助けができたらいいなと思っていたんです」
そして'11年。EPOにもうひとつ人生の転機が訪れる。東日本大震災後、葉山町の家を残したまま沖縄本島での生活を始めたのだ。
「千葉に暮らす宮川の両親が心配で、最初は2世帯で那覇のアパートに疎開していました。その1年後、広い畑のある家に引っ越して、今は野菜や果物、花に囲まれて暮らしています。沖縄暮らしは、もう15年になります。
バナナの木が20本生えていて食べきれないほどとれるんです。フリーザーバッグに入れてつぶし、板状にして冷凍保存。ヨーグルトやアサイーのサラダにしたり、バナナダイキリを作ってみたりして楽しんでいます。沖縄に来て、食への意識がますます高くなりましたね」
畑仕事と庭仕事で英気を養いながら、EPOはデビュー50周年に向けて早くも思いを巡らせている。
「今も第一線で活躍するキーボード奏者の清水信之さんは高校の1年先輩。ギターの佐橋佳幸くんは1年後輩と、高校時代からの音楽仲間がそろいました。せっかく息の合ったチームができたのだから、今のEPOをもっと見てもらいたい」
シティ・ポップの立役者といわれるアレンジャーの清水信之。人気ギタリストで松たか子の夫としても知られる佐橋佳幸。この2人がサポートする、来年のバレンタインデーに行われる「ビルボードライブ東京」のチケットは発売即ソールドアウトとなった。帰ってきた“ポップなEPO”の人気は、デビュー50周年に向けてさらに加速しそうだ。
取材・文/島 右近
